「小説」カテゴリーアーカイブ

合気道の当て身の原理

以前、合気道の当て身の原理を題材に書いた小説があると、中国拳法修行者の個人指導時にお話しましたところ、是非読んでみたいとおっしゃいましたので、ブログにアップしたいと思います。多分文庫本でいえば23ページ分の内容になります。ご興味のある人は読んでくださればと思います。

——————————————————-
 俺は、今日、入学式を迎えたばかりの高校一年の八雲健(いずもけん)だ。今、俺は、入学式を終えてすぐに、とある合気道の道場にお邪魔している。

ことのなりゆきはこうだ。
 今朝、学校に行く途中、上級生の不良グループ5人に突然囲まれ、恐喝されそうになった。そのとき、突如として現われた関西弁を話す美少女・祝結姫(イワイユウキ)が、一人でその不良どもに戦いを挑み、乱闘となり、あっという間に全員を一掃してしまった。結果として、俺はその結姫に助けられたことになった。さらに偶然の悪戯か、体育館に張り出されたクラス決めの張り紙で、俺と彼女が同じクラスであることが判明し、しかも出席番号順での席で、彼女が隣となり、その際、彼女に、
「なあ、健、朝の貸し、今日、返してもらうでー。ええな」
と、声を掛けられ、半ば強制的に連れてこられたのが、この道場だ。

 ここの道場主である師範は、25歳の若いとても綺麗な冗談の好きな独身女性で、結姫とは親戚の間柄だそうだ。この道場は3階建ての建物で、3階が師範の住居となっていて、そこの一角に、結姫が下宿している一室がある。

 師範は、俺が道場に到着してすぐに用事ができ、外出した。師範に挨拶したとき「以前俺が合気道をしたことがある」と口を滑らせてしまったのを聞いた結姫に、俺は、稽古の相手をさせられるはめになり、小一時間ほど稽古に付き合い、くたくたになって、今、彼女の部屋でコーヒーをご馳走になりながら休憩していたところだ。

 すげー美人と、しかも彼女の部屋で二人きりという、シチュエーション的には男なら誰もがうらやむ状況ではあるはずだが、今朝の不良と乱闘で、大きな男たちをことごとく叩き伸ばした段違いの彼女の強さを見た上、散々合気道の稽古で力量差を思い知らされた俺にとっては、彼女は、もはや恋愛の対象からは程遠い存在になっていた。

 俺は、さっきまでの合気道の稽古の相手で随分とくたびれていたが、コーヒーを飲み、少し休憩し、今ちょうど一心地着いたところだった。
トントン。
 ドアをノックする音がした。
「はーい」
「今、帰ってきたわよ。入るけどいい?」
と、返事を待たずに、師範がドアを開けて入ってきた。
「あっ、お帰りなさい。師範」
と、結姫が挨拶した。
「お帰りなさい」
と、俺も続いて言った。

師範は、結姫の部屋に入ると、まっすぐコーヒーメーカのところに行き、勝手に戸棚のコーヒーカップをとってコーヒーを注いでいる。そしてどういうわけか鼻を鳴らしている
クン、クン、クン。
「師範、何してはりますの」
「今、コーヒー入れてるの」
「そんなもん見たらわかりますがな。そうやなくて、何で、ニタニタしながら、鼻鳴らしてますのや?」
「いえねー、結姫ちゃん、プライベートの部屋に、かわいい男の子を引き込んじゃっているでしょ。何やってるのかなあって思って」

「っで。そのクンクンって何?」
「結姫ちゃん、男の子にいかがわしい遊びを強要していないかなって思って。チョッと男の子の匂いが残ってないかとね」
「そのいかがわしい遊びって何? 男の子の匂いって何?」
「あら、結姫ちゃん、変なこと聞くわね。わかっていて聞いてるわね?」
「ちゅうか、ウチがなんでいかがわしい遊びなどせなあかんねん。しかも、会って間のない男と、そんな関係になるわけあるかいな。しかも、ウチこの前まで中学生やったんやで……」

「あら、結姫ちゃん、あなた、中学生どころか、幼稚園のときに、男の子に強要して医者さんごっこをして、お互いパンツまで下げあっていたくせに……」
「んな、小さいころのこと、全然覚えてへんし、そんな身に覚えのない話されても困るわ!」
「困るわじゃないの。結姫ちゃんのエッチは生まれつきで、天然ってことよ」
「何が天然やねん。単に言いがかりつけてるだけやろ!」

