「力を抜く」意味1

合気道の稽古では、どうしても神秘的な発想を求める人がおられます。しかし、私の経験からすると、一部の才能のある人を除いて、合理的な考えをした方が、そういった発想を求める人にくらべて、かなり上達が早いように思います。

要するに、技の特性や動作の意味、生理的、物理的に強い使い方を知ることで、自分より筋力の上の相手に技を掛けることができます。

ところが、その動作の特性や意味を取り違えてしまうと、全く使えない技になってしまいます。特に一般的に合気道修行者の間で流布している発想には、誤解がたくさんあります。

そこで、合気道修行者の極よくありがちな発想と、それに対する合理的な発想と合理的な発想で稽古したときに得られるメリットを述べていきたいと思います。

合気道では「力を抜け」とよく言われます。
そこで、だらんと力を抜いてやろうとすると全く技ができません。では「力を抜くとはどういうことか?」と、合気道修行者を悩ませます。

そして、修行者各自が「力を抜くとはこういうことだろう」と勝手に判断をしはじめます。最後には、「筋肉を使わず、気を使う」という発想にたどり着きます。確かに「気」といエネルギーで体が動くという考えですと、一切筋肉は不要ということになり、一見合理的な考えのように思われます。

そして、「気」さえ出せばどんな事も可能になると思われます。「気」さえ使いこなせれば、仙人のように空を飛ぶことはおろか、惑星の一つでもつぶせるようなところまで発想まで浮かんできます。漫画ドラゴンボールで表現されている「気」の世界です。

もしそのような「気」が本当にあり、簡単に使いこなせるとすれば、素晴らしいことですし、筋肉を一切使わず、純粋にそのような「気」を使って体を動かすことは可能でしょう。そうすると、己の身体を「気」で動かせるのと同様に、伝説や小説に登場してくる傀儡子(くぐつし)のように、人間と同じサイズの人形を「気」を使って動かすこともできるでしょうし、自分自身が宙に浮くことも可能になるでしょう。

しかし、私は実際に自分の目でそのような人にあったこともありませんし、人どころかそのような気を使って動く生物すらあったことがありません。伝説では、空を飛ぶ仙人、龍や麒麟のように空を駆ける動物などたくさん出てきますが、一般的にも、科学的にも認知されてはいません。例え、そのような人や生物がいるとしても、非常に稀なことであると言わざるをえません。

例えそのような気という存在があるとしても、我々凡人が扱えるものからは甚だ遠いものです。そう考えると、神秘性ばかりを追求するより、自然の法則にしたがった合理的に考えた動きを身につけていく方が確実だと思います。

私は井口師範がおっしゃる「気」について当初は非常に混乱し、ある時は、力強く鋼のようであり、ある時は柔らかく巻き込まれるようであり、ある時は、空気のような捉えどころがなかったり、まったく理解できないものでした。

そのように、教えてくださる井口先生の秘伝を、私は理解できないまでも、何とか覚えなければと、自分なりに理解できるよう、現象ごとに、物理学(自然界の法則)、生理学(反射や反応)、心理学(思いこみ・錯覚・暗示など)の3つの分野で分類し始めました。そうこうしているうちに、そういった判断も間違いではないことが分かってきました。

そして、ある時井口師範いわれた「大自然にも気は宿る。自然を敵にしてはいけない。自然や宇宙の法則と一体になること、自然と調和する動きが正しい動き」という言葉で、私の解釈も誤りではなかったと気づきました。

それは合気道でいう「気」は、一つではなく、あるエネルギーを持った状態だということで、生体エネルギーを「気」と限定しているのではなく、様々な形で存在しているということだとわかってきました。そして、合気道の目的は、さまざまなエネルギーの流れを、流れに逆らわず、自然の法則にしたがって自在に操れるようになることであるということ気づきました。

