中心(丹田)について

今回の話は、合気道ではよく使われる丹田の話ですが、合気道修行者の人が読むと少し異端に思うかもしれません。別にこれが正しいのだと主張しているのではありません。

まず、一般的なところから行きますと。丹田とは、もともと気功の元となった中国の神仙道から来た言葉です。神仙道では、気を集め、不老長寿の薬、要するに丹を作る田という意味から、丹田と呼ばれているということです。場所は文献によってさまざまで、臍の下、2センチぐらいから15センチと所説さまざまです。共通する認識は、正中線上にあり、臍の下で、内部にあるということです。

合気道では、この丹田が自分の中心と教えますが、丹田の場所についても、師範により様々です。物理的にはっきりと示されているという理由で肥田式強健術の聖中心を丹田という合気道家が多くいるようです。興味ある方はネットで検索してください。このように、ここを意識しなさいと言っても、こう様々だとどれを信用していいんやらということになります。

多くの道場では、本当のところ、心の底から「ここが丹田だ」と言い切れる人がいないのが現状ではないでしょうか。

井口師範は
「そんな細かいことはどうでもいい。体が安定したときに忽然と中心(丹田)が感じられるから、場所などを人から教えられるものではない」
と、言われ、場所を教えていただけませんでした。

これを聞くと、かなりいい加減なことをいうと感じられる方もいらっしゃるかもしれませんし、合気道の修行者の方の多くはびっくりすると思います。何故なら、多くの師範(というより井口師範以外の方といった方が正解かもしれません)は、「初めに丹田ありき」で説明されると思います。そして、静止した状態で、丹田を意識したら、それを維持するように指導されます。

井口師範の言わんとすることは、丹田は感じるもので、思うものでないということです。場所として教えられると、感じてはいないのに、意識することはできます。すると、当人は感じていると勘違いをしてしまいます。

別の言葉でいえば、じっとしているときに丹田を感じる姿勢と動いているときに丹田を感じる姿勢が違うのです。

もっと言えば、体の勢いによって、丹田を感じる姿勢が違うのです。一人で静かに立っているときの体勢、一人で動いているときの体勢、相手と動かずに立っているときの体勢、自分が動いて相手が止まっているときの体勢、自分も相手も動いているときの体勢はすべて異なり、それぞれの体勢で一番よい姿勢があり、その状態のときに、中心(丹田)が感じられると井口師範はいわれました。

なお、井口師範の生まれた時代は、だれでもなんとなく丹田の位置を知っていましたが、現代の人は丹田という言葉さえしらない人がいますので、当会では、丹田の大まかな位置は皆さんに教えることにしています。

これにより「相手と結ぶ」というのは、「自分が丹田を意識できる姿勢を作ることにより、丹田と相手が結ばれた感覚をつくる」ということだと説明されています。

合気道の稽古では、一般的には丹田を意識してから、技をかけるといわれます。「その都度、丹田が感じられる姿勢をつくれ」というのは、非常に窮屈な考えで、それぞれの状況で、最適な姿勢があるという考えを受け入れられない人も、そういう考えもあるということを頭の隅に置いておかれるのもいいとおもいます。

達人の発想

 

井口師範がご存命であったある日の話です。毎年の恒例で、私はお歳暮の瓶ビールを1ボックスを携えて、井口師範のご自宅を訪問しました。

その日は日曜日でしたが、井口師範は警備会社の顧問のお仕事をされていてお留守でしたので、井口師範の奥様が玄関にでてこられました。

私は、ビールのボックスを玄関に置きそのまま帰ろうと奥様に
「失礼します」
と頭を下げましましたところ、

奥様が
「あのね、合気道の修行も大切ですが、あまり無理をしたら、家族に心配かけますからだめですよ。私もね、かなり主人には、心配をかけられましたから……」
と、おっしゃられてから、以前あった話をされました。

それは、ある日、近所の奥様が血相を変えて、井口師範のご自宅にこられたそうです。話を聞くと、そのご主人がヤ○ザとトラブルを起こし、ヤ○ザが団体で、その家にやってきたということです。井口師範は、その話を聞くなり、小走りでそのお宅に向かったそうです。