「あら、それだけで言ってると思っているの? それ以外にも結姫ちゃんのエッチな本性を示す証拠があるのよ」
「何がエッチな本性や! ホンなら証拠てどこにあるのか言うてほしいわ」
師範は、ニコッとして、結姫の本棚を指差した。
「そこ!」
師範の指の先には、いま中高生の少女たちに大人気の恋愛小説のシリーズが並んであった。これは俺の姉貴もはまってるので、そんな小説に興味のない俺ですら知っている。

『まさか、あれは表紙だけで、その下は実は別の本?』
と、俺が思った瞬間、
「その本のどこがエロいんや。少女の恋のロマンスを書いてるだけやろ。十代の女の子に今すごく人気のあるシリーズや。皆読んでるこの本のどこがエロいんや?」
と、結姫が師範に言った。

「そう、問題はそこなのよ! 恋愛小説って、要は性欲に目覚めた思春期の女が、男のことばかり考えている話のことでしょ? そんなエッチな本をこんなにも沢山読んで……」
「何でやねん。そんなこと考える師範こそエロいがな。今時の小学生の少女向け漫画でも似たようなことを書いてあるし。とにかくや、一度でもええから読んでみー、エロ無いのがわかるわ」

「あら、何言ってんの? そこが問題だっていっているのよ。エッチな行為をこと細かく書かれていたら、天然エッチの結姫ちゃんの想像の余地がなくなるじゃない。だけれど、中途半端な恋愛話で終わっちゃうと、その後のことをいろいろ妄想する余地がありすぎるわ」

「何でやねん。そんな後のことを色々と想像するマニアックな女子高生がどこにおるねん? もし、おったら一度会ってみたいわ」

「あら、知らないの? あなたが、よく本を貸す爽やかスポーツ少女の恵子ちゃん。このシリーズのお話は、読み終わってから、主人公の女と男が何をするかを想像するのがいいんですって。恵子ちゃん時々ボーッとしているときあるでしょ。そのときそういうことを考えているんだって」

「け、恵子さんって、そういう趣味の持ち主やったんか。ただの爽やかスポーツ少女やと思っていたのに……」

「でもね、まだ恵子ちゃんはいいのよ。単に想像するだけだから。でもね、結姫ちゃんは、違うわ。男の子を、もう自分の部屋につれこんでいるわ。幼稚園のときのように。恐ろしい実行力ね」
「何でやねん。コーヒー飲むのに、廊下で飲めっていう訳にはいかんやろ」
「健君、気をつけてね。健君みたいな大人しい幼気な男の子に、思わず野生の本能むき出しにして襲うかもしれないわ」

「するかい、そんなこと! 第一、師範が想像してるようなこと、男がその気にならんとできやんやろ? それより、師範、そろそろ稽古始まる時間とちゃうんか」
「そうね、そろそろ稽古時間だから、準備しようか」

俺は、先ほど体操服に着替えていたので、彼女たちがそれぞれ部屋ので合気道着に着替えるのを待った。
そして、3人そろって道場に降りて行くと、中年の女性、OL風の女性、女子大生・女子高生風の人など、十数人が道着を着て始まりを待っていた。なんと全て女性だ。

稽古開始時刻がやってきた。師範の一声で、稽古が始まった。
「では、始めます。今日は、特別に一般部の皆さんに秘伝の当て身の稽古の許可が出ましたので、すべての人に伝授します。隣の部屋に移動してください。あっそれから、この男の子は健君です。かわいい顔してるでしょ。結姫ちゃんのボーイフレンド、兼、我道場のマスコットボーイになる予定の男の子です」

「出雲 健です。今日は見学の予定が急きょ体験させていただくことになりました。女性ばかりの中で、お邪魔とは思いますが、どうかよろしくお願いします」
「みなさん、これからずっと可愛がってあげてくださいね。可愛がるっていっても、まだ純情な箱入り息子さんだから、あまり過激なことをしないでね。抱擁(ハグ)までなら許しますが、キスはやめてくださいね」
と、師範がニコニコしながら言う。

