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健康護身術を指導している橋本実です。

自分が宇宙の中心という考え

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、井口流合氣道では「自分が宇宙の中心」という考えがあるというと書きましたが、これに対する質問がありましたので、今回はそれについて答えたいと思います。

このブログを読むと

合氣道開祖・植芝盛平翁先生は、合氣道は世界平和が目的であると言われたといわれています。井口師範が言った「自分が宇宙の中心」という考えから、合氣道が如何に世界平和と関係があり、それが合氣道には試合がなく形稽古だけである理由がわかります。それによって合氣道で稽古すべき技の目標がわかるようになります。

目次

宇宙の中心としての自分
周囲の影響と自分の選択
「自分は宇宙の中心」と世界平和
まとめ

宇宙の中心としての自分

私たちが世界を認識する際、目や耳、鼻、舌、体といった感覚を通じて情報を取り入れ、脳に伝えています。この過程では、他人が介在することはありません。つまり、個人が世界を認識する時、自分自身が宇宙の中心としてその世界を捉えているのです。しかし、実際に目にした世界が他の人と全く同じように見えているかどうかは、証明することができません。

例えば、「緑」という色を思い浮かべると、多くの人が緑色をイメージします。しかし、そのイメージが他の人と同じであるとは限りません。極端な例ですが、あなたが思う緑が、他の誰かにとっては赤かもしれないのです。このように、自分が認識する世界はあくまで自分自身のものであり、他者の認識とは異なる可能性があります。

このように考えると、自分が認知した世界はあくまで自分のものです。私たちの世界は内面と外面で構成されており、私たちは自分の世界の中心、すなわち宇宙の中心にいると言えます。

伝説では、釈迦は「天上天下唯我独尊」と言って生まれたといわれます。これは後世の人がつくった伝説とのことですが、これは、それぞれの人が「自分は尊く宇宙の中心である」という自覚を持つことを宣言している言葉です。ここに合氣道の共通点が存在しています。

周囲の影響と自分の選択

私たちは自分の世界の中心にいるはずですが、周囲の環境に大きく影響されることもあります。不幸は身の回りで起こる現象であり、私たちは日常的にそれに振り回されています。世界的なコーチングの巨匠、アンソニー・ロビンズの弟子であるクリス岡崎氏は「命があるだけ儲けもの」と言っています。どんな困難に直面しても、命がある限り解決策は必ず存在するのです。

残念ながら、多くの人が不幸を感じ、自殺を選ぶという悲しい現実があります。しかし、これは最終的に本人の心が選んでいることでもあります。

実際に、借金で追い詰められた人が外国に逃亡し、そこで成功し、日本に凱旋したという話がよく聞かれます。このような例からわかることとして、「自殺するしかない」と考えるのも、冷静に考えれば自分の思い込みに過ぎません。

仏教では、心を「意」とし、外界を認識する感覚として捉えていますが、心の反応も本来の自分ではないのです。般若心経には「無眼耳鼻舌身意」「無色声香味触法」とあり、眼も耳も鼻も舌も身も、さらには意(こころ)も実体が無い、すべてが空であると述べています。これは、外界の現象を否定し、私たちの認識が相対的であることを示しています。

「自分は宇宙の中心」と世界平和

井口師範は「形稽古では、自分よりも下の者に全力で逆らわれても技がかからないといけない」と教えています。なぜなら、自分が宇宙の中心であれば、宇宙に逆らえるものはないからです。

井口師範は「相手の土俵で戦うな!」と繰り返し言いました。これは相手と力の衝突を避けることを意味します。相手との力の衝突がなければ自在に相手を制御できます。ちなみに、相手の力と衝突するのは相手にこちらの動きが読まれているからです。それが読まれなくなるためにはその技術が存在するということも暗に示しています。それを使えば相手を不意打ちすることになるというのが理解できるでしょう。すると力が要らないという意味もわかるでしょう。

そういった技術を体得し、ついには無意識で行えるようになると「我すなわち宇宙」「我は宇宙の中心なり」を体で理解するということになり、技において相手の力に関係がない自分の動きが唯一だということができるようになります。

この考えをさらに広げて行けば様々な事象、例えば人間関係にも通じます。すると「我は宇宙の中心なり」ということが理解でき、その結果、自分が如何に尊い存在かわかります。さらに、それぞれの宇宙があり、それぞれが各人が尊く唯一の存在であることがわかります。

自分も他者も尊い存在であると理解すれば、争いはなくなり、世界は平和になるでしょう。合気道の稽古は、それを身体で実現するために、相手と競う試合を禁止し、形稽古に専念しています。これが合氣道開祖・植芝盛平翁先生が目指した真の合氣道であると師匠から聞きました。

まとめ

以上が、井口師範が「自分が宇宙の中心」であるという意味の説明です。合氣道の場合、体術である以上、この考えが技に生き、実際に体現する必要があります。

具体的にはこの考えを実現するため「和合の精神」として相手と衝突しない技が必要であり、さらに相手を導く技が必要になります。非常に抽象度の高い概念ですが、各自修行をして、自分なりに抽象度を下げて具体的な技として実現する必要があるのです。

その上で、抽象度を上げて、相手と一体となり、その主役が己自身にあるというようになり、技が完成すれば、真に「自分が宇宙の中心」ということになるでしょう。それを目指すのが私たち合氣道修行者です。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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氣と抽象度の関係

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。さて、皆さんは氣ということについてどのような考えをお持ちですか? 今回は僕が考える氣について説明したいと思います。よかったら最後までお読みください。

本ブログを読むと!

