皆さん、明けましておめでとうございます。
本年も素敵な年にいたしましょう。
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
本年も合氣道の技の研究を進めていきたいとおもっております。
本年もどうかよろしくお願いします。
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皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
合氣道は円運動といわれますが、合氣道修行者にとってはかなり曖昧な表現だと思います。そこで、僕が学んだ合氣道での考え方を共有したいと思います。
武道を習得する際には、稽古を通じてさまざまな状況を経験し、その中で最適な動きを学ぶことが重要です。しかし、運動神経や相手を観察するセンスなど、多くの才能が必要です。そのため、本当に技を使えるのはごく一部の人だけです。特に、形稽古だけを行う合気道では、この問題が他の武道よりも大きいと感じます。このようなセンスの不足を補うためには、知識が必要です。ここでは、実際に行われている円運動について、その合理的な考え方を説明し、センスがなくても補える知識を提供します。
・合氣道における円運動の理解
・円運動の重要性
・相手を導くための円運動
・相手を読むための二つの視点
・骨格の知識を活かす
・動く相手への応用
・まとめ
合氣道では「円運動」という概念がよく使われますが、単に円を描くように動くと、相手にその意図がすぐに伝わってしまいます。この原因は、相手のことを考えずに自分だけの円運動を行うからです。円運動は、相手をどう導くかを考慮することが重要です。
円運動の特徴は、移動半径を瞬時に変えられる点にあります。これにより、さまざまな方向に相手を導くことが可能です。これを聞くと「曲線運動」と混同されるかもしれませんが、円運動は円の中心を意識した動きの集まりであり、曲線運動とは異なります。合氣道における円運動と曲線運動の違いは、相手を考慮した曲線運動であるか、単なる曲線運動であるかにあります。
合氣道の円運動は、相手が動ける範囲でわずかな力を加えることで相手を導く技術です。つまり、相手の動きや力の方向を考慮し、それに合わせて利用することで、相手を自分の思う方向に導くことが合氣道の本質です。
相手を円運動に導くためには、以下の2つの視点が必要です。
相手の移動方向を読むことは比較的容易ですが、骨格を読むことは意識しないと難しいです。まずは静止している相手を想定し、以下の2つの考え方を理解することが重要です。
【1】相手を一つの塊として捉える
相手を一つの物体と考え、接地面や角度を意識します。例えば、相手が足で立つ銅像のように捉え、その銅像を最小限の力で倒す方法を考えます。接地面を意識し、大きな円を描くように力を加えることで、相手を崩しやすくなります。
【2】相手の関節を中心に考える
人の動きは関節を中心に構成されています。相手を導く際には、相手の関節に負担をかけないように動かすことが重要です。これにより、相手の無意識な防衛反応を引き起こしにくくなります。相手は接点から来る力を基に体の態勢を整えようとしますが、こちらは関節に意識を置き、円運動をさせるように動かすことで、相手の認識に違いが生まれるため、相手は十分に力がだせなくなります。それによりこちらはそれほど力を使わなくても相手を動かすことができます。
そのため、相手の骨格の動きを理解しておくと非常に有利です。まずは肘関節など、単純な動きをする関節に注目して技を掛ける練習から始めましょう。
静止している相手に円の考えを適用できるようになったら、次は動く相手に対して技を掛ける練習をします。動く相手の場合、関節が移動するため、それに合わせた技をかける必要があります。このように、全体としては円運動にならない場合もありますが、関節を中心に考えることで、円運動になることが重要です。
合氣道では、相手の骨格や動きを理解し、円運動を使って相手を導く技術が求められます。今回は、基本的な骨の読みの2つを紹介しましたが、実際の技ではまだ異なる骨の読みも必要になります。これら様々な要素を考慮しながら、相手を導くことが必要です。
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みなさん、お元氣ですか? 僕はメチャクチャ元氣です。
さて、今回は合氣道の理念と体術がどのように結ばれているかについて井口師範から教わったことを書いていきたいと思います。