「って、知らん男に、誰が、いきなりハグしたり、キスしたりする人がおるねん」
と、結姫が、師範にツッコミを入れた。その次の瞬間だった。俺のすぐ隣にいた少し色っぽいお姉さんという感じのきれいな女性が、いきなり、俺に抱きついて、挨拶を始めた。
「私、斎藤由里、二十三歳。ホステスしてるの、よろしくね。あなたかわいい顔してるから、私のこと由里と呼んでいいわ」
と、耳元で色っぽく囁く。
「よ、よろしくお願いします……」
と、俺は、突然の出来事で硬直して、動揺して動けなくなったままで答えた。

「って、斎藤さん、ええ大人が、何で、突然、まだ中学卒業したばかりの男子高校生に抱きついてはるんですか?」
と、いう結姫に対して、斎藤さんは、俺に抱きついたままで、
「だって~。師範がハグまでならいいっていったじゃない。あら、御免なさいね。あなたの彼氏だったわね」
「いいえ、只のクラスメイトやけど」

と、即答する結姫に、
「じゃあ、キスしてもいい?」
と、言って、斎藤さんは、俺の頭を後ろから押さえて、ゆっくりと唇を近付けてきた。

俺はこの非常識な事態に完全に混乱していたせいもあるが、逆らえないのは、このナヨナヨとした女性は思った以上に力が強いからだ。後で思い返してみたら、この人に逆らおうとしても力が入らないと言ったほうが適切だったかもしれないが、そのときは、力で負かされたと感じていた。

もう少しで、俺のファーストキッスが奪われそうになった。そのとき、結姫が、掌を俺と斉藤さんの間に割り込ませ
「それは師範が、禁止していると言ったはずですが……」
と、間一髪というところで制した。

「しかたがないわね。今日はこのぐらいにしといてあげるわ」
と、言って、斎藤さんは俺を解放してくれた。
「はい、はい。斎藤さんも純情な少年少女をおちょくっていないで、稽古しましょうね」
「はーい、わかりました。でも、これから本当に楽・し・み!」
と、俺にウインクして斎藤さんが言っているその横で、スポーツ少女の恵子さんが、結姫と俺を交互に見てから、何か夢心地のような顔をしてから、ニヤッっとして宙を見上げている。
「あら、恵子さんどうしたの」
と、師範が尋ねた。

「結姫ちゃんと、健くん、あんなことや、こんなことをやっているのかなーって」
と、相変わらず夢心地でいう恵子さん。
「あんなこともこんなこともあれへんわ。今朝会うたばかりや。只のクラスメートや。恵子さん、頼むさかいそれ以上、変な想像をせんとってんか。それ以上は、あそこにいる師範がいい。美人やし、大きな胸してるし、十分想像して楽しめるで~」
と、結姫が、恵子さんに言うと、師範は、にっこりとほほ笑んで、恵子さんに言った。
「そうそう、恵子さん。結姫ちゃんと健くんは今朝会ったばかりだけれど、今日、私が1時間ほど留守している間に、結姫ちゃん、もう自分の部屋に健くんを連れ込んでいたのよ。でも、『その一時間ばかりの間何があったのかな?』なんて絶対に想像してはいけないわよ」

「ちょっ、師範! 頼むさかい、恵子さんの想像力をかきたてるような言い方はやめて!」
と、結姫が言っていると、恵子さんは、両頬に手を当て、とてもうれしそうな顔をして叫んだ。
「結姫ちゃん、キャー、エッチ!」
「恵子さん、ウチら何もしてないって!」
と、結姫がいうと、師範が
「じゃあ、雑談はこれぐらいにして、さあ、稽古しましょうか」
と、言って、道場の後ろの左端にある小さなドアの方にみんなを案内した。

その中に、入ってみると、そこは、三十帖ほどの部屋になっていた。そして、中には俺の腰より20センチぐらい低い高さの作業机が多数壁に向かって並べられていて、それぞれの作業机の上には、丈夫そうな金属製の架台が置かれ、その架台に皮で作られた土嚢ぐらいの大きさの重そうな袋がつりさげられている。
俺には初めて見るものだ。