合氣道では氣の説明が非常にあいまいで、指導者によってまちまちな回答が来ます。この理由を本ブログでは明らかにすることで、合氣道修行者の人は氣の概念が分かり、技に活かすヒントになります。

目次

氣とは抽象度の高い概念
抽象度とは
合氣道の技と抽象度
当会の指導方法
氣の理解
まとめ

氣とは抽象度の高い概念

僕の師・井口師範は、「合氣道は『氣』が全てや」とよく話していました。そう聞くと、氣とは何か、氣を感じなければ合氣道はできないのかと疑問に思うかもしれません。しかし、氣について調べれば調べるほど、その実態は掴みどころがなく、ますます分からなくなります。

僕は、気功法、東洋医学、占いの文献などを調べましたが、合氣道の「氣」について明確な答えは見つかりませんでした。しかし、長年、当て身の稽古や天鳥船、振魂を繰り返す中で、天地に繋がる感覚が徐々に形成されていくにつれて、「氣」というものが何となく分かるようになってきました。

「氣」は、体感するものであると説明することもできますが、理科系脳の私は、その感覚を言葉で説明した、どうしても考えてしまったものでした。そして、結氣とは抽象度の高い概念を感覚として捉えたものだという結論にいったったのでした。

抽象度とは

抽象度とは、概念の汎用性や一般性を表す言葉です。

例えば、私たち人間は、「生き物」という言葉が出てきた際に、その言葉の定義をいちいち考えることなく、文脈に応じて理解することができます。しかし、「生き物」という概念がない人にとっては、具体的な例を挙げて説明する必要があります。

この具体的な例を挙げる行為が、抽象度を下げることです。

「生き物」の中の「犬」を例にとると、さらに抽象度を下げていくと、「柴犬」「秋田犬」「グレーハウンド」「チワワ」といった犬の種類が挙げられ、さらに「誰々さんの家のチワワの太郎」のように、特定の犬にまで絞り込むことができます。

合氣道の技と抽象度

達人になればなるほど、技の抽象度が高まります。そのため、言葉では説明しにくいものになります。井口師範のような達人になると、「技は自然に出るのが一番」という言葉で片付けられてしまい、その奥深さは言葉では説明しきれません。

井口師範は、「本部直轄井口道場の合氣道は、気の流れ、呼吸力、螺旋形が極意」と常に話していました。井口師範の技は、これらの要素が渾然一体となったものでした。そのため、感覚的に指導されるので、同じ技でも毎回違った表現を使うため、当初は一貫性が欠けているように感じ、理科系脳の僕には非常に分かりにくかったのを覚えています。

井口師範は、自分の技を思いつくままに説明し、それを「秘伝」と呼んでいました。しかし、全ての技が「秘伝」であり、秘伝には名前がありませんでした。「秘伝には名前が無い、あるとこだわりができる」と井口師範は言っていましたが、こだわりがないと覚えられないという問題点もあります。

当会の指導方法

こうした問題点を解決するために、当会では、より抽象度を下げて指導するように心がけています。

例えば、「気の流れ」については、陽の用法、陰の用法の 2 つの技術として説明し、そこに「螺旋形」の技術である「錐揉みの技術」「軸崩しの技術」、「粘勁」、「引っ掛け」などの技術を加える稽古をおこなったり、「呼吸力」については、天の氣、地の氣、水火の氣の技術として、別々に説明しています。

しかし、あまりにも抽象度を下げ過ぎると、技の数が煩雑になり、とても覚えられないということにもなってきます。当会で説明する技術でも行う人によって上手い下手があります。ということはそれぞれの中にも必ずさらなるノウハウが存在するわけです。

氣の理解

「ブラッククローバー」というアニメで、黒の暴牛団団長ヤミ・スケヒロが「人の目線、呼吸、筋肉の動き、何となくの氣配、そういった人から発せられるエネルギーを総称して氣と呼ぶ」というセリフがありました。これは、氣の抽象度を下げて説明したもので、非常に分かりやすいと思いました。

しかし、これは相手の気を感知するという立場からの説明です。井口流合氣道では、「自分が宇宙の中心」という考えがあり、まず自分の気を理解することが大切です。それが「気の流れ、呼吸力、螺旋形」です。そして、その上で相手との関係性における気の感覚を理解していく必要があります。

まとめ

氣は、抽象度の高い概念であり、様々な要素が複雑に絡み合ったものです。合氣道の技を極めるためには、様々な技術を身体に通し、経験を通して氣の感覚に昇華していく必要があります。

この文章は、氣と抽象度について、僕の考えをまとめたものです。最後までお読みいただきありがとうございました。

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合氣道と氣について

皆さん、お元気ですか?僕はメチャクチャ元気です!