合氣道をしているとつい自分自身だけにフォーカスをしてしまいがちです。合氣道は愛の武道といわれますが、自分だけにフォーカスしていたのでは愛の武道とはいえません。本ブログでは、世界平和を目指しているから愛の武道という思想てきなものではなく、技術的に解説することで、合氣道が何故「愛の武道」となりうるかがはっきりと理解できるようになります。
・合氣道の理念
・合わせの概念
・相手に合わせる
・相手を崩す技術
・崩れた状態の維持
・相手を手足のように扱う
・相手ファーストの考え方
・天地自然と合わせる
・まとめ
合氣道の創始者、植芝盛平翁は「合氣道は愛の武道である」と述べています。この言葉が示すように、合氣道が「愛」であり得るためには、「相手」にどれだけ集中できるかが重要です。しかし、同時に「我、宇宙の中心なり」という意識も大切です。この二つは一見矛盾しているように思えますが、実は深い関係があります。
合氣道には「合わせ」という考え方があります。これは「合氣」とも呼ばれますが、大東流合氣柔術の「合氣」とは異なる思想です。この違いを理解することが重要です。大東流合氣柔術の「合氣」は肉体的な技術を指しますが、合氣道は肉体面と精神面の両方を統合した考え方です。そのため、大東流合気柔術とは異なった合氣道は独自の方向性を進んでいます。
合氣道では「相手に合わせる」「天地自然と合わせる」という表現がよく使われます。これらは一般的には思想として捉えられていますが、技術面でも実践されています。ただし、合氣道には大東流合氣柔術のような単独の「合氣」という技術は存在しません。「相手と合わせる」「天地自然と合わせる」という思想が、技に組み込まれています。
「相手に合わせる」というと、相手の動きに応じて自分が動くことを指します。これは合氣道において非常に重要な要素ですが、それだけではありません。相手の動きを止めた後も、相手に合わせ続ける必要があります。これは相手の力と衝突しないようにすることを意味します。相手を自分の手足のようにコントロールすることが求められます。
相手を自由にコントロールするためには、まず相手を崩し、その崩れた状態を維持することが重要です。これには相手の骨格の状態を理解する必要があります。
具体的には、相手を崩す際には、相手の足が地面にどのように接しているかを判断し、その接点を起点に最も崩しやすい方向に誘導します。氣の流れを利用して崩すのです。
相手の崩れた状態を維持するためには、力の衝突をできる限り避ける必要があります。相手は衝突した部分を支えにして安定を保とうとするからです。そのため、相手の骨格を読み、関節の動きを考慮しながら、力の衝突を避けて相手を自分の思う方向に導きます。こうすることで、相手を崩れたままコントロールすることができます。
相手を自分の手足のように扱うためには、自分の骨の特性を理解することが必要です。自分の手足であれば、力が衝突することはありません。動かない方に無理やり動こうとしないからです。同様に、相手に対しても同じように考える必要があります。
私たち合氣道修行者は、自分にフォーカスしがちです。自分の身体操作に氣を取られることが多いですが、合氣道の本質は相手をどう導くかという「相手ファースト」の考え方が最も大切です。相手を理解し、共に調和することが、合氣道では大切です。
このように、合氣道では相手のことを考えると同時に、相手の身体構造、相手の動きなどあらゆる物理現象をも味方につけるわけです。そのため、天地自然の理を理解し、その法則に従うことがすなわち、相手をコントロールすることでもあります。それゆえ、相手の骨格を読むということも、合氣道では必要な要素となるわけです。そこで初めて天地自然に合わせるという考えと一致するのです。このような理由から当会では「骨の技術」ということで、骨格を読み利用する技術を稽古しています。
技術の面からも相手と一体になり、相手を敵と見ず、相手ファーストの考えを体術に活かすのが合氣道です。武道でありながら、相手を尊重するという理念が体術にあらわれているからこそ、こういった技術で投げられると何故か反抗する氣がなくなります。これゆえ、世界平和を目指すのが合氣道精神ということになる訳です。
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皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、先日、真の東洋医学の氣の理論に基づく鍼灸治療院を訪れました。その結果、施術が終わった後、体がじんわりと温かくなり、筋肉が柔らかく感じられました。今回のブログではその話を書きたいと思います。
