井口師範がご存命であったある日の話です。毎年の恒例で、私はお歳暮の瓶ビールを1ボックスを携えて、井口師範のご自宅を訪問しました。
その日は日曜日でしたが、井口師範は警備会社の顧問のお仕事をされていてお留守でしたので、井口師範の奥様が玄関にでてこられました。
私は、ビールのボックスを玄関に置きそのまま帰ろうと奥様に
「失礼します」
と頭を下げましましたところ、
奥様が
「あのね、合気道の修行も大切ですが、あまり無理をしたら、家族に心配かけますからだめですよ。私もね、かなり主人には、心配をかけられましたから……」
と、おっしゃられてから、以前あった話をされました。
それは、ある日、近所の奥様が血相を変えて、井口師範のご自宅にこられたそうです。話を聞くと、そのご主人がヤ○ザとトラブルを起こし、ヤ○ザが団体で、その家にやってきたということです。井口師範は、その話を聞くなり、小走りでそのお宅に向かったそうです。
井口師範の奥様も心配になって近所の奥様といっしょに、師範より少し遅れて、その家に向かったそうですが、奥様が到着したころには、どういう経緯でそうなったのか、なんと、そのお宅の前で、日本刀など刃物をもったヤ○ザ十数人が井口師範を囲んで、今にも切りかかろうという場面になっていたそうです。
奥様は、
『おとうちゃん、もう殺される』
と、思ったそうです。このときの恐怖は今でもはっきりと思い出すといっておられました。しかし、あれよあれよというまに、刃物をもったヤ○ザを全員片付けてしまったそうです。
その話を聞いた当時、私は、井口師範の運転手をしていたので、送迎の際に、その話を詳しく伺いたくて、次の稽古日を待ちに待っていました。稽古が終わって、井口師範をお宅にお送りする際に、さっそくその質問を切り出しました。
「先生、奥様から、先生が刃物を持ったヤ○ザと大乱闘してやっつけてしまったのを見たと伺ったのですが、そのときの詳しいお話しをお聞かせていただけませんか?」
「あー? どのヤ○ザの話かな?」
と、井口師範が逆に私に問いかけていました。
「ご自宅の近所で、刃物を持ったヤ○ザと大乱闘をしたという話ですが……」
と、いいますと、
「ああ、言われてみれば、そういうこともあったなあ。かなり古い話や。あまりおぼえてないなあ」
「……。あっそうですか? しかし、十数人の刃物をもった刃物のヤ○ザと戦って退散させたというのはもの凄い話だと思うのですが……」
「そうか? そんなにもおったんか? あまり覚えてないが、家内がいうんやからそうなんやろ」
「はい、奥様は十数人と言っておりました」
「曰く、大したことなかったから、ちゃんと覚えてない。でも、話は簡単! それだけ居っても、複数で刃物をもったら、お互い切るわけにいかんから、その分不利になる」
とんでもない状況をさらっと極当たり前にいってのける井口師範のお言葉でした。達人ともなると、考え方が、普通の人間と180度違うものなのですね。
この話を思い出すたびに、私は未だに自分の未熟さを思い知らされます。