「あら、健君、何不思議そうに見ているの。これ、何だかわからないって顔ね。これね、空手の人たちが脛を鍛えるのに使う砂袋なの。一つの袋に四〇キロの砂が入っているのよ。でもウチでは蹴りはあまり使わないの。それでね、手で突けるように台においてあるって訳なの。一度叩いてみる?」
「はい、じゃあ、叩いてみます」
「あっ、ちょっと待って! そうね素人の健君だと、手の骨が折れるかも知れないから、そこにグローブあるでしょ。それをはめてから軽く叩いてみて!」
俺は、すぐさまグローブをはめると、殴る構えをした。
「健君、初めはあまり、強く叩かないでね。手首おれちゃうといけないから。ちょっと軽く試して、大丈夫そうだったら少し強く叩いていいわ」

俺は砂袋というものを叩くのは初めだ。あまり強く叩くなといわれても、女性ばかりたくさん見ている中、はい、そうですかと小学生が叩くようにチョコンと当てるわけにもいかないだろうと考え、若干力を込めて、パンチを叩き込んだ。
パーンと音が響いて、ギシギシいいながら砂袋が僅かに揺れた。若干、衝撃が手首にもどり痛みが走ったが、わずかに揺れている砂袋を見て
『いい音がするもんだな』
と、俺は軽く悦に入った。

「はーい、みなさん。これが普通の男の子のパンチのやり方ですね。いい音が響きましたね。だから、こんなパンチで叩かれればかなり痛いです。でも、秘伝の当て身だと、非力な乙女が叩いても、もっと悲惨なことになります。私がやってみますのでよく見ててくださいね」
師範は、涼しい顔をして、そんなに力を入れた様子もなく、砂袋を叩いた。
バン、バーン
と連続した破裂音が聞こえた。師範に叩かれた砂袋が大きく振れ、後ろの壁にぶち当たったのだ。最初のバンという音が師範が砂袋を叩いた音で、後のバーンという音が砂袋が壁にぶち当たった音のようだ。
ミシミシミシミシミシミシ……
とまだ、音を立てて前後に大きく揺れている。さすがに、これを見た俺はぶったまげた。

師範は、身長162、3センチというところで、痩せ型だ。なので、俺にくらべたら体重もずっと少ないだろう。胸が大きいと言っても俺との体重差には、さして影響ないだろう。どこにそういう力が隠されているのか俺は不思議でならなかった。
「はーい、これが合気道の当て身です。今までは、黒帯の人にしか教えなかったのですが、今回から、一般の部の全員に教えることになりました。健君、驚いたでしょ。私のこと、女っぽくないって思ったんじゃない?」
「いいえ、師範の突きはとても素敵でした。でも、どうして、俺の突きとこんなに差があるんですか。俺がグローブをしてるからですか?」
と、俺は聞いた。

「あら、グローブなんて関係ないのよ。ほんのコツがわかれば誰だってできることよ。ただ砂袋って固いのよ。素人の人が砂袋を叩くと、骨折の危険があるの。だから、健くんの手を傷めないようにはめてもらっただけ、チョッと今つけているグローブ貸してもらえる?」
今度は師範がグローブをはめて打った。
バンバーン
と大きく響き、砂袋は後ろの壁に激突し、と音をたてて
ミシミシミシミシミシミシ……
前後に大きく揺れている。
結局グローブをしてもしなくても結果は同じだった。

「ね、わかった? でもね、これって、ちょっとした、コツがあるだけなのよ。合気道ではそれを秘伝といっているのだけれど。武道には『理』が必ずあるのよ。そこをおさえなきゃいけないってこと」
「秘伝の『理』ですか?」
「ええ、そうよ。じゃあ、これからその秘伝を教えますね。ところで、私のパンチを見たあとだと、健くんのパンチは大したことがないと思った人もいると思いますが、これをまともに食らったら、普通の女性なら怪我します。なので、普通の男性のパンチも舐めてかかると大変なことになるので十分注意しましょう。」

「師範、そんな前置きはええから、早よ、稽古しよ。普通の男のパンチなんかどうでもええから」
と、結姫が言うと、すかさず、美人ホステス斎藤さんは、
「結姫ちゃん、そんなにやる気満々でせっかちだと、男の人は引いちゃうわ。女はね。演技でもいいから、ちょっと恥じらいがあった方が男の人は燃えるのよ」