・本来の東洋医学と鍼灸
・実際の治療
・実際は人によって異なるツボの位置
・武道の氣と治療の氣
・まとめ
ここでは、伝統的な東洋医学の基本である脈診を用いて、患者の状態を丁寧にチェックしながら鍼灸治療が進められます。脈診とは、手首の動脈を見て、体の状態や変化を把握する熟練の技術です。
私の担当施術者は、女性の方で、脈診から得た情報をもとに、体の氣が流れる経絡上の異常なツボを探し出し、そこに鍼を施します。この鍼治療は、一般的な鍼灸院で行われるような深い鍼ではなく、氣の状態が異常な経穴に対して浅く鍼を打つため、受ける側は鍼が刺さったことすら感じないほどです。
しかし、鍼が打たれると体に変化が現れます。私の場合、足三里や足首の周辺に鍼を入れると、足が汗ばんで湿っぽくなりました。また、「手が異常に熱いのは心臓に熱が溜まっているため、心臓を休める必要があります」と説明され、その後も様々なツボに鍼を打たれると、手のひらが急に湿り、しばらくすると冷たくなりました。
施術者は、「今、手の汗腺を開き、心臓の熱を放出していますので、家に帰ったら手を冷やさないようにしてください」と注意を促しながら、再び脈診を行い、体のあちらこちらに鍼を打っていきました。
どのツボに鍼を刺しているのか意識していましたが、ただ手で触れられている感覚しかなく、実際に鍼が刺さっているとは思えませんでした。
そこで、私は「合氣道をやっているのですが、技をかけるときに相手のツボを狙うことがあります。時々、ツボがずれている人もいるのですが、患者さんにはそういう方はいませんか?」と尋ねました。
すると、施術者は笑顔で、「例え正式な鍼灸に関する学術書でも、そこに書かれている場所に必ずツボがあるとは限りません。本はあくまで目安で、患者様それぞれのツボを探して鍼を打つのです」と教えてくれました。「その違いをどうやって探すのですか?」と聞くと、「指先を敏感にして触れることで氣の流れがわかり、異常なところで止まるのです。そこが問題のあるツボだとわかります」とのこと。
『本に示されているツボはあくまで目安。実際は触診で見つけて治療を施す。本当に熟練しないとできない技術だ』と、私は感心しました。
漢方医学について少し学び、脈診を行う人は日本でも少ないと勝手に思っていましたが、和歌山市にもその技術を持つ方がいることに驚きました。そして、指先で相手の氣を感じ、適切に鍼を打つという不思議な技術に心を奪われました。
施術者と話しながら、合氣道の氣の話をすると、相手の氣を導く技術に興味を持たれたので、軽く彼女の手に触れることで、氣を導き、倒しはしませんでしたが、大きく体を導き動かしました。彼女は非常に驚いていましたが、これは彼女が氣に敏感だったから余計に反応がでたのだと思います。
私自身は、彼女のような経絡の氣の異常を感じ取ることはできませんが、彼女もまた氣の誘導ができるわけではありません。しかし、できることが異なっても、氣に関連する点では共通していることが非常に興味深いと感じました。
この経験から、ある氣功家が書いていたことを思い出しました。それは、スポーツで優れた成績を残す人は、非常に氣に敏感で、氣が大きな影響を与えるという内容でした。
今回、治療院を訪れたことで、氣について深く学ぶことができました。心と体のつながりを感じ、東洋医学の奥深さに触れた瞬間でした。
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さて、井口流合氣道では「自分が宇宙の中心」という考えがあるというと書きましたが、これに対する質問がありましたので、今回はそれについて答えたいと思います。
合氣道開祖・植芝盛平翁先生は、合氣道は世界平和が目的であると言われたといわれています。井口師範が言った「自分が宇宙の中心」という考えから、合氣道が如何に世界平和と関係があり、それが合氣道には試合がなく形稽古だけである理由がわかります。それによって合氣道で稽古すべき技の目標がわかるようになります。
・宇宙の中心としての自分
・周囲の影響と自分の選択
・「自分は宇宙の中心」と世界平和
・まとめ
私たちが世界を認識する際、目や耳、鼻、舌、体といった感覚を通じて情報を取り入れ、脳に伝えています。この過程では、他人が介在することはありません。つまり、個人が世界を認識する時、自分自身が宇宙の中心としてその世界を捉えているのです。しかし、実際に目にした世界が他の人と全く同じように見えているかどうかは、証明することができません。