井口師範の奥様も心配になって近所の奥様といっしょに、師範より少し遅れて、その家に向かったそうですが、奥様が到着したころには、どういう経緯でそうなったのか、なんと、そのお宅の前で、日本刀など刃物をもったヤ○ザ十数人が井口師範を囲んで、今にも切りかかろうという場面になっていたそうです。

奥様は、
『おとうちゃん、もう殺される』
と、思ったそうです。このときの恐怖は今でもはっきりと思い出すといっておられました。しかし、あれよあれよというまに、刃物をもったヤ○ザを全員片付けてしまったそうです。

その話を聞いた当時、私は、井口師範の運転手をしていたので、送迎の際に、その話を詳しく伺いたくて、次の稽古日を待ちに待っていました。稽古が終わって、井口師範をお宅にお送りする際に、さっそくその質問を切り出しました。
「先生、奥様から、先生が刃物を持ったヤ○ザと大乱闘してやっつけてしまったのを見たと伺ったのですが、そのときの詳しいお話しをお聞かせていただけませんか?」

「あー? どのヤ○ザの話かな?」
と、井口師範が逆に私に問いかけていました。

「ご自宅の近所で、刃物を持ったヤ○ザと大乱闘をしたという話ですが……」
と、いいますと、

「ああ、言われてみれば、そういうこともあったなあ。かなり古い話や。あまりおぼえてないなあ」

「……。あっそうですか? しかし、十数人の刃物をもった刃物のヤ○ザと戦って退散させたというのはもの凄い話だと思うのですが……」

「そうか? そんなにもおったんか? あまり覚えてないが、家内がいうんやからそうなんやろ」

「はい、奥様は十数人と言っておりました」

「曰く、大したことなかったから、ちゃんと覚えてない。でも、話は簡単! それだけ居っても、複数で刃物をもったら、お互い切るわけにいかんから、その分不利になる」

とんでもない状況をさらっと極当たり前にいってのける井口師範のお言葉でした。達人ともなると、考え方が、普通の人間と180度違うものなのですね。

この話を思い出すたびに、私は未だに自分の未熟さを思い知らされます。

皮膚の技術と皮膚感覚の技術の境界線

当会の皮膚の技術と皮膚感覚の技術に関して、現会員の方も、それぞれの技術の違いにしっくりと来ていないのではないかと思います。理由は後で述べますが、それぞれの技術の境界線を引くというのは実は不可能なのです。そこで、その目安だけを今回示したいと思います。

今月、関東の方2名に井口師範の秘伝を伝授しましたが、皮膚の技術と皮膚感覚の技術の違いを思うように説明できなかったように思います。

ですから、初めての方が、皮膚の技術だけでも、かなり革命的な考えであるので、その上位技術の皮膚感覚の技術との違いなると、非常に混乱されるようです。

といいますのは、それぞれの範囲を考えたとき、何処までが皮膚の技術でどこまでが皮膚感覚の技術かというと、私自身、実のところ非常に曖昧でどこまでとはいえないところがあります。でも、皮膚の技術と皮膚感覚の技術を一緒にすることはできない理由があります。

端的にいうと、皮膚の技術というのは、生理学上の問題を扱う技術で、皮膚感覚の技術は、生理学と心理学を使った技術といえます。また、私の中の分類としては、皮膚の技術の上位技術が皮膚感覚の技術です。

当会の秘伝であるそれぞれの技術も、飽くまで技術を超えるものではありませんので、それぞれ技術を知っていれば、その対策もできます。

しかし、相手が皮膚の技術を知っている場合、皮膚の技術の対策をしてきても、皮膚感覚の技術を適応すると思わず技に掛かってしまいます。そういう意味で、皮膚の技術と皮膚感覚の技術というのはやはり違いがあるものなのです。