「って、斎藤さん、一体何の話をしてはるん? 話しややこしくなるだけやで」
と、結姫が言うと、師範が
「うん、そうね」
と、結姫に同意したかと思ったら、
「斎藤さんの言うとおりよ。結姫ちゃん、折角彼氏つれてきてるんだから、やりたいって態度に出すのはちょっとね。もう少し我慢しなくちゃ」
と、言う。

「何が我慢やねん。あんたらのエロ話しはもうええちゅうねん!」
と、言うと、結姫は、前にあった砂袋に思い切りパンチを叩き込んだ。
バンバーン。
ミシミシミシミシミシミシミシ…。
と、不気味に砂袋が揺れる。
「怖え~!」
と、すぐ目の前で見た当身の迫力に、思わず俺は声をもらしてしまった。
「何でやねん。師範の方が威力あるのに、師範がやると素敵で、ウチがやると何で怖えーなんよ!」
と、結姫が俺を睨んだ。

「あらあら、結姫ちゃん。健君の言う通りよ。威力はあるけど、顔が怖すぎるなのよ。ちょっと表情に出しすぎね」
と、師範が言うと、すかさず斎藤さんが、
「本当。女の子があまりやりたいやりたいって露骨に表情に出しちゃうと、男の子は引いちゃうのよ」
「だ・か・ら、もう斎藤さんの怪しいアドバイスはよろしいって」

「本当に、結姫ちゃんの当て身は威力がありすぎて怖いほどですね。では、みなさん、健君と、結姫ちゃんの違いはどこにあるでしょうか」
と、師範が皆にたずねると、それに答えて斎藤さんが
「見た目、打ち方が少し違うというのはわかるのですが、どこと言われると見当がつきませーん。強いて言うなら、結姫ちゃんの方が、お尻がプリプリとしちゃって、少しセクシーって感じでーす」
「それ、関係あれへんがな」
と、結姫がぼそっというと、師範は
「そうですね。斎藤さん、いいところに目をつけられましたね。結姫ちゃんのお尻が大きなポイントなのですね」

「何でやねん。そんなもん何も関係あれへんがな!」
「そうそう、結姫ちゃんのお尻と言えば、結姫ちゃん脱ぐと、色白のお尻がとてもキュートでかわいいのよ」
「もう、ええちゅうねん。それに、だんだんと変な方向に話がずれてるんですけど……」
と、結姫が口を挟んだ。
「あら、お尻の話は全然ずれていないのよ。折角、ついでだから結姫ちゃんのお尻が綺麗だって自慢してあげているのに……。それにね、当て身は、お尻が、大切なポイントだから言わないわけにはいかないの」
「誰もそんな自慢してほしいないわ! 何が大切なポイントやねん。そんな訳の分からん理屈はええねん!」
と、言う結姫を横目で、師範は話を続けた。
「まあ、その大切なポイントをいう前に、先ずは、合気道の当て身は、よい投げにもつながるていうことをよく覚えておいてくださいね。で、これから当て身の基本について詳しく説明しますね」
「はーい」
と、全員が返事した。

「先ず、当て身の動作を分解しますと、『起こり』と『伝達』という2つに分かれます。起こりは、力の起こし方です。伝達とは、その力の伝え方です」
と、説明する師範の声に応じて、映像では説明文が表示されている。
「うちの合気道では、起こりは第一式から四式の4種類あります。また、伝達には陽と陰があります。今回は、基本となる第一式の起こりと陽の伝達を教えますが、違いを理解していただくために、まず、結姫ちゃんに、当身の第一式の陽と陰、二式の陽をやってもらいます」

「結姫ちゃん、まずは、第一式の陽で、突いて」
「はい」
バンバーン。ミシミシミシミシミシミシ……。
「体の重みが前に移動する当て身です。ウチでは、単に当て身という場合この方法をさします」

「結姫ちゃん、次、第一式の陰で、突いて」
「はい」
バンバーン。ミシミシミシミシミシ……。
お尻が極端に後方に引かれた変わったパンチだ。
「体の重みが打ち出す方向と反対に移動する当て身です。これは、通常、瞬間に力を生み出す必要のあるときに使います」

「結姫ちゃん、次、第二式の陽で、突いて」
「はい」
バンバーン。ミシミシミシミシミシ……。
「第二式は、腰が回転する当て身です。一式と二式を見ると違いがはっきりとわかりますね」