例えば、「緑」という色を思い浮かべると、多くの人が緑色をイメージします。しかし、そのイメージが他の人と同じであるとは限りません。極端な例ですが、あなたが思う緑が、他の誰かにとっては赤かもしれないのです。このように、自分が認識する世界はあくまで自分自身のものであり、他者の認識とは異なる可能性があります。
このように考えると、自分が認知した世界はあくまで自分のものです。私たちの世界は内面と外面で構成されており、私たちは自分の世界の中心、すなわち宇宙の中心にいると言えます。
伝説では、釈迦は「天上天下唯我独尊」と言って生まれたといわれます。これは後世の人がつくった伝説とのことですが、これは、それぞれの人が「自分は尊く宇宙の中心である」という自覚を持つことを宣言している言葉です。ここに合氣道の共通点が存在しています。
私たちは自分の世界の中心にいるはずですが、周囲の環境に大きく影響されることもあります。不幸は身の回りで起こる現象であり、私たちは日常的にそれに振り回されています。世界的なコーチングの巨匠、アンソニー・ロビンズの弟子であるクリス岡崎氏は「命があるだけ儲けもの」と言っています。どんな困難に直面しても、命がある限り解決策は必ず存在するのです。
残念ながら、多くの人が不幸を感じ、自殺を選ぶという悲しい現実があります。しかし、これは最終的に本人の心が選んでいることでもあります。
実際に、借金で追い詰められた人が外国に逃亡し、そこで成功し、日本に凱旋したという話がよく聞かれます。このような例からわかることとして、「自殺するしかない」と考えるのも、冷静に考えれば自分の思い込みに過ぎません。
仏教では、心を「意」とし、外界を認識する感覚として捉えていますが、心の反応も本来の自分ではないのです。般若心経には「無眼耳鼻舌身意」「無色声香味触法」とあり、眼も耳も鼻も舌も身も、さらには意(こころ)も実体が無い、すべてが空であると述べています。これは、外界の現象を否定し、私たちの認識が相対的であることを示しています。
井口師範は「形稽古では、自分よりも下の者に全力で逆らわれても技がかからないといけない」と教えています。なぜなら、自分が宇宙の中心であれば、宇宙に逆らえるものはないからです。
井口師範は「相手の土俵で戦うな!」と繰り返し言いました。これは相手と力の衝突を避けることを意味します。相手との力の衝突がなければ自在に相手を制御できます。ちなみに、相手の力と衝突するのは相手にこちらの動きが読まれているからです。それが読まれなくなるためにはその技術が存在するということも暗に示しています。それを使えば相手を不意打ちすることになるというのが理解できるでしょう。すると力が要らないという意味もわかるでしょう。
そういった技術を体得し、ついには無意識で行えるようになると「我すなわち宇宙」「我は宇宙の中心なり」を体で理解するということになり、技において相手の力に関係がない自分の動きが唯一だということができるようになります。
この考えをさらに広げて行けば様々な事象、例えば人間関係にも通じます。すると「我は宇宙の中心なり」ということが理解でき、その結果、自分が如何に尊い存在かわかります。さらに、それぞれの宇宙があり、それぞれが各人が尊く唯一の存在であることがわかります。
自分も他者も尊い存在であると理解すれば、争いはなくなり、世界は平和になるでしょう。合気道の稽古は、それを身体で実現するために、相手と競う試合を禁止し、形稽古に専念しています。これが合氣道開祖・植芝盛平翁先生が目指した真の合氣道であると師匠から聞きました。
以上が、井口師範が「自分が宇宙の中心」であるという意味の説明です。合氣道の場合、体術である以上、この考えが技に生き、実際に体現する必要があります。
具体的にはこの考えを実現するため「和合の精神」として相手と衝突しない技が必要であり、さらに相手を導く技が必要になります。非常に抽象度の高い概念ですが、各自修行をして、自分なりに抽象度を下げて具体的な技として実現する必要があるのです。
その上で、抽象度を上げて、相手と一体となり、その主役が己自身にあるというようになり、技が完成すれば、真に「自分が宇宙の中心」ということになるでしょう。それを目指すのが私たち合氣道修行者です。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。さて、皆さんは氣ということについてどのような考えをお持ちですか? 今回は僕が考える氣について説明したいと思います。よかったら最後までお読みください。
