「当会の技術について」カテゴリーアーカイブ

【手首をつかまれるのが何故合気道では重要なのか?】その3

前回の続きです。井口師範は、実戦上意味を持たない手首をつかまれる稽古が何故合気道に必要と言われたのかをもう少し詳しく説明します。

井口師範からお教えいただいたその意義の中で最も大きな理由としてあげられるのが、合気道独特の力の出し方(呼吸力)を鍛えるためであるということです。

では何故、呼吸力の稽古が最もしやすいのかということですが、それは相手との接触時間が非常に長いことがあげられます。

そして、接触時間が長いことで、どんな特徴があるかというと
①相手の微妙な力の変化が分かため、相手の意図が読みやすい
②逆にこちらの力の変化が伝わりやすく意図が相手に読まれやすい

このように接触時間が長いと、相手の意図が読めるが、相手にこちらの意図が伝わりやすいという長所がそのまま欠点となる両刃の剣となります。

そこで学べることは、こちらの意図通り相手を導くことができるかという技術を磨くのに非常に都合がいいということです。

実は相手を導くには、こちらの意図が読まれてはいけないのです。ですから、相手にこちらの意図が伝わりやすい状況で、如何にこちらの意図が相手に読まれないかというスキルが非常に大切になります。要するにどう情報を遮断するかという問題です。

この情報遮断の技術は数種類ありますが、秘伝ですので、そのスキルはブログ上では説明いたしませんが、知ってしまえば「何だそんなことか」と思われることかもしれません。

でも、情報遮断ということをキーワードに一度研究されてはどうでしょうか?

【手首をつかまれるのが何故合気道では重要なのか?】その2

実は、井口師範ご存命のころ、私は井口師範の送り迎えを車でしていました。ですから、井口先生とマンツーマンでお話しできる機会がかなりありました。
井口師範は特に合気道の話は大好きで、喜んで疑問なんかに答えてくださいました。

稽古が終わったあと、井口師範をお送りするため、対向車一台すら通らない夜の真っ暗な田舎道をヘッドライトの明かりを頼りに走る車を私は運転をしながら、井口師範に疑問をぶつけてみました。
「合気道ではどうして手首を持つのが基本になるのでしょうか?」
と、少し遠慮気味にお伺いしました。

すると、
「それは、稽古やからや。普通の闘いで手首なんか取りに来るモンおれへん。何でかわかるか?」
と逆に聞きたかったことを質問で返されてしまい、一瞬戸惑いました。

私は
「殴った方が早いからですか?」
と、伺うと、
「ちゃう、ちゃう。そんなこと聞いてへん。手首取りにいく話や。手首って手の先端。だから闘いの時は一番速よ動くんや。だから取りにくい。そやから、手首とるより、襟元とか袖口とか掴みにいったほうが確実や。そしたら投げられるんや。柔道がそうやろ? だから手首のようなところ取りに行く奴おらへんのや。わかるね?」
とおっしゃいました。

「はい」
と、私が答えると、
「そやのにな、何故そんな稽古するんや? っていうことや。わかるか?」
師匠自ら、『手首は取るのは困難!』と宣言され、
『あえて手首を取られたときの稽古をする』と、
その矛盾点と必要性を指摘されたのでした。

「いいえ、全く分からないのです。そこが以前から不思議だったのです」
と私が答えると、
「馬鹿もん! そんなこともわからんと稽古しとったのか?……」
と声を荒げ、師範は目をむいてじっと私の顔を睨んでいした。

『あっ、まずいことを言ってしまった』
と、私が思った瞬間、
師範は、にっこりとほほ笑んで、
「と、いいたいところやけど、わからんやろなぁ。それはな。話は簡単、手首を持ってもらうのが、一番稽古しやすいからや」
とおっしゃいました。

井口師範のお話しはまだ続きますが今日はここまでとします。

【手首をつかまれるのが何故合気道では重要なのか?】その1

ずっと以前の話です。私の合気道が全く使い物になっていなかったころです。私はずっと一つの疑問に持っていました。

この疑問は結局自分では解決できず、井口師範にお伺いをして初めて理解できたことですが、その疑問とは、
『一般の闘いの場では、殆どありえないと思われる想定での稽古』についてです。