「気」についてかなり話はながくなりましたが、あらゆる事象と調和し、積極的に、建設的にそれらを利用することが合気道であれば、力を抜くという意味もかなり変わってくるのではないでしょうか。

「囚われ」と「こだわり」

先日、中国拳法の方の個人指導を行いました。
予定の時間より少し遅れるという連絡が入りましたので、道場内がちょっと冷えていたので、体を動かしてウォーミングアップしておこうと、ジークンドー(截拳道)の動作を稽古をしていました。

そこに、その方が登場し、私の動きを見て、
「かなり速い動きですね。人と対したときも同じ動きができるのでしょうか?」
と、質問されました。そこで私は
「では、好きなように構えてください。攻撃をしますので、それに対応してみてください」
と、相手が構えた瞬間、ジークンドーで相手を攻撃しました。

すると、
「とても速すぎて全く対応できません。前回に学んだ技術も全く使えませんでした。」
と、いいました。

そこで、
「では合気道の術理で、そんなスピードに対応できるものなのでしょうか?」
と、いう質問されました。

その対処方法は、「皮膚感覚の秘伝」と「空間感覚の秘伝」を使うことになりますが、これは前々回からこの方に指導しているものです。これではブログを読んでいる方にはわからないと思いますので、“間合いを制する”のがポイントになるとお考えください。

要するに、パンチやキックは当たる位置があり、しかも効果のある位置というのはさらに限られた位置になりますが、その位置に来る瞬間に攻撃が来るのですから、その一瞬前に相手を捕らえることにより、その後の攻撃をできなくします。

この方には、前回の間合いを制する稽古でかなりのところまでできるようになっていたのですが、速い手足の動きに気をとられ、術理が効かず、全く動けない状況になり、ただのサンドバック状態になった訳です。

井口師範は、「当たらないところに居(お)れば当たらない」と、おっしゃいました。
要するに、パンチや蹴りが当たるには、当たるのに最適な距離があるわけです。その距離を武道では間合いといいますが、それを如何にうまくコントロールするかというのが、「空間感覚の技術」です。

ところが、この人は、「手がどう動くか? 足がどう動くか?」と考えておれば、意識がそれに囚われ、間合いを意識することが疎かになり、前回実現できていた動きが出来なかったのです。

実は「囚われる」というのは、私もよくすることです。指導している際に、一つの術理にこだわりすぎるため、急に技が効きにくくなったりすることをときどき感じ、後で、『ああ、こだわっていたなあ』と反省することがあります。その術理を教えるにはある程度こだわらないといけないのですが、こだわりすぎると腕に力が入ったりするわけです。

そして、この人に、前回と同様の説明を繰り返しましたが、前にできていた動きがなかなかできません。どうしても防御に意識が行き、前回の動きすらできていませんが、当の本人は、自分がそれに囚われていることに、なかなか気づかず、指示通り動いているように思っています。

ですから、いくら「囚われている」と示しても、それでも自覚ができません。約2時間かかって、ようやく自分の「こだわり」に気付くと、また前回の動きがもどってきました。
それで、この人に向かって、私は最初に行ったジークンドーの動きで攻めましたところ、その人は巧く捌くことができました。

このように、自分の「こだわり」には、中々気づかないものです。その「こだわり」は思い込みからでたものです。最初に来られたとき『こんなに速い動きではどう対処していいのかわからない』と思ったのだと思います。

その結果、『無理』という先入観が無意識の中に形成され、それを解くのに2時間要した訳です。人間は、この『無理』という発想や、『この技は必ずこうする』という誤った先入観があると、技がうまくいきません。また、それが大きな修業の妨げになりますので、巧く行かないときは、上級者に相談するのが一番いいと思います。

形稽古の「受け」の大切さ

合気道は形稽古を中心に行う武術ですが、合気道において、形稽古で技を掛ける側を「取り(捕り)」、掛けられる側を「受け」と呼びます。そして、合気道は「受けが極意」と言われることがあります。