合氣道では氣の説明が非常にあいまいで、指導者によってまちまちな回答が来ます。この理由を本ブログでは明らかにすることで、合氣道修行者の人は氣の概念が分かり、技に活かすヒントになります。
・氣とは抽象度の高い概念
・抽象度とは
・合氣道の技と抽象度
・当会の指導方法
・氣の理解
・まとめ
僕の師・井口師範は、「合氣道は『氣』が全てや」とよく話していました。そう聞くと、氣とは何か、氣を感じなければ合氣道はできないのかと疑問に思うかもしれません。しかし、氣について調べれば調べるほど、その実態は掴みどころがなく、ますます分からなくなります。
僕は、気功法、東洋医学、占いの文献などを調べましたが、合氣道の「氣」について明確な答えは見つかりませんでした。しかし、長年、当て身の稽古や天鳥船、振魂を繰り返す中で、天地に繋がる感覚が徐々に形成されていくにつれて、「氣」というものが何となく分かるようになってきました。
「氣」は、体感するものであると説明することもできますが、理科系脳の私は、その感覚を言葉で説明した、どうしても考えてしまったものでした。そして、結氣とは抽象度の高い概念を感覚として捉えたものだという結論にいったったのでした。
抽象度とは、概念の汎用性や一般性を表す言葉です。
例えば、私たち人間は、「生き物」という言葉が出てきた際に、その言葉の定義をいちいち考えることなく、文脈に応じて理解することができます。しかし、「生き物」という概念がない人にとっては、具体的な例を挙げて説明する必要があります。
この具体的な例を挙げる行為が、抽象度を下げることです。
「生き物」の中の「犬」を例にとると、さらに抽象度を下げていくと、「柴犬」「秋田犬」「グレーハウンド」「チワワ」といった犬の種類が挙げられ、さらに「誰々さんの家のチワワの太郎」のように、特定の犬にまで絞り込むことができます。
達人になればなるほど、技の抽象度が高まります。そのため、言葉では説明しにくいものになります。井口師範のような達人になると、「技は自然に出るのが一番」という言葉で片付けられてしまい、その奥深さは言葉では説明しきれません。
井口師範は、「本部直轄井口道場の合氣道は、気の流れ、呼吸力、螺旋形が極意」と常に話していました。井口師範の技は、これらの要素が渾然一体となったものでした。そのため、感覚的に指導されるので、同じ技でも毎回違った表現を使うため、当初は一貫性が欠けているように感じ、理科系脳の僕には非常に分かりにくかったのを覚えています。
井口師範は、自分の技を思いつくままに説明し、それを「秘伝」と呼んでいました。しかし、全ての技が「秘伝」であり、秘伝には名前がありませんでした。「秘伝には名前が無い、あるとこだわりができる」と井口師範は言っていましたが、こだわりがないと覚えられないという問題点もあります。
こうした問題点を解決するために、当会では、より抽象度を下げて指導するように心がけています。
例えば、「気の流れ」については、陽の用法、陰の用法の 2 つの技術として説明し、そこに「螺旋形」の技術である「錐揉みの技術」「軸崩しの技術」、「粘勁」、「引っ掛け」などの技術を加える稽古をおこなったり、「呼吸力」については、天の氣、地の氣、水火の氣の技術として、別々に説明しています。
しかし、あまりにも抽象度を下げ過ぎると、技の数が煩雑になり、とても覚えられないということにもなってきます。当会で説明する技術でも行う人によって上手い下手があります。ということはそれぞれの中にも必ずさらなるノウハウが存在するわけです。
「ブラッククローバー」というアニメで、黒の暴牛団団長ヤミ・スケヒロが「人の目線、呼吸、筋肉の動き、何となくの氣配、そういった人から発せられるエネルギーを総称して氣と呼ぶ」というセリフがありました。これは、氣の抽象度を下げて説明したもので、非常に分かりやすいと思いました。
しかし、これは相手の気を感知するという立場からの説明です。井口流合氣道では、「自分が宇宙の中心」という考えがあり、まず自分の気を理解することが大切です。それが「気の流れ、呼吸力、螺旋形」です。そして、その上で相手との関係性における気の感覚を理解していく必要があります。
氣は、抽象度の高い概念であり、様々な要素が複雑に絡み合ったものです。合氣道の技を極めるためには、様々な技術を身体に通し、経験を通して氣の感覚に昇華していく必要があります。
この文章は、氣と抽象度について、僕の考えをまとめたものです。最後までお読みいただきありがとうございました。
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皆さん、お元気ですか?僕はメチャクチャ元気です!