具体的にいうと
『相手が自分の手首を持ちに来た場合の対処方法の稽古を徹底的にすること』
です。

ご存知の方の方が多いと思いますが、合気道では投げ・抑え技など技を掛ける側が「取り」で、かかる側を『受け』という役割を決めて形稽古をします。

問題なのは、この『受け』が相手の手を取りに行く動作です。隙だらけの体勢で無防備に相手の手首を握るというところから始まります。

闘いの場においてこんな状況は殆どないと思います。あるとすれば、唯一、己より弱い相手を無理やり自分の方に引き寄せるときぐらいです。

例えば、酔っ払いが、若い女性に無理やり酒をつがせるような場合とか、不審者が女・子供を連行しようとする場合とかです。

そういった面では、女性や子供はある程度対処できる必要性のあるのは認めますが、それを徹底的に稽古する意味がわかりませんでした。

しかも、
『そこから投げや固め技に持っていく必要が本当にあるのか? 手首を外して、すぐに逃げるか、目潰しや金的攻撃などの急所への攻撃の方がよっぽど実用的では?』
という疑問も残っていました。

そこで、何人かの師範や師範代の方にお伺いしたところ、概ね2つの回答を頂きました
①『疑問を持たず素直に稽古しておればその内分かる』
②『昔は刀をもっていたので、刀を抜かせないために手首を持って防いだ』

①に関しては、指導者の指導に一々疑問をもつなというのはかなり乱暴に聞こえますから、私は論外に思いました。

また、②に関しては、よくよく考えてみると、すぐに切れない離れた距離にある状態から、わざわざ刀を抜かせないために相手の間合いの中に入って、手首を持ちに行くというのは非常に危険なことに思われました。タイミングが少しでもずれれば一刀両断されてしまいます。

そうなると、武士が手首をつかみに来るにはそれ相応の技術というのがあるはずです。

しかし、一般の稽古ではそういった想定はなく、ただ漠然と隙だらけで相手の手首を掴むだけです。

『こんな状況ってホンマありえへん」
と、私は思いましたが、折角、親切に説明してくださっている師範の方にそれ以上お伺いするのは失礼と思い、疑問をぶつけるのを失念しました。

読者の方々の中には合気道をされている方もいらっしゃると思いますので、何故手首を持つということが必要になるのかもう一度考えていただきたく思います。井口師範の回答が気になる方もいらっしゃるかもしれませんが、今回は控えさせていただきます。次回に井口師範の答えをあげさせていただきます。

【脱力について4 脱力とは合わせる技術】

これまで、脱力について書いてきたんですが、まだ今一つわかっていないという感想を持たれていると人が多いのではないかと思います。

それは、間違ったイメージがあらかじめ頭の中にあるからです。ですから、そのイメージをもって「力を抜く」ということをやっているのは、赤い色メガネをかけて緑を見るようなもので、どんなに目を凝らしても、黒く見えても緑には見えません。「何だ黒じゃん!」となる訳です。だから、必死になっても緑は分からないのです。

実は、という私も間違ったイメージを持ったクチでしたので、初めて井口師範の技を受けたとき、井口師範の繰り出し技は何と力強いと感じたものです。パワーが違うと思ったわけです。

私は、力を抜くというのは、取り(攻める役)も受け(受ける役)も柔らかいものだと思っていましたので、初めは何か違うと感じたモノでした。

しかし、師範は、「話は簡単! 力を抜いて合わせればいいだけ」と言われていましたので、全く理解ができませんでした。

確かに、フワッとした感じで投げられる技術もありますが、これは受けの状態を崩して行っているもので、技法の一つにしかすぎず、力を抜けばすべてそのようになるというものではありません。