「受けが自ら倒れ、投げられてあげること」と誤解される方が非常に多いように思われます。確かに、演武を見せるとき、多くの師範はそのような弟子を非常に好む傾向がありますので、皆さんもそう考えるのも無理はありません。

しかし、井口師範は、
「技の稽古では、正しい動きをしたときだけ、正しい反応をしてあげないとあかん。技がより完成できるように導いてあげるのが正しい受け」
と、言われていました。

演武では、多くの観客がいますので、「取り」に恥をかかせるわけにはいきませんから、技が効いていなくても、勝手に派手に倒れて、「取り」を引き立ててあげる必要はありますが、稽古の際は、そのような心配りは、逆に修行者の技の向上を妨げる以外なにものでもないということです。

また、井口師範は
「曰く、僕は、合気道を極めるため、できる限り翁先生の受けをとらせていただいた。それで合気道の呼吸(極意)を会得したんや。翁先生に受けを取らせていただくために、常に努力をし、常にどうしたらいいか考え、常に行動していたんや。一流になりたかったら一流の人の呼吸をもらわなあかん。だから、東京に行ったら、必ず翁先生や藤平先生にくっついて、いつも呼吸をもらう努力をしていたんや」
と、話されています。

このように能動的な「受け」は、合気道にかかわる特別な感覚を受け取るために非常に大切だと井口師範はおっしゃっておられました。

要するに、教えるときも、教えを受けるときも、特別な感覚を肌で直に味わえるようにするのが正しい「受け」だということです。

しかし、その特別な感覚を味わうには、非常に才能が必要だと私は思います。ですから、才能のない私は、井口師範のその感覚を理解するのに非常に時間がかかりました。

そこで、その感覚を、言葉に変え、理論的に理解しやすいレベルにしようと試み、井口師範の秘伝を4種類に分け、物理学、生理学、心理学の3つの分野で分類して、感覚を頭でも理解しやすいようにしました。それが、骨の技術、皮膚の技術、皮膚感覚の技術、空間感覚の技術という当会独自の4種類の秘伝となっています。頭で感覚が理解できると、直接手をとってあげることで、上達の速度が飛躍します。

私が10年以上かっかた技術でも、合気道未経験の女性が半年(週2回の稽古ベース)でできるようになったのは当会ホームページでも紹介している通りです。

ですから、当会ではその感覚の伝授を大切にするため、私は自分の知っている感覚をできるかぎり、直接すべての会員の方に伝えられるよう全員の手をとることを心がけています。

本ブログを見ている合気道の修行者の方もできる限り、師範を初めとする技術が優れた人の技を受けるようにし、その感覚に注視してください。

もし感覚に興味がある合気道修行者の方で、当会の技術に興味のある方で、師範や仲間の人に顔がさすと都合の悪い方は、個人指導の方をお受けいただければいいと思います。個人指導ではビデオのアップは行っておりません。

以下では、空間感覚と皮膚感覚の技術が身につくように、受けをとっています。映像の受けは、演武とみれば、お世辞にも上手な受けとは言えません。それどころか、演武だと「超下手くそ」とののしられるのがおちです。ところが、感覚重視の稽古ではこのようにポイントだけ絞って受けてあげないといけないこともあります。綺麗に受けを取ってしまうと、効いていなくても、効いた気になるからです。

形稽古の「受け」の大切さ1

合気道は形稽古を中心に行う武術ですが、合気道において、形稽古で技を掛ける側を「取り(捕り)」、掛けられる側を「受け」と呼びます。そして、合気道は「受けが極意」と言われることがあります

合気道では、正しい「受け」ができる人はかなりの技がでるとみるということです。正しい「受け」とは正しい感覚を伝えることができる「受け」ということです。だから正しい感覚をしらないと正しい受けはとれないのです。