今日は「氣」についてお話ししたいと思います。以前、合氣道の天の鳥船の行を行っているとき、振魂の行を通じて、僕の中に「氣」が自分の体を貫いて天に向かう感覚がありました。この感覚は非常に主観的で、他の人に話すと誤解されるのではないかと心配し、今まで誰にも話したことがありませんでした。しかし、先日、K氏の個人指導で呼吸力のトレーニングを行った際、K氏が僕と同じ感覚を体験していることを話し始めたのです。このことが僕にとって大きな自信となり、僕の感じていることが幻想ではないと確信できるようになりました。そこで、その時の出来事を皆さんにお伝えしたいと思います。
まず、合氣道の「天の鳥船の行」について知らない方のために説明します。この行は、もともと古神道に源があり、船漕ぎの動作と振魂という瞑想法の2つが組み合わさったもので、合氣道の創始者が大切にしていた氣のトレーニング方法です。船漕ぎ運動は、天の氣と地の氣を結びつけ、水火の氣を体内に巡らせることを目的としています。そして振魂の行は、天地の氣と自分自身を交流させるためのものです。しかし、氣は目に見えないため、理解することは難しく、実感するしかありません。たとえ実感できたとしても、それを他人に示すことはできず、あくまで主観的な体験です。
先日、N氏の個人指導を行ったときのことです。いつものように7時半過ぎに彼が現れ、準備運動や氣功法、天の鳥船の行をこなし、呼吸力のトレーニングに入りました。まず水火の氣を使った呼吸力のトレーニングを行い、その後天地の氣を使うトレーニングに移りました。姿勢を整えるために再度振魂の行を行った後、僕は指先に氣を集め、K氏の任脈*と督脈**の気の流れを作りました。その瞬間、K氏は「頭の天辺がジリジリとするのを感じます」と言いました。さらに詳しく話すと、僕が感じている状況とまったく同じことを報告してくれました。
N氏は超自然的現象を妄信も否定もしない医師ですが、自分の状況を常に中立的に判断するスタイルを持っています。ですから、K氏が述べた現象は、僕が事前に彼に自分の感覚を話したわけではないため、暗示による幻想ではないのです。
今回の指導を通じて、他の人も同様の状況に導く手順が見えてきました。これからは、他の人々も同じ体験をすることができるかもしれません。「天と繋がる」とスピリチュアルな人々が言いますが、合氣道には天と地が同時に繋がる行法があることが本当に素晴らしいと感じました。「人」という言葉は「ヒ(霊)をトめる」と言います。つまり、霊的な要素と肉体という物理的な要素が合わさって人間が成り立っています。一方だけに偏ると現実との乖離が生まれますので、天(霊)と地(物理)の両方が大切なのは言うまでもありません。合氣道の行法は本当に素晴らしいものだと思います。
(注釈)
* 任脈
経絡という氣の流れるルートの内、病気治療などで使われる十二経絡とは別の奇経八脈に属する一つで、身体の正中線の前側を通るルート
** 督脈
奇経八脈の内の一つで、人体の正中線の背面を通るルート
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皆さんお元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、フェイスブックで、「井口師範が何故無名か?に答える」のリンクを張ったところ、井口師範から学んだことのある甲南大学合気道部のOBの方にコメントをいただき、津本陽氏の小説「黄金の天馬」(合氣道開祖伝)に井口師範が登場していることをご指摘いただきました。
確かに、井口師範に関する逸話の中で特に印象的なのは、津本陽氏の小説「黄金の天馬」に描かれたエピソードです。この小説は、合気道の開祖をモデルにした物語であり、井口師範がその中で重要な役割を果たしています。(P454~455)
物語の中で、井口師範は合気道の開祖に挑む場面が描かれています。これは殆ど実話をもとに書かれています。ある日、和歌山県の武徳殿で開祖が指導を行っている際、当時柔道四段であった井口師範はその場に現れ、開祖に挑戦しました。しかし、井口師範はその圧倒的な技術の前に手も足も出ず、瞬く間に制圧されてしまいます。柔道四段といえば柔道を志す人の中から本の一握りの人しか印可されない貴重な段位です。このエピソードは、当時でも井口師範がかなりの達人であったことを示すと同時に、合気道の奥深さを物語っています。
津本陽氏がこの小説を書いた背景には、井口師範の影響があります。実は、和歌山県出身の津本氏は井口師範の警察官時代の同僚である和歌山県警の田村氏とは彼を小説の主人公のモデルにするほど親しかったのです。田村氏は、井口師範の技術に感銘を受け、津本氏にその話を小説にするよう勧めました。津本氏は和歌山県在住の井口師範の存在に興味を持ち、合気道の達人としての井口師範の逸話を小説にすることにしたのです。
井口師範は、自身が小説の主人公になることを望まず、開祖の話を書くように津本氏に勧め、二代目道主に津本氏の協力を求めました。この謙虚さが、師の人間性を物語っています。そういった背景もあって、小説の中では井口雅博師範は「井田正浩」という名前で登場していますが、当時の井口師範の存在感を巧みに表現しています。
