合氣道と氣について

皆さん、お元気ですか?僕はメチャクチャ元気です!

今日は「氣」についてお話ししたいと思います。以前、合氣道の天の鳥船の行を行っているとき、振魂の行を通じて、僕の中に「氣」が自分の体を貫いて天に向かう感覚がありました。この感覚は非常に主観的で、他の人に話すと誤解されるのではないかと心配し、今まで誰にも話したことがありませんでした。しかし、先日、K氏の個人指導で呼吸力のトレーニングを行った際、K氏が僕と同じ感覚を体験していることを話し始めたのです。このことが僕にとって大きな自信となり、僕の感じていることが幻想ではないと確信できるようになりました。そこで、その時の出来事を皆さんにお伝えしたいと思います。

まず、合氣道の「天の鳥船の行」について知らない方のために説明します。この行は、もともと古神道に源があり、船漕ぎの動作と振魂という瞑想法の2つが組み合わさったもので、合氣道の創始者が大切にしていた氣のトレーニング方法です。船漕ぎ運動は、天の氣と地の氣を結びつけ、水火の氣を体内に巡らせることを目的としています。そして振魂の行は、天地の氣と自分自身を交流させるためのものです。しかし、氣は目に見えないため、理解することは難しく、実感するしかありません。たとえ実感できたとしても、それを他人に示すことはできず、あくまで主観的な体験です。

先日、N氏の個人指導を行ったときのことです。いつものように7時半過ぎに彼が現れ、準備運動や氣功法、天の鳥船の行をこなし、呼吸力のトレーニングに入りました。まず水火の氣を使った呼吸力のトレーニングを行い、その後天地の氣を使うトレーニングに移りました。姿勢を整えるために再度振魂の行を行った後、僕は指先に氣を集め、K氏の任脈*と督脈**の気の流れを作りました。その瞬間、K氏は「頭の天辺がジリジリとするのを感じます」と言いました。さらに詳しく話すと、僕が感じている状況とまったく同じことを報告してくれました。

N氏は超自然的現象を妄信も否定もしない医師ですが、自分の状況を常に中立的に判断するスタイルを持っています。ですから、K氏が述べた現象は、僕が事前に彼に自分の感覚を話したわけではないため、暗示による幻想ではないのです。

今回の指導を通じて、他の人も同様の状況に導く手順が見えてきました。これからは、他の人々も同じ体験をすることができるかもしれません。「天と繋がる」とスピリチュアルな人々が言いますが、合氣道には天と地が同時に繋がる行法があることが本当に素晴らしいと感じました。「人」という言葉は「ヒ(霊)をトめる」と言います。つまり、霊的な要素と肉体という物理的な要素が合わさって人間が成り立っています。一方だけに偏ると現実との乖離が生まれますので、天(霊)と地(物理)の両方が大切なのは言うまでもありません。合氣道の行法は本当に素晴らしいものだと思います。

(注釈)
* 任脈
経絡という氣の流れるルートの内、病気治療などで使われる十二経絡とは別の奇経八脈に属する一つで、身体の正中線の前側を通るルート

** 督脈
奇経八脈の内の一つで、人体の正中線の背面を通るルート

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津本陽氏の作品の中の井口師範

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さて、フェイスブックで、「井口師範が何故無名か?に答える」のリンクを張ったところ、井口師範から学んだことのある甲南大学合気道部のOBの方にコメントをいただき、津本陽氏の小説「黄金の天馬」(合氣道開祖伝)に井口師範が登場していることをご指摘いただきました。

確かに、井口師範に関する逸話の中で特に印象的なのは、津本陽氏の小説「黄金の天馬」に描かれたエピソードです。この小説は、合気道の開祖をモデルにした物語であり、井口師範がその中で重要な役割を果たしています。(P454~455)

物語の中で、井口師範は合気道の開祖に挑む場面が描かれています。これは殆ど実話をもとに書かれています。ある日、和歌山県の武徳殿で開祖が指導を行っている際、当時柔道四段であった井口師範はその場に現れ、開祖に挑戦しました。しかし、井口師範はその圧倒的な技術の前に手も足も出ず、瞬く間に制圧されてしまいます。柔道四段といえば柔道を志す人の中から本の一握りの人しか印可されない貴重な段位です。このエピソードは、当時でも井口師範がかなりの達人であったことを示すと同時に、合気道の奥深さを物語っています。

津本陽氏がこの小説を書いた背景には、井口師範の影響があります。実は、和歌山県出身の津本氏は井口師範の警察官時代の同僚である和歌山県警の田村氏とは彼を小説の主人公のモデルにするほど親しかったのです。田村氏は、井口師範の技術に感銘を受け、津本氏にその話を小説にするよう勧めました。津本氏は和歌山県在住の井口師範の存在に興味を持ち、合気道の達人としての井口師範の逸話を小説にすることにしたのです。