「受け」名人という言葉を合気道で時々耳にします。「受け」はうまいが、技は効かないということです。こういう人は、本当の「受けが極意」という意味を取り違えているだけです。合気道は演劇や映画の殺陣ではありませんので、いくらアクロバティックに綺麗に受けをとれても、達人といわれることはありません。飽くまでも演武の引き立て役に重宝がられるだけです。

合気道は、形稽古主体ですから、同じタイミングで、同じリズムで、同じ方向に同じように技を繰り返せば、当然受けの人は、逆らうタイミングがわかりますから、逆らおうと思えば、2度目、3度目からは逆らうことができます。そういう意地悪な「受け」と行った稽古では、「取り」に『何故か効かない』という感情を植え付けるだけですから非常によくありません。

一方、効きもしないのに、勝手に倒れてあげるのは、これもまた誤解を生むだけです。その結果、実際の格闘の経験もないのに、他の武道を軽蔑・批判したりする人が現れたり、「相手が屈強な男が複数いても簡単」と誤解してしまう女性が現れたりすることになってしまいます。
「短刀取りを習ったから、包丁をもつ相手でも大丈夫」と、ある女性の初段の人が言っているのを聞いたことがありますが、これも習えばできるというものではありません。形稽古のように決まった軌道で相手は攻撃してくれません。

刃渡り5センチ程度のナイフでもかなり恐怖です。そのことすら経験がないので、からないのです。私が以前やっていたジークンドーでは、かなりナイフ格闘の稽古をしましたが、それでもナイフを相手にするのはできれば避けたいと思っています。合気道の短刀取りとちがって、ジークンドーのダガーナイフは、非常に多岐にわたって行いますし、パンチ、蹴り、目つぶし、急所攻撃なども入っています。それでも、ジークンドー修行者で、刃渡りの長い包丁はまだしも、「ナイフは大丈夫」と言える人はいないでしょう。相手がナイフを持てば、まず武器をとることを考えます。

私は、過去に2度、ナイフで脅されたことがありますが、たまたま相手が弱い人であったからボコることができましたが、それも運が良かっただけだと思っています。というのはお金をゆするのが目的で相手は殺人が目的ではなかったのです。だから、相手はナイフを持つことで隙だらけで、その上ナイフの素人だったから助かったのです。ですから、「これで大丈夫」ということは絶対にありません。やはり稽古は一生必要だということです。

このように間違った観点の「受け」をやっていると修行者に大きな誤解を生むことになりますので気を付けないといけません。

「いたずら合気道」

以前とった映像で、面白いものを見つけたので、「いたずら合気道」としてYoutubeにアップしました。

相手の重心をずらして導く方法として、2ついい例になると思いましたので、そこだけ切り取って映像としました。

一つは、握手から相手を倒す場面と、もう一つは人の座っている席を横取りする方法です。

呼吸力の誤解

合気道をしていると、「呼吸力」という言葉を、「筋肉を使わない、気を使った力」と指導されることがある人もいると思いますが、その場合、殆どの人は『気って何だろう?』と思いながらも、「なるほど」と納得した顔をされているのではないでしょうか。「気」は日本では常識になっているので、あまり詳しく聞けない雰囲気もありますが、結局わからず、雰囲気で納得していると思います。

そこで、気のトレーニングとして、超能力の訓練のようなことをしようとする人が現れ、やれ滝行や神社まいりやと、果ては、宗教にまで走る人までいる始末。

しかし、宗教を少しやっても、禅を少しかじっても、悟りを啓いた気になるだけで、呼吸力など全くつきません。何故なら、一つの宗教を何十年もやっても極められる人は本の一握りの人だけです。中途半端にかじったぐらいで、呼吸力がつくようなら、宗教を子供の時からやっている人の呼吸力はすごいはずですが、そんな話は聞いたことがない。

ところで、もともと「呼吸力」の「呼吸」という言葉の由来は、倭言葉(やまとことば)の「イキ」という言葉にあり、「イキ」には、当然、酸素を吸って、二酸化炭素を吐くという本来の呼吸の意味もありますが、古来から日本では、職人や芸の分野で、熟練を表すことにも「イキ」という言葉が使われ、調子やリズムから、芸事の深い要領まで表しました。