このように、井口師範は自らの名声を求めることなく、合気道の精神を尊重し、後世に伝えることに尽力しました。師の存在が小説の中に残ることで、弟子としては非常に嬉しく、誇りに思っています。
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さて、前回のブログで、井口師範が無名である理由について触れましたが、それを読んで「井口師範が達人であるなら、何故技を継承する高段者の弟子がいないか?」という疑問をいただきました。確かに他の開祖の直弟子の人たちには技を受け継ぐ多くの弟子がいます。この問いは至極もっともであり、非常に重要であると考えられ、私もその答えをお伝えしたいと思います。これまでこの件については、特定の個人を批判することになるため、口を閉ざしていましたが、今はもうその方も亡くなられたことから、匿名のK氏としてお話しします。
まず、私が井口師範を選んだ理由をお話しします。単に本部直轄の井口道場という名前だけではなく、子供の頃に父から聞いた合気道の達人の話が影響しています。ある日、和歌山場所で和歌山に来ていた力士が飲み屋で暴れ出し、警察官たちが手をこまねいている中、井口師範が現れ、力士を一瞬で制圧したという逸話です。ちなみに警察柔道の高段者が数人かかってもプロの十両力士には歯が立たなかったそうです。父が「いぐっちゃん」と呼んでいたその名をうろ覚えで思い出し、本部直轄井口道場にたどり着いたのが、私と井口師範の運命的な出会いの始まりでした。
1987年、私が井口師範の門を叩いた時、師が直接指導していた道場は和歌山県那賀郡貴志川町(現紀の川市)にある博文館だけで、会員は私を含めてわずか十数人でした。その道場は設立から2、3年しか経っておらず、さらにはそれから3年後ぐらいには大人はもはや館長と私を含め3人になってしまいました。私自身も達人の井口師範がこのような小さな道場で初心者を教えていることに疑問を抱いていました。実は、井口師範は過去に一番弟子のK氏によるクーデターを経験していたのです。
K氏は、ある日、別の場所に移ることになったと称し、井口師範が指導していた弟子たちを連れて行ってしまったとのこと。残ったのは高弟のM氏とO氏の二人だけでしたが、M氏は早くに夭折し、O氏は仕事の関係で合気道を続けられなくなりました。
このように書くと、K氏が狡猾で計算高い卑怯な人物に見えるかもしれませんが、実際には井口師範の指導に対して何か不満を抱いていたのではないかと思います。具体的には、K氏は井口師範が本当のことを隠し、適当な指導をしていると感じていたのかもしれません。
私も井口師範から秘伝の指導を受けたことがありますが、師の教えは感覚的な表現や「こうする」という指示が多く、非常に分かりにくいことがありました。また、前回の指導と真逆のことを言われることもありました。私の場合、達人が言うことだから何かあるに違いない、どちらも正しいのだろうと考え、考え抜いた結果、物理学と結びつけて「陽の技法」と「陰の技法」という理論を発見しましたが、そのとき矛盾に不満を感じていたら、今の自分はなかったように思います。
しかし、K氏は井口師範の教えに対して不満を感じ他の仲間を誘ったところ、同様に多くの弟子がK氏について行ったので結果的にクーデターとなったのではないかと推測されます。井口師範と親密になる折角のチャンスだったのに去っていた弟子たちは本当にもったいないことをしたと思いますが、とくに最も井口師範に近かったK氏は井口師範の後継者となりえたはずで、本部直轄井口道場を発展させられたはずなのに本当にもったいないと思います。
私が井口師範の門を叩いた時、師の門下生はほとんどいない状況でした。さらに気になったのは、井口師範のご子息たちのことです。奥様から伺った話では、息子たちに合気道を教える際、一切の手加減せずに教えた結果、心臓に大きな疾患を抱えることになり、運動ができない体になってしまったとのことです。
このような事情から、井口師範の後継者が育たなかったのです。しかし、逆に言えば、私にとっては幸運でした。井口師範の晩年の弟子も少ない中で、過去の失敗から厳しいだけではいけないと改め、師は自分の体得した技術を少しでも伝えようとしてくださったからです。通常なら、私のような者が達人の門下に入っても目にもかけてもらえないのが普通ですが、運命的なタイミングで出会えたことに感謝しています。
前回も説明したように井口師範は何度も表舞台に出る機会を逸してきましたが、それが私にとっては本当にラッキーでした。運命的なタイミングで師匠と巡り合えたことに深い感謝の念を抱いています。今後も、井口師範から教わった技術を後世に伝えられるよう、努力していく所存です。
