前前回のブログで井口師範の「気」について述べました。しかし、一般的な気の考えは、漢方医学など代表されるように生体エネルギーと呼ばれる部類のものを示されます。それで、井口師範の「気」の考えが異端のように思われたと思います。
実際に、漢方や気功のある研究によりますと、「気」測定ができ、科学的に解明可能なエネルギーだという主張があります。しかし、それをよくよく見てみますると、「気」の測定といっても、「気」そのものの測定ではなく、体内の電気(電位差)であったり、体から放射する赤外線であったりと、単に間接的な測定にほかなりません。間接的な測定することで、生体エネルギーとしての「気」の存在を証明していると主張されているわけです。
また、物理学でも、測定は不可能な実在が予見されている粒子の測定では、この間接的な方法をとります。しかし、飽くまでも、その物理的特性を示す条件に適用できるかが測定の焦点です。存在を示す物理的接点を確かめるわけです。単にやみくもに測定機に反応があったから、その粒子の存在が証明されたとは決してなりません。
一方、「気」というものは、病気を治すことも、病気を悪化させることも可能であり、物体を破壊することも、再生することも可能であり、人の意志でコントロールできるものようですから、人の意志に同期して、機械に反応すれば証明したことになるということでしょうが、どういう原理で、そのエネルギーが、物理的結果を起したのかは、説明がつきません。物理的接点が証明できないのです。そのようなエネルギーは、結局科学が扱う領域ではなくなります。ですから、気の研究は必要ですが、気の存在の証明も科学的に解明も行き過ぎるとおかしな話ということになります。
井口師範は、
「気の正体などなんでもええんや。感じて使えればええ。道具を使うのに、どう道具を作るかとか、材料は何かを考える必要はないんや。出来合いの道具に従って、道具の可能性を最大に引き出せばええ。それが本当の意味での道具を知るということや。それが自然の理というもんや」
と、言われました。
ですから、合気道の修行者としては、いろいろなエネルギーの形態をすべて総称して「気」と呼んでいると考えようが、「気」によって起こされた結果に物理的現象があると考えようが、どちらでもよいのです。「気」をコントロールする意思り、実際にコントロールされた現象が存在することだけでよいということです。
要は、私たち合気道を行っている者にとっては、「気」の正体というのは何でもいい。「気」はこの世界に現れるとき、何らかの物理的特性・心理的特性を併せ持ち、その特性を活かすというのが技に大切なのでしょう。
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