今日は「氣」についてお話ししたいと思います。以前、合氣道の天の鳥船の行を行っているとき、振魂の行を通じて、僕の中に「氣」が自分の体を貫いて天に向かう感覚がありました。この感覚は非常に主観的で、他の人に話すと誤解されるのではないかと心配し、今まで誰にも話したことがありませんでした。しかし、先日、K氏の個人指導で呼吸力のトレーニングを行った際、K氏が僕と同じ感覚を体験していることを話し始めたのです。このことが僕にとって大きな自信となり、僕の感じていることが幻想ではないと確信できるようになりました。そこで、その時の出来事を皆さんにお伝えしたいと思います。

まず、合氣道の「天の鳥船の行」について知らない方のために説明します。この行は、もともと古神道に源があり、船漕ぎの動作と振魂という瞑想法の2つが組み合わさったもので、合氣道の創始者が大切にしていた氣のトレーニング方法です。船漕ぎ運動は、天の氣と地の氣を結びつけ、水火の氣を体内に巡らせることを目的としています。そして振魂の行は、天地の氣と自分自身を交流させるためのものです。しかし、氣は目に見えないため、理解することは難しく、実感するしかありません。たとえ実感できたとしても、それを他人に示すことはできず、あくまで主観的な体験です。

先日、N氏の個人指導を行ったときのことです。いつものように7時半過ぎに彼が現れ、準備運動や氣功法、天の鳥船の行をこなし、呼吸力のトレーニングに入りました。まず水火の氣を使った呼吸力のトレーニングを行い、その後天地の氣を使うトレーニングに移りました。姿勢を整えるために再度振魂の行を行った後、僕は指先に氣を集め、K氏の任脈*と督脈**の気の流れを作りました。その瞬間、K氏は「頭の天辺がジリジリとするのを感じます」と言いました。さらに詳しく話すと、僕が感じている状況とまったく同じことを報告してくれました。

N氏は超自然的現象を妄信も否定もしない医師ですが、自分の状況を常に中立的に判断するスタイルを持っています。ですから、K氏が述べた現象は、僕が事前に彼に自分の感覚を話したわけではないため、暗示による幻想ではないのです。

今回の指導を通じて、他の人も同様の状況に導く手順が見えてきました。これからは、他の人々も同じ体験をすることができるかもしれません。「天と繋がる」とスピリチュアルな人々が言いますが、合氣道には天と地が同時に繋がる行法があることが本当に素晴らしいと感じました。「人」という言葉は「ヒ(霊)をトめる」と言います。つまり、霊的な要素と肉体という物理的な要素が合わさって人間が成り立っています。一方だけに偏ると現実との乖離が生まれますので、天(霊)と地(物理)の両方が大切なのは言うまでもありません。合氣道の行法は本当に素晴らしいものだと思います。

(注釈)
* 任脈
経絡という氣の流れるルートの内、病気治療などで使われる十二経絡とは別の奇経八脈に属する一つで、身体の正中線の前側を通るルート

** 督脈
奇経八脈の内の一つで、人体の正中線の背面を通るルート

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津本陽氏の作品の中の井口師範

皆さんお元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、フェイスブックで、「井口師範が何故無名か?に答える」のリンクを張ったところ、井口師範から学んだことのある甲南大学合気道部のOBの方にコメントをいただき、津本陽氏の小説「黄金の天馬」(合氣道開祖伝)に井口師範が登場していることをご指摘いただきました。

確かに、井口師範に関する逸話の中で特に印象的なのは、津本陽氏の小説「黄金の天馬」に描かれたエピソードです。この小説は、合気道の開祖をモデルにした物語であり、井口師範がその中で重要な役割を果たしています。(P454~455)

物語の中で、井口師範は合気道の開祖に挑む場面が描かれています。これは殆ど実話をもとに書かれています。ある日、和歌山県の武徳殿で開祖が指導を行っている際、当時柔道四段であった井口師範はその場に現れ、開祖に挑戦しました。しかし、井口師範はその圧倒的な技術の前に手も足も出ず、瞬く間に制圧されてしまいます。柔道四段といえば柔道を志す人の中から本の一握りの人しか印可されない貴重な段位です。このエピソードは、当時でも井口師範がかなりの達人であったことを示すと同時に、合気道の奥深さを物語っています。

津本陽氏がこの小説を書いた背景には、井口師範の影響があります。実は、和歌山県出身の津本氏は井口師範の警察官時代の同僚である和歌山県警の田村氏とは彼を小説の主人公のモデルにするほど親しかったのです。田村氏は、井口師範の技術に感銘を受け、津本氏にその話を小説にするよう勧めました。津本氏は和歌山県在住の井口師範の存在に興味を持ち、合気道の達人としての井口師範の逸話を小説にすることにしたのです。

井口師範は、自身が小説の主人公になることを望まず、開祖の話を書くように津本氏に勧め、二代目道主に津本氏の協力を求めました。この謙虚さが、師の人間性を物語っています。そういった背景もあって、小説の中では井口雅博師範は「井田正浩」という名前で登場していますが、当時の井口師範の存在感を巧みに表現しています。

このように、井口師範は自らの名声を求めることなく、合気道の精神を尊重し、後世に伝えることに尽力しました。師の存在が小説の中に残ることで、弟子としては非常に嬉しく、誇りに思っています。

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井口師範が何故無名か?に答える2

皆さんお元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、前回のブログで、井口師範が無名である理由について触れましたが、それを読んで「井口師範が達人であるなら、何故技を継承する高段者の弟子がいないか?」という疑問をいただきました。確かに他の開祖の直弟子の人たちには技を受け継ぐ多くの弟子がいます。この問いは至極もっともであり、非常に重要であると考えられ、私もその答えをお伝えしたいと思います。これまでこの件については、特定の個人を批判することになるため、口を閉ざしていましたが、今はもうその方も亡くなられたことから、匿名のK氏としてお話しします。