ですから、「呼吸力」の「呼吸」という言葉は、「阿吽の呼吸」(二人のやり取りのタイミングがぴったりと合っていて、所謂「息が合った」状態のときに使われる言葉)に代表される「呼吸」と同じような意味合いで使っているわけです。

ですから、「呼吸力」というのは、単なる力などと違って、熟練した力の出し方ということになります。特別な超能力ではありません。

下の映像は、呼吸力VS筋力とタイトルしている通り、力比べを映しています。映像からお分かりになると思いますが、力の出し方がわかりませんので男同士だと単なる力比べにしか見えないと思いますが、普通の体形の女性が筋肉質の男性を押しているところがこの映像のポイントです。胸の厚み、腕の太さもかなり違います。多分、体重は20キロ以上の差で、筋力は2倍以上の差はあると思われます。

この「呼吸力VS筋力」のタイトルでは、誤解を受けるかもしれませんが、誤解を避けるために、呼吸力でも、筋力は使われています。ただ、熟練した特別な技術で、単なる筋力と異なった力の使い方とご理解いただきたいと思います。

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また、今の合気道の一部指導者に、「呼吸力」の「呼吸」という言葉をそのまま受け取り、「息をしっかり吐きながら技をかけよ」と指導する方がいらっしゃると聞きますが、これは非常にナンセンスです。

確かに、中国拳法では、「はー」とか「ふん」とか息を吐きながらパンチを打ち込む動作をしますが、これには腹式呼吸と連動して行う発勁という特殊な力の出し方を行うのに使うもので、一瞬に溜めた息を、爆発呼吸で、パワーを倍加するという意味があります。中国武術には中国武術の理論・術理があり、それに則って行われているわけです。

一方、合気道で息を吐けと指導する方はいますが、何故そのようなことを言い始めたのか根拠がないと思います。開祖・植芝盛平翁先生がその様に言ったという話しはどこにも無いように思います。

また、投げ技をする際に息を思い切り吸って、悠長に「ハ~~」と相手にわかるように息を吐いていたら、技を掛けるタイミングがもろ分かりで、簡単に止められてしまいます。

呼吸の仕方については、合気会系の合気道ではあまり口うるさく言われませんが、例えば、達人と名の高い養神館の創設者・塩田剛三師範は、著書「合気道人生(竹内書店新社)」では、技を掛ける場合の呼吸を「吸う・止める・吐く」と次のように説明しておられます。

「ある一つの技をかける場合を考えてみますと、技をかける前に息を吸い、技をかける時は息を止め、かけ終って息を吐く というのが典型的パターンでしょう。
・・・真に力を一点に集中しようとすれば、息を止めて、それだけの動作にしぼるわけ です。しかし、息を止める時間が長いと、その間体内の酸素の欠乏度が高まり、 ・・・これが疲労に通じるわけです。
息を 止める時間は短ければ短いほどいいので、合気道の技は一瞬にして決める、というのも、そこにあるわけです。」

また、
「絶えざる稽古と研究の中で、自分の吸う息、吐く息、止める息の強弱、長短と、すみやかな重心の移動とがバランスが とれ、自分の体がリズムに乗るかを体得することです。
その時こそ、体が軽く、楽に動き、しかも技の効果が大きく、 疲労度も少ないことがわかり、合気道の素晴らしさを自覚し、一層修行の楽しさが増すことでしょう。」

この文章は、呼吸力については直接言及していませんが、ただ息を「ハ~~」と吐きながら技をかけることではないということはわかると思います。最後に故・塩田剛三師を知らない方のために、塩田師の映像を載せておきます。

なお、私の師・故・井口雅博師範は、合気会で、私は養神館の合気道に関しては詳しくありませんので、お門違いということもあり、塩田師の技については言及しませんが、合気会の技でも十分共通するところはたくさんあると思います。

悩むのは楽しい!