そこで、当会の技術の分類をはっきりと示すと次のようになります。
①骨の技術(骨格の強弱と物理学を利用する技術)
②皮膚の技術(生理学を利用する技術。但し骨の技術と併用)
③皮膚感覚の技術(生理学と心理学を利用する技術)
④空間感覚の技術(心理学を利用する技術)
見ていただくと、はっきり技術が分かれているように思われるかもしれませんが、上記の②と③や、③と④になると、その境界ははっきりしていないのです。

何故なら、上位技術である皮膚感覚の技術を知っている人は、皮膚の技術を行っているつもりでも、無意識に心理誘導を行ってしまうことがあり、当人は皮膚の技術だけで行っているつもりでも、そうなっていない場合もあるからです。

また、相手が皮膚の技術しか知らない場合、非常に暗示にかかりやすい状況になり、皮膚の技術をやりながら、皮膚感覚の技術の効果が出たりすることもあるからです。

こういった問題があるため、多くの方を悩ますのだと思うのですが、その境界線をはっきりとどこで引くかという定義は、現段階では考えていません。上記の大まかな定義を参考に、修行者の自分なりの基準を作っていただければと思っています。

関東からの来客

今月11日と25日に、Youtubeの映像で井口師範の秘伝に興味をもたれた方が、関東よりこられました。お二人とも合気会の3段ですが、タイプはかなり異なりましたが、ともにレベルはかなり上のほうだと感じました。互いに面識がないようなので、それぞれ別の日に秘伝を伝授しましたが、和歌山くんだりまで関東からこられるとは、本当に熱心だと心から感心しました。

特に25日に来られた方は、理論的な理解が速く、肩を叩いて相手を倒す技術を一日でマスターされました。これには、私もかなり驚きました。非常にセンスのある方だと感心してしまいました。

井口師範の秘伝の伝授がおわると、「井口師範は本当に達人だったのが良く分かった」とおっしゃられました。私はこの言葉を聞いて本当にうれしく思いました。

確かに、私が受けた秘伝は、あまりにも非常識すぎて、使えるようになるまで、「?」の状態でしたので、この非常識きわまりない秘伝を受けて、体験して、納得したとき、「普通の人間ではこの発想は浮かばないだろう。達人でないと考えもつかない発想だ」とつくづく感じられたということですが、私自身もそう思います。

しかも、どこにもない始めて聞く技術ばかりで驚かれたそうです。「これらの技術を知っているだけで、合気道の修行は20年は短縮できる」と私がブログに書いているのは、大げさなことではないとおっしゃっていただきました。

実はこれと同じことを、その日の午前中に個人指導させていただいた合気道四段の方も言っておられました。

「ウチの師範も、かなりの年数を合気道に費やしているが、秘伝の初伝の一部がわかっているだけに過ぎないということから、20年短縮というのは、才能が非常にある特別な人の話であって、普通の人であれば50年どころではない」

一日のうちの午前と午後に同じことを言われると、デジャブのような感じがし、非常に変な感覚になりましたが、とても有意義な一日でした。

折れない腕について

合気道のパフォーマンスで、「折れない腕」というものをよく合気道家が行います。この「折れない腕」とは、「術者が指先を開いて差し出した片腕に気を通すと、両手を使って肘関節で折り曲げようとしても、絶対に折れない」というもので、両手対片腕では常識で考えて、片腕の方が絶対に不利なのに、曲がらないというところに見せ場があるのです。

殆どの合気道家は、「折れない腕」の実現のためには「指を開かないと気はでないので、握って拳を作ってはいけない」といいます。この「折れない腕」を根拠に、「空手や拳法のパンチは“気”が出ない。本当に気を用いるのは合気道だけ」と主張する合気道家もいるほどです。

一方、井口師範は、「指を開いた方が、気を感じやすいさかいや。拳でも関係ない。初級者はパー。上級者はグーって思といたらいい」といわれました。このように、井口師範は、太極拳を初めとする中国武術の気についてもく否定する立場をまったくとってはいませんでした。要は、「出しやすいか、出しにくいかの違い」ということでした。

ただ、合気道の気と中国拳法の気では、思想的にかなり違いがあるようですので、同列に述べるべきものではないかもしれません。

話を元にもどして、合気道を数年やり投げ技など上手にこなすのですが、「折れない腕」ができない人がかなりいます。実は、気がでていると想像しても、割と多くの人はできません。指導する人に、「本気で気がでていると思っていないからだ。本当に思えるようになれば腕に気が流れ絶対に曲がらない」といわれた人が多いのではないでしょうか。

では、気がでていると思うだけで曲がらないというのなら、機械で折り曲げたらどうでしょう。何トンもの力がでる機械相手で本当に「気が出ている」と思うだけで折れ曲がらないのでしょうか?