そこで、脱力について理解を助けるために、もう少し「ぶつかる」ということについて述べていきたいと思います。

相手と「ぶつかる」という現象は、言い方を変えると、相手の力と自分の力が拮抗しているという状況です。

相手の力と自分の力が拮抗するというのは、相手も自分もある一定の方向に力をいれていてお互い反発しあっている状況ということです。

人間の力というのは、生理学的に考えると、一方方向に力をいれていると、いきなり他の方向には力がはいらなくなっています。これは当然のことで、ある方向に力をかけていて、急きょ別の方向に力をかけると、骨や関節に負担がかかるから、それを避けるようになっているそうです。

この事実を知っていると、「関節に負担を掛けない状態をつくれば、筋肉は使えるようになる。」ということがわかります。要するに脱力できないと力がでないということですが、単に脱力すれば相手の力に圧倒されてしまいます。

ここまでくると、「どう脱力するか?」がカギになるというのがお分かりいただけると思います。

その「相手に圧倒されず、どう脱力するか?」が、「合わせ」の技術です。

「力を抜け」というのはこの「合わせをしろ」ということであり、「力をぶつかりを回避する」ということですが、それは単純なものではなく、単に力を抜いただけでは相手に圧倒されます。

当会では、「合わせ」については、骨の技術の合わせ、皮膚の技術の合わせ、皮膚感覚の技術の合わせ、空間感覚の技術の合わせと4つの技法があり、状況によってそれぞれの適正があり、正しく使うのにちゃんと本質を分かっている必要があります。

【脱力について3 脱力のもう一つの意図】

合気道では片手取り、両手取り、諸手取りなどの技があります。
「相手に手を持たれたら」と説明されることが多いと思います。

しかし、井口師範は
「相手に手を持たれたらもう遅い。相手に手を持たせないといけない」
と言われました。

これを読まれている人の中に
「なるほど! 相手の『先を取る』のか!」と思う人もいると思います。

そう考えた人は合気道を武道としてとらえている方だと思います。確かにその通りです。
しかし、『先を取る』というのはその通りですが、「それだけを聞いても、具体的に持たせるというのはどうするのか?」という問題がのこっています。
多分どうしていいのかわからない人が多いのではないでしょうか?
これでは、99.9%の人は技の質は全く変わりません。

ではどう『先』を取るかというとですが、実に話は簡単で、『先を取る』には、単に相手に持たれたときに『脱力』するだけです。

しかし、本当に力をダラーンと抜いてしまったら技なんかかけられません。前にもお話ししましたが『脱力』といっても本当に力を抜いてしまうわけではありません。飽くまでも、自分自身に『脱力感』があるようにするとういことです。この具体的な技術を合気道では『合わせ』といいます。当会では『骨の技術の合わせ』と呼んでさらに具体的な方法を稽古します。

「でも、『脱力感』というのがどんな感じかわからない」と言われる方もいらっしゃるでしょう。それを知るには『脱力感』の反対は何かと考えていただければいいと思います。

以前にお話ししたように「脱力感」の反対は「ぶつかり感」ですね。相手の力にぶつかっている感覚があるのが「脱力感」の反対です。

このぶつかった状態を具体的にいうと、肩の筋肉にあたる三角筋、力こぶの上腕二頭筋の緊張があり、力が入っていると感じる感覚です。

実は、この状態は非常に危険です。何故なら、三角筋や上腕二頭筋の緊張は接触点を通じていち早く相手に伝わります。そうなると、相手からこれから自分がどのように動くかというのが手に取るように分かりやすくなります。これでは相手に技を掛けるということはできなくなります。

合気道の技を成功させるにはポイントは、「情報遮断。相手にこちらの意図を読ませないこと」ですから、『ぶつかり感』があるということはまるきり反対のことをしているということですので、この『ぶつかり感』をなくした『脱力感』が合気道の技を成功させる最大のポイントとなる訳です。

言い方を変えると『脱力』するのは、「相手にこちらの情報を遮断する」という意図があるのです。

【脱力について2 気の専門家も筋肉を使っている証拠】

前回の記事では「脱力」の意味と「気」の関係について述べ、「気」の専門家の空中腕相撲の話をしました。その際に「気」の専門家も筋肉を使っているという話しをしました。その映像をYoutubeで見つけたのでご紹介したいと思います。