現在、黒帯取得の合気道の修行者2人の指導しており、一人は個人指導で、もう一人は定期的な稽古に来ていただいており、それぞれ別の師範に教わっているので、同一名称の技でも、教わっている形が違うことがよくあります。そして、それぞれの形に合わせて、指導をするのですが、どうしてもその形では、非常に不合理で術理的に無理があり、どう指導してよいものやらと思うことが、立て続けにあり、困ってしまいました。

彼らは、当会に一年以上所属している男性の合気道修行者で、当会の技術をかなり使いこなしています(ちなみに当会の女性会員の方で1年で合気道10年以上もしている男性の高段者を押し倒しています)。その彼らがどう考えてもおかしいと思っているのです。私も、今まではこうすればいいとアドバイスできるレベルものでしたが、今回の動きについては、まったく合理性がなく、武道や護身術としては、隙が出来すぎて、あまりにも不用意な動きに見える動作なので理不尽を通り越して、「馬鹿?」と思える技です。

それらの動作には、演武としては、動きが大きく、派手さがあり、遠くからの見た目はわかりやすく綺麗とは思いますが、「護身の立場で考えたら、崩れてもいない相手が、ボーっとその状態でなされるままにじっとしているわけがない」と彼ら考えるのも無理はありません。

しかし、両師範ともに、彼らが私が指導しているような形をすると、「そんな技だと実戦や護身術に使えもしない。もっと大きく動かないと相手は投げられない」といい、平気で相手に不用意に背中を向けるよう指導したり、無駄に手数の多い指導します。その点が、スパーリングや試合、実戦を体験したことのない合気道師範の方が考えることなのです。ところが、実際は、技を護身に用いる場合、こちらの動きが相手に察知されないうちに捕らえ崩していなければならないのです。

そういう訳で、「見た目同じで合理的に動けないか?」という質問になるのです。

しかし、今回の動きは、あまりにも極端なので、不合理と思われる個所があまりにも多く、「こうすれば、護身的使えるとか、武道的な意味合いがどうである」とか、「稽古でそういう動作をしておくとその動作が鋭くなり、将来的なメリットがあるとか」などアドバイスすらできませんでした。

今もあれこれと考えてみますが、あまりにも非合理な動きで、受けの人の協力がないとかからない技にしか考えられません。しかし、こういう一見不合理で不可解な動きでも、それを合理的にする方法を考えるのは非常に勉強になると思っています。

発想として、相手を崩してアンバランスの状態にしてから、し掛ければ、反撃される恐れもなく、そのような技も護身的・武道的な立場からしても可能ではないかと考えられます。

しかし、最も難しい点は、、周りからはわからない動作でまず相手のバランスを奪うことです。まずバランスを奪って動けなくしておけば、その後は、反撃をされる恐れもなく、技がスムーズにかけられ、見た目同じ動きができると考えられます。そうできれば、それぞれの師範に批判されることなく演武ができます。

ただ、周りからわからない動作で相手のバランスを奪うというところが非常に頭を悩ませているのです。多分使える技術としては皮膚感覚の技術になるのでしょうが、崩すにはどうしても方向性を考え、無理のない方向で相手を崩す必要があります。今回、質問された技の形では、その点が非常難しいものです。

兎に角、解決策を模索していますが、何か発見できるか、不可能であるかわかるのは、まだまだ時間がかかりそうです。プロの格闘家が見ても、素人目に見ても、あまりにも不合理と思える動きで全く技が効いていないように見えながら、実はすごく効いているような演武ができれば、本当に面白いと思います。また、何かアイデアがでたら、ブログに書くつもりです。