もし、それが可能なら、高層ビルから飛び降りても、体に気が流れていると考えれば、無傷ということになります。それはそれで超能力的でSFチックで、物語りとしては面白いのです。

しかし、私は経験的にその発想は否定しています。それをいっちゃー「夢」がなくなるといわれることがよくありますが、武道をするものは、そんな「夢」や絵空事を信じるより、身体を鍛えた方がよほど役に立つと思います。

ところで、「本気で気が流れていると思っていないからだ」という上級者は、嘘を言っているのでしょうか? 答えはNoです。少なくとも、本人は本気でそう考えています。そういう師範は、「気」がでていると思うだけで「折れない腕」ができた部類の人なのです。

では、「思えばできる」のでしょうか? 実は、折れない腕が出来ない理由は、「思う」次のことが出来ていないからです。大切なのポイントは「感じる」ということです。気が出ていると感じることができれば、「折れない腕」ができる人の確率がさらにあがります。

では、何故「感じる」と曲がらない腕ができるのでしょうか? 気が出ていると感じようとすることで、身体が反応し、その感じを起こそうと、当人が分からないぐらいに微妙に動いているのです。この微妙な動きによって「折れない腕」ができます。

ですから、この微妙な動きさえ実現できれば、手を握った状態でも「折れない腕」はできます。この微妙な動きによって、相手に力を入れさせない状況が出来るわけです。「折れない腕」というのは、実は相手に思うように力をいれさせない技術の一つです。それが分かると、座り技呼吸法も、天地投げも同じというのがわかります。また、しっかりと両手で掴まれても同じだとわかります。

要するに、合気道の技術には、相手との関係というのが大切になってくるのです。この関係は、結びと呼ばれているもので、どこかで「相手と結ばれた」感覚を感じるものです。

合気道では、「己が宇宙の中心である」と教えます。しかし、それは、独断的な「自己中心」ではなく、相手との関連性の中で自分が宇宙の中心であり、相手との調和の中心と捉える発想ではないでしょうか?

今回の記事を読まれた合気道家の方には、「折れない腕」というのを、合気道のパフォーマンスで人に見せるだけではなく、もう少し研究していただきたいと思います。そうすれば、実は応用範囲が非常に広い、基本中の基本の技術であることが分かります。

心・気・体の一致

井口師範は、「合気道の技は体だけではあかん。それから、心だけでもあかん。心と体が合って初めて合気道の技になるんや。霊主体従ということや」とおっしゃられました。

合気道では、技を行う際、心と気と体を考えます。多くの日本人は、多分『なるほど』と分かったように聞いてしまうのではないでしょうか?

でも、気といわれると、殆どの人があいまいで、よく分からないものではないでしょうか? わかっているという人に聞いても、万能のエネルギーで、物体を破壊することもできれば、病気を治すこともできる不思議なエネルギーとまったく意味不明なことをいわれることもあり、また、気とは心の状態といわれる人もおられ、結局何なのかよくわからないものになると思います。

そこで、井口師範の話をさせていただきますと、井口師範は、「心でよく気を制御し、気と体と調和して動かなければ技にならない。技にするには気の流れに乗って体が動かなあかんのや」といわれました。

つまり、井口師範によれば、まず心が動き、次に気が動き、最後に体が動くという順番で、技が行われるということです。前回まで当身の話をしていましたので、一般的なパンチの出し方をもう一度考えて見ましょう。