この映像でもわかる通り、日本有数の「気」の使い手である宇城氏でさえ、前進の必要な筋力は使っているということです。
ただし、腕の筋肉は殆ど使われていない(全く使っていないのではないことに注意)ため、脱力感は感じているだろうということは分かります。

この空中腕相撲ですが、実は、私もよく会員の方にやるのです。これを行う自分自身は、そんなに力をいれている感じがありませんが、受けている方は「とんでもない力でなぎ倒された」と感じるそうです。

また、より敏感な人は「力を出しているのに思うように力が出なくなった」と感じます。人によって様々ですが、大切なことは「力が抜けてぶつかっていない」感覚は相手にはありません。

そう、「力の抜けた」状態というのは、飽くまでも自分が感じる非常に主観的なものです。ですから、相手はそうは感じてはいないということです。

合気道には、相手にフワッと倒されたと感じさせるソフトに導く方法もあります。しかし、合気道の技のすべてがそういうものではありません。

ちなみに、相手をソフトに倒す原理は、まず第一に、「相手のバランスを崩す」点にあります。相手はバランスが崩れているので、力が入らず単に落下するため、技の掛け手の力を感じずに倒されただけです。この方法については今回は話が外れるので述べませんが、「力を抜く」ことの大切な点は、自分の感覚として「相手の力とぶつかっていない」ということです。

【脱力について1 「脱力の意味と気の関係」】

合気道では腕や肩の力を抜けと教えます。
特別な素質の無い普通の人なら、「腕や肩の力を抜け」と言われても、簡単に力が抜けるものではありません。

正直、本当に力をぬいたら、腕がフニャフニャになり、技どころではありません。

合気道の指導者により、「筋肉を使わず、気を使う」と教えます。
「なるほど! 気のパワーか」と納得する人も多いでしょう。
ところが、「本当に『気』って何かわかってますか? あなたはそれを理解していますか?」という質問に科学的根拠で答えられる人は多分誰もいないと思います。

ところで、テレビ番組でもありましたが、「気」の専門家とボディビルダーが空中での腕相撲をする際に、筋電図を取ってみると、やはり筋肉は使われているというデータがあります。ただ筋肉の使い方が違うだけという結果となっています。「気」の専門家が本当に「気」だけで行っているのなら、筋電図では反応がないはずですが、ちゃんと筋肉に反応がありました。

ですから、合気道では筋力を使わないというのは大きな間違いだと私は考えています。「力を抜け」というのは、「筋肉を使うな」ということではないのです。腕を動かすには絶対に最低限の筋肉を使う必要があります。ここを勘違いしている人が非常に多いと思います。

それでは、「力を抜け」という本質は何でしょうか?
それは、合気道の技において適切な筋力の使い方をしたとき、「脱力感」があるということで、筋力を使っていないということではないのです。

さらに、の「脱力感」とはどのようなものなのでしょうか?
それは、相手とぶつかりが感じない状態を示します。

といいましても、相手は、非常に大きな力を感じていたり、重さを感じていたり、フワッと崩されていたりと状況によって感じ方が様々です。

このように「脱力感」というのは、非常に主観的な感覚なのです。

さらに、適切に筋力を使っていると「脱力感」以外に、「気の流れ」を感じます。特に「気の流れ」を感じるのは、身体全体が適切に、物理的に最も安定した強い状況で使われているときに感じます。

言い方を変えると、「気が入った」状態というのは、正しい身体の使い方ができたときに感じる状態と考えてもらった方がいいでしょう。

「気」が入ると強くなるのではなく、正しい身体の使い方をすると「気が入った状態」あるいは「気が流れている状態」と感じる人が多いのです。

といっても、正しい身体の使い方ができても「気が入った状態」を感じない人もいますので、感じないからといって正しい身体の使い方ができていないとは言えません。

このように「気」を感じようが、感じまいが、正しい体の使い方というのは人間であるかぎり、誰でもできますが、逆に「気が流れている」と思うだけでは、正しい適切な体の使い方ができるとは限りませんので、注意が必要です。