金縛りの原理

Youtubeなどでは、合気道の達人が、弟子たちが次々と金縛りになって、投げられたり、抑えられたりする映像が見られます。

「あれは、達人以外は不可能」
と、思われている人が殆どだと思います。

ところが、ある種の金縛り化は特別な人ができるというわけではありません。ちょっとした知識と感覚のトレーニングにより、誰でも簡単にできるようになります。

一見超能力のようなトレーニングが必要ではないかと思いますが、金縛りになる原理が分かれば、その様なトレーニングは必要ないとまで言い切ることができます。 

実は金縛りには、複雑な霊現象のような金縛りもありますが、もっと簡単な原理によって引き起こされる金縛りもあります。

そして、私たち目標とする金縛りは、後者のもので、その原理は次のようなことで金縛りが起こります。
人がバランスを失い、自分の体を安定させようと手で体を支えようとする際に、最低限の力というのがあるのですが、この支えようとする力がその最低限の力に比べ必要以上に大きいと、この余計な力とバランスをとるため肩の筋肉、背中の筋肉と順に力が入っていき、全体のバランスを取ろうとします。

その結果、どこかの力を少しでも抜くと、アンバランスが発生し、倒れそうになるので、どこの力も抜けない状態になります。これが武道における金縛りの原理です。その状態で、バランスを少しずつ崩し倒せばいいだけです。

ですから、金縛りを起こすには、相手に必要以上の力を入れさせ、その余剰の力を相手に戻してやれば実現できます。
以下の映像は金縛りを実現するため当会で行っている訓練の一部です。合気道の修行者の方のご参考になればと思います。

井口師範の合気道における「気」の考え方2

前前回のブログで井口師範の「気」について述べました。しかし、一般的な気の考えは、漢方医学など代表されるように生体エネルギーと呼ばれる部類のものを示されます。それで、井口師範の「気」の考えが異端のように思われたと思います。

実際に、漢方や気功のある研究によりますと、「気」測定ができ、科学的に解明可能なエネルギーだという主張があります。しかし、それをよくよく見てみますると、「気」の測定といっても、「気」そのものの測定ではなく、体内の電気(電位差)であったり、体から放射する赤外線であったりと、単に間接的な測定にほかなりません。間接的な測定することで、生体エネルギーとしての「気」の存在を証明していると主張されているわけです。

また、物理学でも、測定は不可能な実在が予見されている粒子の測定では、この間接的な方法をとります。しかし、飽くまでも、その物理的特性を示す条件に適用できるかが測定の焦点です。存在を示す物理的接点を確かめるわけです。単にやみくもに測定機に反応があったから、その粒子の存在が証明されたとは決してなりません。

一方、「気」というものは、病気を治すことも、病気を悪化させることも可能であり、物体を破壊することも、再生することも可能であり、人の意志でコントロールできるものようですから、人の意志に同期して、機械に反応すれば証明したことになるということでしょうが、どういう原理で、そのエネルギーが、物理的結果を起したのかは、説明がつきません。物理的接点が証明できないのです。そのようなエネルギーは、結局科学が扱う領域ではなくなります。ですから、気の研究は必要ですが、気の存在の証明も科学的に解明も行き過ぎるとおかしな話ということになります。

井口師範は、
「気の正体などなんでもええんや。感じて使えればええ。道具を使うのに、どう道具を作るかとか、材料は何かを考える必要はないんや。出来合いの道具に従って、道具の可能性を最大に引き出せばええ。それが本当の意味での道具を知るということや。それが自然の理というもんや」
と、言われました。

ですから、合気道の修行者としては、いろいろなエネルギーの形態をすべて総称して「気」と呼んでいると考えようが、「気」によって起こされた結果に物理的現象があると考えようが、どちらでもよいのです。「気」をコントロールする意思り、実際にコントロールされた現象が存在することだけでよいということです。

要は、私たち合気道を行っている者にとっては、「気」の正体というのは何でもいい。「気」はこの世界に現れるとき、何らかの物理的特性・心理的特性を併せ持ち、その特性を活かすというのが技に大切なのでしょう。