クーデターの勃発

まず、私が井口師範を選んだ理由をお話しします。単に本部直轄の井口道場という名前だけではなく、子供の頃に父から聞いた合気道の達人の話が影響しています。ある日、和歌山場所で和歌山に来ていた力士が飲み屋で暴れ出し、警察官たちが手をこまねいている中、井口師範が現れ、力士を一瞬で制圧したという逸話です。ちなみに警察柔道の高段者が数人かかってもプロの十両力士には歯が立たなかったそうです。父が「いぐっちゃん」と呼んでいたその名をうろ覚えで思い出し、本部直轄井口道場にたどり着いたのが、私と井口師範の運命的な出会いの始まりでした。

1987年、私が井口師範の門を叩いた時、師が直接指導していた道場は和歌山県那賀郡貴志川町(現紀の川市)にある博文館だけで、会員は私を含めてわずか十数人でした。その道場は設立から2、3年しか経っておらず、さらにはそれから3年後ぐらいには大人はもはや館長と私を含め3人になってしまいました。私自身も達人の井口師範がこのような小さな道場で初心者を教えていることに疑問を抱いていました。実は、井口師範は過去に一番弟子のK氏によるクーデターを経験していたのです。

K氏は、ある日、別の場所に移ることになったと称し、井口師範が指導していた弟子たちを連れて行ってしまったとのこと。残ったのは高弟のM氏とO氏の二人だけでしたが、M氏は早くに夭折し、O氏は仕事の関係で合気道を続けられなくなりました。

このように書くと、K氏が狡猾で計算高い卑怯な人物に見えるかもしれませんが、実際には井口師範の指導に対して何か不満を抱いていたのではないかと思います。具体的には、K氏は井口師範が本当のことを隠し、適当な指導をしていると感じていたのかもしれません。

私も井口師範から秘伝の指導を受けたことがありますが、師の教えは感覚的な表現や「こうする」という指示が多く、非常に分かりにくいことがありました。また、前回の指導と真逆のことを言われることもありました。私の場合、達人が言うことだから何かあるに違いない、どちらも正しいのだろうと考え、考え抜いた結果、物理学と結びつけて「陽の技法」と「陰の技法」という理論を発見しましたが、そのとき矛盾に不満を感じていたら、今の自分はなかったように思います。

しかし、K氏は井口師範の教えに対して不満を感じ他の仲間を誘ったところ、同様に多くの弟子がK氏について行ったので結果的にクーデターとなったのではないかと推測されます。井口師範と親密になる折角のチャンスだったのに去っていた弟子たちは本当にもったいないことをしたと思いますが、とくに最も井口師範に近かったK氏は井口師範の後継者となりえたはずで、本部直轄井口道場を発展させられたはずなのに本当にもったいないと思います。

息子が後継者でない理由

私が井口師範の門を叩いた時、師の門下生はほとんどいない状況でした。さらに気になったのは、井口師範のご子息たちのことです。奥様から伺った話では、息子たちに合気道を教える際、一切の手加減せずに教えた結果、心臓に大きな疾患を抱えることになり、運動ができない体になってしまったとのことです。

このような事情から、井口師範の後継者が育たなかったのです。しかし、逆に言えば、私にとっては幸運でした。井口師範の晩年の弟子も少ない中で、過去の失敗から厳しいだけではいけないと改め、師は自分の体得した技術を少しでも伝えようとしてくださったからです。通常なら、私のような者が達人の門下に入っても目にもかけてもらえないのが普通ですが、運命的なタイミングで出会えたことに感謝しています。

前回も説明したように井口師範は何度も表舞台に出る機会を逸してきましたが、それが私にとっては本当にラッキーでした。運命的なタイミングで師匠と巡り合えたことに深い感謝の念を抱いています。今後も、井口師範から教わった技術を後世に伝えられるよう、努力していく所存です。

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井口師範が何故無名か?に答える!

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。今回は井口師範についてお話しします。実は、私の弟子が知り合いから「井口師範の話はでたらめではないのか?」と言われたため、井口師範について詳しく知りたいと希望がありました。そのため、この記事ではその指摘に応える形で書いています。

今までこのような井口師範に関しての批判を受けても、「技を受ければわかる」と取り合ってきませんでしたが、希望にこたえて今回井口師範について、「無名なのは何故か?」という点に答えたいと思います。

これまでに他の人からも指摘された点がいくつかあります。それは、インターネット上に井口師範に関する情報がほとんどないということです。具体的には、以下の2点です。

  1. 開祖の直弟子なのに無名なのはおかしい。
  2. 井口師範が開祖の直弟子であること自体が怪しい。

まず、1についてですが、インターネットで調べても井口師範に関する情報は当会のHP以外にはほとんど見つかりません。このため、開祖の直弟子ということすら疑問視されています。2についても同様で、より懐疑的な意見が出てきます。しかし、開祖も井口師範も既に故人であるため、証明は難しいですが、次の話から推測するに、井口師範が開祖の弟子であったことは間違いないと私は考えています。

井口師範は元々和歌山県警の警察官で、柔道四段だけでなく、剣道や空手の高段者でもありました。ある日、合氣道の開祖が和歌山県警に来た際、井口師範は挑戦しましたが全く歯が立たず、その後弟子入りを決意しました。その後、毎週末に夜行列車で東京の合氣道本部に通い、修行を重ね、最終的には師範となりました。合氣道関連の書籍では、井口道場が本部直轄の道場として唯一名前が挙がっています。(本部直轄名古屋道場とありますが、個人名がついているのは本部直轄井口道場だけです)こういった特別な名前がつくことでも開祖や関係者とも親密だったことが分かると思います。