攻撃者が、先ず、パンチを出そうと心で思います。次に、攻撃箇所に気を出し、最後に肉体の一部であるパンチを攻撃箇所に叩きつけます。

これが普通です。ですから、このように心が動けば、気が出ます。そして、実は、気は一瞬で山の上でも飛んでいきます。遠くの山で何か煙が昇っていたら、すぐに煙のほうに気とび、そして、山火事であることに気づいたりするわけです。

ですが、井口師範は、「気をむやみに飛ばしたらあかん」と注意されました。「気は体を導くもの、気によって体を導かなあかん。気と体を分離したらあかんのや。それが自然ということや」といわれました。

もう少し分かり易く説明しますと、物を拾う場合を例にとりますと、目の前に自分のサイフが落ちていれば、あっと思ったらもう拾っていると思います。その拾い方には、何の無駄の力も入っていません。ところが、カルタ取りのようなゲームを行うと、殆どの人は、いかにも「用意!」の掛け声でスタートするように緊張して、手を引いてすぐに手がでるように用意をします。そして、探したカルタに向けて、誰の目からも分かるように、その人の気を出します。その動作は、前者のサイフを拾う動作に比べると不自然そのものになります。

合気道における自然な動きというのは、この様に出そうと思って出すのではなく、自然と出るというの動きを目指すのです。そのためには、「気をむやみに飛ばすな」と気を出すことを井口師範は否定し、心・気・体の一致が自然な動きには大切と教えたのです。

当身について④

一般に、合気道では、受けは、正面打ち、横面打ち、正面突きなどの当身を行います。しかし、この当身に対してあまりにも無頓着な人が多いのではないでしょうか。いい加減な当身では、相手の技術の向上を助ける受けの役割がなされません。その理由をここで述べたいと思います。それには、当身が「当たる」ということに関して、井口師範から教わったことをお聞きいただきたいと思います。

井口師範は、当身が“当たる”という場合、3種類あるといわれました。
①偶然に当たったとき
②攻撃者の気と被攻撃者の気が重なったとき
③攻撃者の心が被攻撃者を確実に捕らえているとき

①については、もう言うまでもありませんね。また、③は非常に稀で、秘伝のある武道で特別な稽古を何年もした人か天才の技術です。また、③は、技術さがかなりある場合にも起こります。そこで、もっとも一般的な②について少し詳しく説明したいとおもいます。
ます、攻撃者が相手にパンチを当てるという状況を考えますと、次の段階でパンチが出、相手にヒットします。
Ⅰ. 攻撃者は、パンチを打ちとうと思う
Ⅱ. 攻撃者は、当てる場所を意識する(気を出す・気を当てる)
Ⅲ. 攻撃者は、パンチを打ち出す
Ⅳ. 攻撃者が、Ⅲの次の瞬間、「当たる」と感じる
Ⅴ. 被攻撃者も「当てられた」と感じる
Ⅵ. 攻撃者のパンチが当たる

この6つの段階で、パンチがあたります。

ところが、Ⅴの段階で、受け手は「あっ、当たった」と感じれば、Ⅵでパンチが当たりますが、「外れた」と感じれば、パンチをよけることができます。大切なポイントは、「外れた」と思うのではなく「外れた」と感じることです。ですから、いくら思おうとしても、考えてもダメです。

そして、この感覚を利用すると非常に面白いことができるのがわかります。これが分かると、当身ではありませんが、例えば、剣取りの技術もなるほどと納得できます。当会の空間感覚の技術というのは、そういう感覚(心理)を利用するもので、秘伝を細かく習ってみるとかなり利用範囲があります。ですから、ある意味で、空間感覚の技術とは、心理学でもあるわけです。

ですから、合気道で稽古する際は、攻撃役の受けの人が、しっかりと気を当ててから攻撃をしてあげないといけません。初めから、相手のいない方向に攻撃する人や相手に当たらないように攻撃する人が時々見かけますが、これではまったく稽古にはなりませんので、しっかりと当てるつもりで、当たる前に寸止めで止めてあげるという操作ができないといけません。その点に注意して受けをする人は、当身を行う必要があります。