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皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。今回は井口師範についてお話しします。実は、私の弟子が知り合いから「井口師範の話はでたらめではないのか?」と言われたため、井口師範について詳しく知りたいと希望がありました。そのため、この記事ではその指摘に応える形で書いています。
今までこのような井口師範に関しての批判を受けても、「技を受ければわかる」と取り合ってきませんでしたが、希望にこたえて今回井口師範について、「無名なのは何故か?」という点に答えたいと思います。
これまでに他の人からも指摘された点がいくつかあります。それは、インターネット上に井口師範に関する情報がほとんどないということです。具体的には、以下の2点です。
まず、1についてですが、インターネットで調べても井口師範に関する情報は当会のHP以外にはほとんど見つかりません。このため、開祖の直弟子ということすら疑問視されています。2についても同様で、より懐疑的な意見が出てきます。しかし、開祖も井口師範も既に故人であるため、証明は難しいですが、次の話から推測するに、井口師範が開祖の弟子であったことは間違いないと私は考えています。
井口師範は元々和歌山県警の警察官で、柔道四段だけでなく、剣道や空手の高段者でもありました。ある日、合氣道の開祖が和歌山県警に来た際、井口師範は挑戦しましたが全く歯が立たず、その後弟子入りを決意しました。その後、毎週末に夜行列車で東京の合氣道本部に通い、修行を重ね、最終的には師範となりました。合氣道関連の書籍では、井口道場が本部直轄の道場として唯一名前が挙がっています。(本部直轄名古屋道場とありますが、個人名がついているのは本部直轄井口道場だけです)こういった特別な名前がつくことでも開祖や関係者とも親密だったことが分かると思います。
開祖の出身県の和歌山から毎週毎週、東京に通って熱心に稽古をしていたため、井口師範は開祖に非常に可愛がられていました。そのため、他の古参の弟子たちからは嫉妬されていたと言います。井口師範は「僕の技は秘伝だから人には見せない」と言い、演武会にも参加しなかったため、マスコミにも名前が出ることはありませんでした。
また、井口師範がどれほど古参の弟子たちに嫌われていたかを示すエピソードがあります。師範の葬儀の際、家族宛てに合氣道本部から手紙が届き、お悔やみの挨拶もなしに、井口師範が開祖から受け取った書や品々を早急に返すよう求められました。井口師範の奥様は「守央さん(三代目道主)はこんなことをする人ではない」とおっしゃっていましたので古参の方そうされたのでしょうが、故人の家族に対する無慈悲な対応には驚きました。(ちなみに下の写真は井口師範のご自宅にお正月のご挨拶に伺った際の写真ですが、見てわかるように開祖直筆の合氣道の書が飾られていました)
井口師範や家族に対する古参の方の対応のひどさは単に嫉妬だけでないのかもしれません。井口師範は柔道、空手、剣道などを徹底的に学んでいたため、稽古相手としては非常に手ごわく加減がなかったようで、他の修行者にもよく思われていなかった恐れがあります。ですから古参の弟子たちも井口師範にやり込められた方も少なくなかったと推測します。その際の恨みを抱かれた可能性もあります。ちなみに、私の父も警官であったため井口師範を知っており、当時の柔道のことを思い出して「手加減がないので、柔道を組むのを誰もが嫌がっていた」と語っています。このような井口師範の武道に対する徹底的な拘りが古参の方の怒りを買った恐れがあります。その井口師範が開祖に可愛がられていたのですから古参の人たちにとってはまさに目の上のタンコブだったのかもしれません。
井口師範は古参の弟子たちに嫌われていましたが、井口師範を支持してくれる人もいました。二代目吉祥丸道主や、心身統一合氣道の創始者である藤平光一師範、和歌山熊野塾の引土師範、大阪合気会の田中万川師範、佐々木将人師範などです。下の写真は、井口師範と二代目吉祥丸道主のものです。
井口師範と二代目道主が肩を組む姿は、開祖の遺骨を和歌山の高山寺に運ぶ際に、大阪の天王寺駅において吉祥丸道主からお遺骨を受け取って同伴したなど、開祖や開祖の家族と親密にしていたことが背景にあると思います。このような経緯があったからこそ、二人の関係が築かれたのだと思います。
さらに、空手の柳川師範の著作物、『武道家のこたえー武道家33人、幻のインタビュー」に井口師範の記事があります。残念ながら、この書籍は紛失してしまったため、出版社のホームページ(https://webhiden.jp/book/book16/)の写真を載せておきます。
さらに、甲南大学合気道部の設立にも携わっているため、甲南大学合気道部のHPの沿革のページの一部を示しておきます。
以上、井口師範の実在や開祖の直弟子であったことを示しましたが、大切のはやはり師の残してくださった技です。私が受け取ったものは本の一部かもしれませんが、それでも後世に伝えることができればと願っています。
最後までお読みくださった方、ありがとうございました。
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