開祖の出身県の和歌山から毎週毎週、東京に通って熱心に稽古をしていたため、井口師範は開祖に非常に可愛がられていました。そのため、他の古参の弟子たちからは嫉妬されていたと言います。井口師範は「僕の技は秘伝だから人には見せない」と言い、演武会にも参加しなかったため、マスコミにも名前が出ることはありませんでした。

また、井口師範がどれほど古参の弟子たちに嫌われていたかを示すエピソードがあります。師範の葬儀の際、家族宛てに合氣道本部から手紙が届き、お悔やみの挨拶もなしに、井口師範が開祖から受け取った書や品々を早急に返すよう求められました。井口師範の奥様は「守央さん(三代目道主)はこんなことをする人ではない」とおっしゃっていましたので古参の方そうされたのでしょうが、故人の家族に対する無慈悲な対応には驚きました。(ちなみに下の写真は井口師範のご自宅にお正月のご挨拶に伺った際の写真ですが、見てわかるように開祖直筆の合氣道の書が飾られていました)

井口師範や家族に対する古参の方の対応のひどさは単に嫉妬だけでないのかもしれません。井口師範は柔道、空手、剣道などを徹底的に学んでいたため、稽古相手としては非常に手ごわく加減がなかったようで、他の修行者にもよく思われていなかった恐れがあります。ですから古参の弟子たちも井口師範にやり込められた方も少なくなかったと推測します。その際の恨みを抱かれた可能性もあります。ちなみに、私の父も警官であったため井口師範を知っており、当時の柔道のことを思い出して「手加減がないので、柔道を組むのを誰もが嫌がっていた」と語っています。このような井口師範の武道に対する徹底的な拘りが古参の方の怒りを買った恐れがあります。その井口師範が開祖に可愛がられていたのですから古参の人たちにとってはまさに目の上のタンコブだったのかもしれません。

井口師範は古参の弟子たちに嫌われていましたが、井口師範を支持してくれる人もいました。二代目吉祥丸道主や、心身統一合氣道の創始者である藤平光一師範、和歌山熊野塾の引土師範、大阪合気会の田中万川師範、佐々木将人師範などです。下の写真は、井口師範と二代目吉祥丸道主のものです。

井口師範と二代目道主が肩を組む姿は、開祖の遺骨を和歌山の高山寺に運ぶ際に、大阪の天王寺駅において吉祥丸道主からお遺骨を受け取って同伴したなど、開祖や開祖の家族と親密にしていたことが背景にあると思います。このような経緯があったからこそ、二人の関係が築かれたのだと思います。

さらに、空手の柳川師範の著作物、『武道家のこたえー武道家33人、幻のインタビュー」に井口師範の記事があります。残念ながら、この書籍は紛失してしまったため、出版社のホームページ(https://webhiden.jp/book/book16/)の写真を載せておきます。

さらに、甲南大学合気道部の設立にも携わっているため、甲南大学合気道部のHPの沿革のページの一部を示しておきます。

以上、井口師範の実在や開祖の直弟子であったことを示しましたが、大切のはやはり師の残してくださった技です。私が受け取ったものは本の一部かもしれませんが、それでも後世に伝えることができればと願っています。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。

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井口・合氣道の「合わせ」とは?!

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、。今回は当会で指導している「合わせ」というものにフォーカスして説明をしていきたいと思います。飽くまでも当会が定義する「合わせ」という考え方なので、他の方々がのべる「合わせ」とは異なるかもしれません。ですので、他の方の考えが間違っていると主張している訳ではありませんので誤解されないようによろしくお願いします。

本ブログを読むと!

今回は「合わせ」ということについて当会での考えを述べたいと思います。本ブログを読むことで合氣道の技を行う上で、相手と接点ができた際に先ず何をすれば良いかがわかります。特に合氣道のような形稽古を行う武道では、どのような技をかけて来るかが技の受け手に分かるため、対抗するのが容易です。しかし、「合わせ」を使用し次の段階の「導き」にスムーズに移行できれば、例え相手が対抗しようとしても難しくなります。このブログでは、先ず「合わせ」の定義を知り、次の「導き」にどうつなぐかについて述べることにより、合氣道の形稽古を納得できる形で稽古できることになります。

目次

●「合わせ」とは?!
●「合わせ」と「単なる脱力」の違い
●「合わせ」の重要なポイント「結び」

「合わせ」とは?!

私の師匠、故・井口師範は「相手の土俵で戦わない」とよく言っていました。これは、相手と直接ぶつからないことを意味します。

井口師範の合気道の指導では、専門用語がほとんど使われませんでした。そのため、「合わせ」というような言葉は使わず、技を説明する際にはさまざまな表現が用いられました。「力を抜け」「相手の力に合わせる」「ぶつからないようにする」「相手の氣を逃がす」「相手の氣に合わせる」など、状況に応じて言葉が変わります。

当初、私はこれらの説明が一貫していないと感じていましたが、井口師範がこれらの言葉を使うのは、技が始まる相手との接点ができた時だと気づきました。

具体的には、相手との接触ができ、相手を自分の思うように動かす準備が整った段階で、これらの説明がされていたのです。

私は、相手を自分の意図通りに動かすことを「導き」と呼び、その前段階、つまり相手との接点ができた時点を「合わせ」と名付けました。

さらに、「合わせ」とは、相手の力や氣とぶつからず、こちらの力や氣が相手に伝わりやすい状況を作る準備段階を指します。

「合わせ」と「単なる脱力」の違い!