確かに稀に才能のある一部の人はそのように思うだけで身体が勝手にそのような状態になりますが、、普通の感性の人は、正しい身体の使い方を覚えて、初めて「気が流れる」感覚を感じるようにした方がいいと思います。

「しっかりと持たれた腕があがるのは簡単」だという理由

合気道では、手首を取らせる技をよく行います。
しかし、両手で片手を思い切りつかまれると動けない人がおおい。
でも、実は「しっかりと持たれた腕があがるのは簡単」です。

特に力に自信のない人は全く動かせない。

中には、持った人が勝手に動いてくれているのを勘違いしている人もいるが、
技が効いているかどうか知りたければ、本気で逆らってもらうといいと思います。
そうすれば自分が勘違いをしているかどうかわかります。
これは特に女性に多いと思います。

合気道の黒帯を取った女性で、自信過剰な方は、
「男の人が2人ぐらい来ても大丈夫」
と豪語する姿を何度か見ています。

多分、一部の人が、余りにも豪語して言うので、
そういう人が目立つからかもしれないが、他の武道にはない現象です。

その理由は簡単です。
試合やスパーリングがないから、
自分の技を客観視できず勘違いが横行しているからです。

でも試合がないのは技を練るという点では非常にいいのですが、
客観視できない人が増えるという点に問題があります。

ですから、そういう人はもう少し現実を見ていただき、
その上で技が練れるのだという点をご理解いただきたいと感じます。

それを踏まえた上で、
やはり「思い切りつかまれた腕を挙げる」のは非常に簡単なので、
以下の動画をご覧ください。

ポイントは2つ
①接点(持たれた部分)を動かそうとしない。動く部分を十分活かす。
②相手が崩れたら腕をあげる

【当会の「気」の捕らえ方について】

「仙道」とはごぞんじでしょうか?
「仙道」とはお隣の国・中国が発祥の「気」のトレーニングを行う修業法のことで、仙人になるための方法です。

「そんな怪しいモノが中国にあるのか?」
と、思われた方がかなりいるのではないでしょうか?

でも、実は「気功」の元となったものといえばどうでしょう。英語ではタオイズムと言います。「タオ」は「道」と書きます。そして中国独自の宗教である「道教」もタオイズムの一つです。

「仙道」によれば、「気」を練ることで、「気」を自在に操り、仙術という超能力や魔法に相当する技術を使いこなし、ついには不老不死になることも可能であるとされています。さらに「仙道」は、そういった超自然的な面を持つと同時に、非常に高度に体系化されたシステムを持っていて、師さえ見つかれば誰でも修業ができるようにもなってます。

また、「仙道」の技術は中国武術にも大きく影響を与えており、その技術を使った様々な練功法もあります。特に、高級武術と言われるものは、かなり仙道の上の段階まで修業できるようになっています。

この様に、実は「仙道」は非常に多くの人が修業しているのです。ところがこの「気」を完全にマスターしたはずの人が病に倒れ亡くなったりしている事実もあります。

私は、こういった「仙道」の修業体形が組み込まれている中国武術を修業した人に以前から注目していました。「どれぐらい長生きするのだろうか?」「風貌はどうなんだろうか?」と見ていましたが、

しかし、やはり、年齢と見合った風貌で、年を取り、最後は病で亡くなっていっています。年齢も、50~80歳ぐらいですので、「気」をマスターしていない人達と殆ど変わりないと思います。

そのような点から考えて、「気は万能」とか「不老不死」「肉体の浮遊」というのは現実味がないものと思っています。

一方、気の理論の通り動くと、相手が倒れたり、身体が強くなったりという面も体験していますので、「気」を全くのナンセンスと言っている訳でもありません。

ただ、「気」の考えは武道には必要ですが、「気」の万能視をすると現実から乖離する恐れがあると感じています。

その点を踏まえた上で、当会では「気」を会員に伝えています。