「はい、健くんのパンチと結姫ちゃんのパンチですが、実は映像に撮っています。はい、これに注目!」
師範の手には知らない間にリモコンが握られていて、スイッチを押すと、ウィーンという音とともに、天井の一部が開き、そこから超大型液晶ディスプレイが降りてきた。

「はい、画面を見てください。はい、スロー再生をします。先ず最初に健君のパンチを見ていただきます。健君のパンチですが、足を踏ん張って、力を込めて素早くパンチをだしています。腰と手が同時に出ていますね。腰は少し回転しているけど、ほとんど腰の位置が変わっていませんね。一方、結姫ちゃんはというと、はい、結姫ちゃんのキュートなお尻に注目。ほら、斎藤さんのご指摘のとおり、結姫ちゃんのお尻がいやらしく前方に動いていますね。でも、手の位置は、移動していません。そしておもむろに手が出ています」
「どう見ても、いやらしくなんか動いてへんし……。上半身も同時に動いていて、お尻だけ動いてるんちゃうやん」
と、結姫が、ぼそっと小声で抗議する。

「あら、私の目から見たら、結姫ちゃんのお尻は、めちゃくちゃいやらしく動いているわ。じゃあ、皆さん、どうして結姫ちゃんのお尻がそんなにいやらしいのか説明していきますね」
「もう、ええちゅうねん! その言い方だと、うちはお尻だけ振っているように聞こえて、こんなにするんかと、皆誤解するやろ」
と、言いながら、結姫がお尻を振って当て身の動作を行った。
すると、すかさず、斎藤さんが
「まあ、結姫ちゃん、そのお尻の振り方って、すごく卑猥ね。好奇心旺盛な年頃だからそういう世界に興味もつのもしかたがないのだけど、今は我慢して、一人っきりでいるときにね。アッハーン」
と、言って、内股気味で、トイレを我慢してモジモジしている仕草をしている。

「はい、はい、斎藤さんの怪しいアドバイスは、もうよろしいです」
と、結姫が言っているそばから、恵子さんはまた上空を見上げてうっとりとしている。
「恵子さん、変な想像はええから……」
 
「さて、では、説明を先にすすめましょうね。実はね。結姫ちゃんが今卑猥に振ったお尻には、骨盤という骨が入っているのね。その骨盤にはね、内臓とかいろいろと載せているの。て言うことは、結姫ちゃんの殆んどの体の重みを骨盤に載せてるってことなの。だから、今結姫ちゃんが今行ったような卑猥なお尻の使い方だと重みはあまり載っていないのだけれど、正しい動作で突いたときの動きでは、頭や体を載せた結姫ちゃんの重いお尻が一気に移動しているの。だから、そのとき大きな運動エネルギーが起こるの。……あれ? 突然、恵子ちゃんどうしたの?」

「師範、あたしスポーツ馬鹿だから、そんな運動エネルギーなんて言葉聞いただけで、訳が分からなくなっちゃうんです。中学校のとき理科で落ちこぼれちゃったから。もう少し分りやすい表現にしてもらえますか」
と、突然、眉間にシワを寄せて、ヒョットコみたいな顔をしていた恵子さんが口を開いた。
「あら、じゃあ、表現を変えますね。恵子さん、でも、上半身すべてを載せた結姫ちゃんのお尻は重いってことは分ってもらえましたね」
「はい。それに、結姫ちゃんのお尻はとてもエッチだってこともわかりました」
「恵子さん、それはええねん!」

師範は恵子の言葉に答えてさらに、説明を続ける。
「じゃあ、ボールで例えて説明しますね。プロ野球の試合で時速150キロとかよく聞きますよね。だから、軟式テニスのボールが時速三〇キロで飛んできても大したことはないのは皆さん分かりますよね?」
「はい、そんな遅いボールだったら、子供でも片手で簡単に受けることができます」
 得意分野の話になると、恵子さんは急に元気になる。
「ところが、結姫ちゃんの体重と同じ重さの鉄の球が時速三〇キロで飛んできたとしたらどうしますか? ちなみに女子用の砲丸投げの玉の重さは4キロなんですね」
「そんなのが当たると大怪我しますから、あたしだったら逃げます」
「そうね、恵子ちゃん賢い選択ね。実はこれと同じ原理が結姫ちゃんのパンチに働いているの。健君のパンチが腕力と手の重さだけのパンチとしたら、結姫ちゃんのパンチは一見は手だけの重さに見えて、実は結姫ちゃんがいやらしくお尻を動かしているので、体の重さも加わわっているのね」