相手の力とぶつからない状態を考えると、まず思い浮かぶのは「力を抜く」ということです。しかし、実際の戦いでただ力を抜くだけでは、相手に制圧されてしまいます。

単に「力を抜いた状態」では非常に危険です。「赤子の手を捻る」という表現があるように、受け身でいると相手にやられてしまいます。

しかし、赤子の動きには武道にとって参考になる点もあります。以前、耳鼻科の医師に「甩手(すわいしょう)」という氣をらせん状に体幹に通して体を捻る気功法を教えた際、私は「一瞬だけ力を入れるのではなく、常に筋肉と連動して体を捻ってください」と伝えました。

その医師は、「どの赤ちゃんについても言えることですが、赤ちゃんの頭を押さえて固定しても、固定できないという経験をいつもしているが、この原理が働いていたということがこの動作で分かって納得できました」と言いました。耳鼻科なので頭が動かれると困るので動かないように固定するそうですが、物心ついた子供や大人は頭を押さえる固定ができるそうですが、赤子にはどうすることもできないので非常に気を使うそうです。

要するに、赤子が頭を捻るときは氣が通っているが、大人は首の筋力だけで行うということです。つまり、力が抜けているように見える赤子でも、氣が通っていれば大人の力でも止めることができないということです。

この例からわかるように、「合わせ」とは氣が入った状態で、相手と力がぶつからない状況を作ることです。これにより、相手はこちらを制圧できなくなります。この点が「合わせ」と「単なる脱力」の大きな違いです。

「合わせ」の重要なポイント「結び」

先ほど、「合わせ」と「単なる脱力」の違いは、氣が入っているかどうかだと説明しましたが、さらに大切なポイントがあります。

それは、相手と氣が繋がっているかどうかです。この氣の繋がりを私たちの会では「結び」と呼んでいます。「結び」があることで、自分の作った氣の流れが相手に届くようになります。合氣道の氣の技では、自分の体だけに氣が通っているだけでなく、相手に氣が届いている必要があるということです。

「結び」によって、相手と自分が一体となり、相手を自分の手の延長のように自由に動かせるようになります。これにより、次の段階である「導き」が可能になります。このように、「合わせ」において「結び」は非常に重要な要素です。

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合氣道での物理法則の大切さ

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、合氣道について多くの人は、柔道とは異なる神秘的な技を行うものだと考えがちです。要するに「柔道では科学的アプローチが有効だが、氣を用いる合氣道には適さない」という考えです。しかし、合氣道においても実はその基盤には科学的な考え方が重要です。僕の師の井口師範も氣を重視しましたが、自然の理として物理的な考えを否定はしませんでした。当会では、井口師範から受けたノウハウであった物理法則に基づいた技術を「骨の技術」と呼んでおり、今回はその基本である「骨の読み」について説明します。

このブログを読むと

このブログを読むことで、神秘的に見える合氣道の技にも物理法則に基づく原理があることがわかります。合氣道を学ぶ前に、この物理的原理を理解することが大切です。さらに「骨の読みの基本」を学ぶことで、合氣道の技を科学的に理解し、神秘的な技を追求するための基礎がどれほど重要かを認識できるでしょう。合氣道の修行者は、より正確な技を身につけるための指針を得ることができます。

目次

●「骨の読み」とは?!
●骨の読みの基本
●骨の読みの問題
●骨の読みの例

「骨の読み」とは?!

当会の「骨の技術」の基本は「骨(骨格)の読み」です。これは、人体の物理法則に基づいて相手を効率的に導くための方法です。骨の読みには二つの側面があります。一つは、相手が倒れやすくなる方法を読むこと、もう一つは、技をかける際に相手の体に無理をさせず、自然に不利な状況に導くことです。

相手を倒すには、まず相手を導いて崩し、その後に倒すという二つのステップが必要です。ここでの骨の読みは、相手を崩すための導き方と、倒すときにどの方向に導くかを考えることです。それぞれ適切な方向に導くことが重要です。

第二の骨の読みは、特に相手の腕を使って技をかける際に、腕の可動範囲を理解し、その範囲内で動かすことです。合氣道の技では、一見この読みを無視しているように見えることがありますが、これは相手の胴体が動くことで関節が空間的に移動しているためです。移動量を意識しつつ、関節の可動範囲を考慮して導いているのです。

このように、骨の読みでは相手の動きを考えることが重要です。

骨の読みの基本

骨の読みの基本的な考え方は、相手をどの方向に導けば倒れるかを理解することです。初心者にとっては、この骨の読みは難しいかもしれません。そこで、分かりやすくするために、直方体の箱を倒す例を考えてみましょう。

直方体を倒す最も簡単な方法は、地面と接触している辺Lを軸にして倒すことです。普通の人は、力を加えるときに辺Lが軸になるように力を加えます。

しかし、相手が人間になると、力の加え方が難しく感じることがあります。そこで、立っている相手を後ろに倒す場合を考えると、両足の踵を結ぶ線を軸にして押すと、相手が倒れることがわかります。これが骨の読みの基本的な考え方です。

骨の読みの問題

骨の読みの基本が理解できたところで、実際に技をかけると、うまくいかないことがあります。なぜなら、相手は崩されそうになると足を踏み出してバランスを取ろうとするからです。合気道の技では、相手が足を踏み出す前に力の方向を変えて投げにつなげます。つまり、技は「崩す」と「投げる」を同時に行うのではなく、まず崩してから投げるという2段階で行われます。