井口師範は、自身が小説の主人公になることを望まず、開祖の話を書くように津本氏に勧め、二代目道主に津本氏の協力を求めました。この謙虚さが、師の人間性を物語っています。そういった背景もあって、小説の中では井口雅博師範は「井田正浩」という名前で登場していますが、当時の井口師範の存在感を巧みに表現しています。

このように、井口師範は自らの名声を求めることなく、合気道の精神を尊重し、後世に伝えることに尽力しました。師の存在が小説の中に残ることで、弟子としては非常に嬉しく、誇りに思っています。

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井口師範が何故無名か?に答える2

皆さんお元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、前回のブログで、井口師範が無名である理由について触れましたが、それを読んで「井口師範が達人であるなら、何故技を継承する高段者の弟子がいないか?」という疑問をいただきました。確かに他の開祖の直弟子の人たちには技を受け継ぐ多くの弟子がいます。この問いは至極もっともであり、非常に重要であると考えられ、私もその答えをお伝えしたいと思います。これまでこの件については、特定の個人を批判することになるため、口を閉ざしていましたが、今はもうその方も亡くなられたことから、匿名のK氏としてお話しします。

クーデターの勃発

まず、私が井口師範を選んだ理由をお話しします。単に本部直轄の井口道場という名前だけではなく、子供の頃に父から聞いた合気道の達人の話が影響しています。ある日、和歌山場所で和歌山に来ていた力士が飲み屋で暴れ出し、警察官たちが手をこまねいている中、井口師範が現れ、力士を一瞬で制圧したという逸話です。ちなみに警察柔道の高段者が数人かかってもプロの十両力士には歯が立たなかったそうです。父が「いぐっちゃん」と呼んでいたその名をうろ覚えで思い出し、本部直轄井口道場にたどり着いたのが、私と井口師範の運命的な出会いの始まりでした。

1987年、私が井口師範の門を叩いた時、師が直接指導していた道場は和歌山県那賀郡貴志川町(現紀の川市)にある博文館だけで、会員は私を含めてわずか十数人でした。その道場は設立から2、3年しか経っておらず、さらにはそれから3年後ぐらいには大人はもはや館長と私を含め3人になってしまいました。私自身も達人の井口師範がこのような小さな道場で初心者を教えていることに疑問を抱いていました。実は、井口師範は過去に一番弟子のK氏によるクーデターを経験していたのです。

K氏は、ある日、別の場所に移ることになったと称し、井口師範が指導していた弟子たちを連れて行ってしまったとのこと。残ったのは高弟のM氏とO氏の二人だけでしたが、M氏は早くに夭折し、O氏は仕事の関係で合気道を続けられなくなりました。

このように書くと、K氏が狡猾で計算高い卑怯な人物に見えるかもしれませんが、実際には井口師範の指導に対して何か不満を抱いていたのではないかと思います。具体的には、K氏は井口師範が本当のことを隠し、適当な指導をしていると感じていたのかもしれません。

私も井口師範から秘伝の指導を受けたことがありますが、師の教えは感覚的な表現や「こうする」という指示が多く、非常に分かりにくいことがありました。また、前回の指導と真逆のことを言われることもありました。私の場合、達人が言うことだから何かあるに違いない、どちらも正しいのだろうと考え、考え抜いた結果、物理学と結びつけて「陽の技法」と「陰の技法」という理論を発見しましたが、そのとき矛盾に不満を感じていたら、今の自分はなかったように思います。

しかし、K氏は井口師範の教えに対して不満を感じ他の仲間を誘ったところ、同様に多くの弟子がK氏について行ったので結果的にクーデターとなったのではないかと推測されます。井口師範と親密になる折角のチャンスだったのに去っていた弟子たちは本当にもったいないことをしたと思いますが、とくに最も井口師範に近かったK氏は井口師範の後継者となりえたはずで、本部直轄井口道場を発展させられたはずなのに本当にもったいないと思います。

息子が後継者でない理由

私が井口師範の門を叩いた時、師の門下生はほとんどいない状況でした。さらに気になったのは、井口師範のご子息たちのことです。奥様から伺った話では、息子たちに合気道を教える際、一切の手加減せずに教えた結果、心臓に大きな疾患を抱えることになり、運動ができない体になってしまったとのことです。

このような事情から、井口師範の後継者が育たなかったのです。しかし、逆に言えば、私にとっては幸運でした。井口師範の晩年の弟子も少ない中で、過去の失敗から厳しいだけではいけないと改め、師は自分の体得した技術を少しでも伝えようとしてくださったからです。通常なら、私のような者が達人の門下に入っても目にもかけてもらえないのが普通ですが、運命的なタイミングで出会えたことに感謝しています。

前回も説明したように井口師範は何度も表舞台に出る機会を逸してきましたが、それが私にとっては本当にラッキーでした。運命的なタイミングで師匠と巡り合えたことに深い感謝の念を抱いています。今後も、井口師範から教わった技術を後世に伝えられるよう、努力していく所存です。

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