「だからお尻だけやないちゅうねん。それにいやらしくちゅうのも余計や。それから、本部では、尻じゃなく、腹とか腰とかで説明してるで。体全体が移動せなあかん。変な説明したら皆誤解するからあかんって」
「結姫ちゃん、何言ってるの? 腹とか腰とか言うと、私の経験から、皆、誤解するのよ。かといって、体全体というと、体を前のめりに動かすのよ。だから、お尻で体を運ぶというのが一番正しい言い方なの。それに結姫ちゃんのお尻はとてもいやらしいっていうのは紛れもない事実でしょ? だって、ただのパンチに見せかけて、実はその前に相手に分からなくお尻を使って加速しているなんて、何も知らない相手からすると、めちゃくちゃいやらしいやり方だと思うんじゃない?」
と、師範がいうと、その声に答えて斎藤さんは
「はい、そうです。結姫ちゃんのお尻は、ものすっごくいやらしくでーす」

「斎藤さん、もうええから! 動いてるのはお尻だけじゃなく、体全体やから」
 と、結姫が言っているそばから、恵子さんが夢見る眼差しでつぶやいた。
「あたしは、これから先、いやらしくお尻を振った結姫ちゃんが、健くんとどんなことをするのかなーって考えるのがこれから楽しみになりそうです」
「だから、恵子さん、稽古の最中なにゃから、頼むさかい、もう、ウチについてそれ以上変な想像せんといて……」
「分かったわ、後でじっくりと想像するわ」
「いや、もう一生せんでもええ。」

師範の説明は結姫が言うように珍説であったが、確かに的を射ていると思った。
俺が、以前やっていた合気道では、ある先生は「腰が大事」と言い、またある先生は「腹が大事」と言っていた。だから、言うことがまちまちで俺にはさっぱり理解できなかった。だが腹も腰も、結局は胴体全体のことと考えれば納得いく。しかも、師範の珍説の「尻を使う」と言う表現が、今までの謎を全て解いてくれた。

「健くん、初めは手の力を抜いて、肘の力を抜くことを意識して、肘を少し曲げて、体を前に移動することを考えるの。そして体が前に出た瞬間、肘を意識して、肘でパンチを運ぶように押し出す感じで突き出すのよ」
バーン
 少し揺れが大きくなったように思えた。それに手がまったく痛くない。このやり方だと手首に負担がまったく掛からない。
「そう、その調子ね。あのもう少し上半身が柔らかくて、慌てすに動けばもう少し威力あがるわよ。飽くまでも手は遅れて出るっていう感じ!」
バーン。ミシミシ。
 わずかに、砂袋は揺れた。
「そうね。随分良くなったわ。健くんは、体を加速したら慌てて伝えてるって感じがするわ。伝わるタイミングをもう少し待たなきゃ」
「はい」
バーン。ミシミシミシ。
 少し、揺れが大きくなったようだ。
「そう。そのイメージね」

俺たちは、当て身の稽古をしばらく行った。随分熱中したように思うが、どれぐらい時間が経過したのか分からなかった。短いと言えば短いし、長いと言えば長かった。だが、少しずつ、当て身のやり方が分かってきた。
そして、次の当身を入れようとしたとき、思わず俺は体の力が抜け、余りにも軽く砂袋を叩いてしまった。
『あっ、失敗した』
 と、思った刹那
バンバーン。ミシミシミシミシミシ……
あのびくともしなかった砂袋が、後ろの壁に激突したのだ。さっきまで、揺れるのがやっとで、壁まで全く届かなかったのに、突然、砂袋は壁に激突した。
「そう、その呼吸よ」
と、師範の声が飛んできた。
『やっとできた。俺にも……』
確かに、結姫や師範に比べるとまだまだだが、それでも砂袋がようやく壁に激突した。うまくいった喜びが体いっぱいに広がった。