もう一つの問題は、多くの技が相手の腕を使って行われるため、思うようにいかないことです。しかし、この問題は相手を導く方向を誤っていることから起こります。たとえ相手の腕を使って技を行う場合でも、基本的な原理は変わりません。ただし、腕を介すると角度が少し異なるだけです。このことを考えるとき、相手を動かない銅像だと思い、その腕を使ってどう倒すかを考えると、力を加えるべき正しい方向が見えてくるはずです。

骨の読みの例

言葉での説明ではよくわからないと思います。そのため下に、骨の読みの一例を示した映像を載せます。この動画はIAM護身術教室での技の研究会での映像の一部で、相手が静止して腕に力を入れて抵抗している場合の崩し方を紹介しています。骨の読みが分かれば、相手が何故倒れないのか理解できるはずです。

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呼吸力と合氣道と古神道の儀式

皆さんお元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
今回は前回の呼吸力の続きで古神道の儀式との結びつきについて書きました。

このブログでは

開祖が存命のころには天の鳥船の行や振魂の行が準備運動にふくまれていましたが、これを省く道場が多い現在、わが師の井口師範から教わったそれらの武術的意義を明らかにしたいと思います。口伝については述べられませんが、師は「呼吸力が分かれば、天の鳥船の行と振魂の行の意味がわかる」と述べており、それらは武道的な意義があることを示唆していました。このブログではそういった背景と武道的意義について述べることで今後の合気道修行者の人の参考になればと書きました。

目次

古神道の行法と現在の合気道の脱宗教

最近の合気道では、開祖が行っていた宗教的な儀式の行法を省く傾向があるようです。特に、かつて合氣道の準備運動に含まれていた古神道の行法である「天の鳥船の行」や「振魂の行」を行わない道場が多いようです。例え行っていても「天の鳥船の行」と言わず「船漕ぎ運動」と言って行っているようです。

しかし、合氣道は元来「氣」を合わせる道であり、天地水火の氣を丹田に取り込みそれと調和することを修練する武道です。一方、神道は天地に存在するすべての神を敬い、天地の氣を摂取し、水火の氣を身体に具現化し、自らを「火水(かみ)」となす道です。そのため、神道の要素を否定すると、合氣道本来の成り立ちが損なわれるように思います。

開祖存命のころの合氣道で扱う「氣」という概念は、人知を超えた神秘的なものであり、神道的な要素を含んでいました。しかし、開祖他界後は、日本語では「気」を心の持ち方としても解釈できるため、修行者それぞれの解釈に任せて宗教色を排除しているのでしょう。

呼吸力と技の関係

合氣道では呼吸力が非常に重要です。呼吸力については実は科学的な解釈も可能ですが、僕の経験では、神秘的な力として捉えた方が呼吸力は出しやすくなっています。そのため、天の氣や地の氣、水火の氣を意識する方が、呼吸力が安定して発揮することができ、氣1を意識した方が有効です。

合氣道の技では、相手との接触部分を「合わせる」技術で、力のぶつかりを避けることが求められます。呼吸力を物理的・身体操作的に技術として行うと、接触点での力がぶつかりやすくなり、十分な呼吸力を出すことができず技がうまくかかりません。一方、氣を意識することで、接触点から意識が外れることで接触点での力のぶつかり感を削減でき、呼吸力が伝わり技がスムーズにかかります。

この点で、天地水火の氣を意識する「天の鳥船の行」や「振魂の行」は非常に重要です。井口師範もこれらの行を重視していました。天の鳥船の行については、下の映像で比較すると古神道家の山田誠人氏の実演映像と開祖の実演映像ではかなり異なる点から推察できる点は、開祖の実演はは武道用に改良しているように見えます。理由は、井口師範から聞いた水火の氣の武術的運用の秘伝が開祖の天の鳥船の行の動きに入っているからです。

古神道家の天の鳥船の行

開祖の天の鳥船の行

古神道の行の武術的秘伝と意図

振魂の行には、井口師範の秘伝があり、そこには武道的な意義が含まれています。この秘伝は一人稽古で行い、道場での稽古や人前では秘伝を隠すために足を使わず手だけを振るように指導されました。開祖の映像でも、開祖は足の屈伸は行っていませんので秘伝を隠している可能性があります。

当会では、井口師範の秘伝に基づいて振魂の行を行っています。これにより、天の氣と地の氣の繋がり方が理解できるようになります。実際には、天の氣や地の氣という表現を使わなくても科学的に説明できる部分もありますが、氣として感じる方がより確実にできるのです。重要なヒントを上げるとすると、手を振るタイミングと足を屈伸するタイミングに口伝があるという点にあります。

井口師範が天の鳥船の行や振魂の行に武道的な意図を付け加えたのではなく、開祖が古神道の行法を単なる神道の儀式としてだけでなく、武道的な意図を隠して行っていた可能性が非常に高いと考えられます。

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(注)

  1. 井口師範は氣については単に氣と話し、時折、気分で「天地水火の氣」や「天地の氣」「水火の氣」というような表現をしたかと思うと、氣と言わずに「天から力をもらったらええだけや」とか「地から力をもらうんや」などその都度表現が変わったため、氣に関しては師匠亡き後も研究を続け科学的・理論的な構築に数十年費やしました。その結果、天地の軸を中心に据え、上方向の力を出すときは地の氣を使い、下方向の力を出すときには天の氣を使い、水平方向の力を出すときは水火の氣を使うということがわかりました。 ↩︎

合氣道における呼吸力の理解とその難しさ

皆さんお元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
今回は呼吸力とは何かということに迫ってみたいと思います。なお、呼吸力については様々な意見があり、僕自身はそれらを否定するつもりはありませんが、このブログでは井口師範に教えていただいた呼吸力について述べ、井口師範から伺ったことを記載するので、他の考えにたいする批判だと誤解されないようにお願いします。こういった考えもあるのかとお考えください。

目次

呼吸力の抽象性とその理解

合氣道では呼吸力が重要とされていますが、その実態は非常に抽象的で、修行者が自分で想像するしかないのが現状です。二代目道主の植芝吉祥丸氏は、「呼吸力とは、臍下丹田(重心)から気・身・体が一致して流れる力のこと」(『合気道入門』より)と述べています。また、私の師匠である井口師範は、「天地の気を中心で呼吸して得られる力が呼吸力」と言いました。しかし、どちらも抽象的で、具体的に呼吸力が体にどう作用するのかはわかりにくいです。

多くの合氣道修行者は、開祖やその弟子たちの言葉を元に自分なりに呼吸力を想像しています。そのため、私が井口師範から教わった呼吸力を見せると、ほとんどの人が「それは単なる筋力です。呼吸力とは違います」と言います。

井口師範から教わった呼吸力は、まるでブルドーザーのような絶対的な力で、圧倒的なパワーを感じました。ただし、呼吸力を使っている方はあまり力感がないためやった感じがしないのも特徴です。しかし、多くの修行者が期待する呼吸力は、受けた人がふわっとした感じを受ける念力のようなものです。

呼吸力がわかりにくい理由の一つは、合氣道の技にあります。一般的に合氣道では一つの技の中に何種類もの要素が含まれています。例えば井口師範の技には「呼吸力、気の流れ、螺旋形」の三つの要素が含まれており、それが井口師範の指導する合氣道の技です。そのため、特別な場合を除いては、呼吸力だけを単独で教えることはなく、技の中で体得するしかありません。

井口師範の指導と呼吸力の体感

井口師範も開祖から「呼吸力をやる」と言われて手を掴んでもらったり、呼吸力を示してもらったりしたことで体得したと話していました。私は幸運にも井口師範の稽古に参加する際、送迎を担当していました。そのおかげで、稽古の帰り道に個人的な指導を受ける機会を得ることができました。

井口師範は、呼吸力を示すために私と両手で握手をし、「これから呼吸力を与える」と言って、その感覚を伝えてくれました。その時、立っている時は足の裏、正座している時は脛を通じて地面と臍下丹田が繋がる感覚が生じました。これが「地の気を呼吸すること」なのだと直感しました。

地の気と繋がる感覚を得た後は、当て身の稽古を行い、正しくできているかをチェックしてもらいました。最初は当て身の稽古だけでしたが、毎日繰り返しているうちに、井口師範が示してくれた呼吸力を理解できるようになりました。

呼吸力が分かった当時、言葉ではうまく表現できず、他の道場の人に示しても「単なる力技」と勘違いされることが多かったのを思い出します。座り技呼吸法で呼吸力を示しても、「すごい筋力ですね」と言われるだけでした。

しかし、井口師範が亡くなって21年経った最近、「呼吸力がわかれば天之鳥船の行と振魂の行の意味が分かる」という井口師範の言葉からヒントを得て、呼吸力を説明できるようになりました。

呼吸力の種類とその鍛錬法

私がインスピレーションで得た呼吸力に関する解釈では、呼吸力には3種類あります。天の氣に繋がる呼吸力、地の氣に繋がる呼吸力、そして地の氣を水火の氣に変える呼吸力です。

具体的には、合氣道の技で最も大きな役割を果たすのが腕であり手です。手には左右がありますが、左の語源が「火足(ひた)り」で、右の語源が「み(水)極(き)」ということから、左手で扱う氣を火の氣、右手で扱う気を水の氣と当会では呼びます。そして、この手を使って氣を呼吸力に変えて相手に伝える際に、感覚で力の出方を感じ取ったとき、大きく分けると、垂直下方、垂直上方、水平方向に分かれます。

垂直下方に呼吸力を伝える場合は、まず天の氣と丹田をつないぎ、手から下方に呼吸力がでるように氣を手に伝えます。呼吸力を垂直上方に伝えたい場合は地の氣と丹田を繋ぎ手から上方に向かって呼吸力がでるように気を伝えます。さらに水平方向については、軸を意識する必要があります。軸は水火の呼吸力を実現するには正中線とは別に左右の乳首の位置の正中線と同じ深さにある軸を利用します。左の軸を火の軸、右の軸を水の軸と呼んでいます。水平方向の呼吸力を出すには、この軸をしっかりと立てて、地面と繋がり、そこで初めて左右の腕から氣を出して相手に伝えます。

このように氣を使って呼吸力に変換すると、その力は相手にとって非常に大きな力と感じるようになります。この鍛錬方法が天鳥船の行であり振魂の行であるのです。振魂の行は天の氣と地の氣の両方に繋がる行法で、天之鳥船の行は地の氣を水火の氣に変える行法です。さらに合氣道の技においては水平方向の水火の氣の扱い方が重要であるため座り技呼吸力鍛錬法が合氣道では用意されています。この座り技呼吸力鍛錬法は現在は座り技呼吸法と呼ばれていて、一つの形となって稽古されていますが、非常に重要な稽古です。

ただ、大切なポイントとして合気道の形では単に呼吸力だけを使うものではなく、さまざまな要素が入っているという点です。ですから、どの部分で呼吸力が使われるのかというのが分かりにくくなっているため呼吸力というものが曖昧になってしまっているのだと思います。

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