次の当て身もやっぱり砂袋が壁に激突した。ようやく呼吸がのみこめたようだ。
ふと気がつくと、周りの人たちの一部も壁に激突させていた。
「あら、私もできちゃったわ」
と、美人ホステスの斎藤さんがほくそ笑んでいる。俺と目が合うと
「健くん! もし私が、強くなりすぎて、彼に嫌われたら、結姫ちゃんに内緒で、私の相手もしてね。こう見えても、私、夜のテクニックはすごいのよ」
と、俺にウインクをしている。
 俺は、とりあえず無視して、また砂袋を叩いた。
バンバーン。ミシミシミシミシ……。

「あら、当身の稽古で、時間をちょっと使いすぎちゃったわね。今日は、もう時間がないので、四方投げの稽古だけを軽く流しますので、すぐに部屋を移動してください」
と、師範が言うと、すぐに全員がもといた道場に移動を始めた。結姫は俺を見て、ニコッと微笑んで、道場の方に戻っていった。
「じゃあ、時間がありませんので、これから見本を見せますが、今回は、理など気にせず自由に四方投げの稽古をしてください」
と、言って、結姫を相手に演武を見せた。
ここの稽古でもやっぱり、やっている投技は、俺が習った合気道と同じであった。
「何だ。これなら大丈夫。俺でもできる」
と、思った。

「健くん、私の相手してもらえる?」
と、気が付くと、美人ホステスの斎藤さんが、ぺたりと俺の右腕に豊満な胸を寄せながら、俺に寄り添っている。周りを見ると、もう既に皆は稽古の相手が決まっていて、残るは、俺と斉藤さんだけになっている。さっきキスされそうになったトラウマがまだ残っているがもう遅い。仕方がない。俺は覚悟を決めて、
「はい、お願いします」
と、言った。

俺が、かつて合気道をしていたとき、投げる人が自ら投げられやすいように動いて協力をするように指導されていた。だから、ここでも俺はそのように動いた。
「健くん。ダメよ、私を女だと思って、遠慮していたら稽古にならないわ。もっとしっかり持ってもらえない? そうじゃないと、唇奪っちゃうぞ!」
 と、俺を抱擁する手つきをしつつ、斎藤さんは俺に寄って来た。
 それを見て焦った俺は、すぐさま彼女の手首をつかみ、渾身の力を振り絞って握りしめた。俺の常識では絶対に技にかからないはずだった。
「いいわ。そのきつい握りっぷり、私、感じてしまいそう。いやーん」
と、言ったかと思うと、俺は完璧に切り崩され、投げられていた。
バーン!
と、俺のとった受身が道場内に響いた。

斉藤さんはまだ白帯だったので、あまりの技の切れに俺は驚いた。
『これは何かの間違いではないか』と思った俺は、再度、斉藤さんの腕を思い切りつかんだ。が、やっぱりあっさりと崩され投げられてしまった。俺の方はというと、斎藤さんは遠慮してわざと技にかかってくれているようだ。俺は、何度も何度も彼女に挑んだが、すべて、ことごとく崩され投げられてしまった。何度も、投げられている内に、俺は分かってきた。斎藤さんのパワーがすごいのでなく、俺の力がいつの間にか抜かれているということを……

『武道というものには「理」が必ずあるのよ。そこをおさえなきゃいけないのよ。』
俺は、当身の稽古のとき師範の言ったことを思い出していた。俺は、この不思議な合気道道場に是非通いたい気持ちになっていた。

小説?

生徒さんの一人に、十年以上前にとある道場で体験したことを『新しい合気道と古い合気道』というタイトルで小説風に書いてみて、FaceBookにアップしたと話したところ、是非読みたいといわれたので、アップします。多分文庫本で15ページぐらいになりますので、興味がある人は読んでくださればと思います。

* * * * * * * * * * * * *

午前十時、暖かい日差しが降り注ぐ5月のある日、雲一つ無い透き通ったコバルト色の空の下、さわやかな風を体いっぱいに受けながら、私はバイクを走らせていた。
実は、ネットで検索した合気道の道場に、バイクで向かっているところなのである。師匠がなくなり、ここ数年ずっと燻ぼっていた合気道の情熱に突然火がつき、どうしても合気道がしたくなったのだ。

道場に到着すると、そこの師範が、私の到着を歓迎して下さり、暖かくうけ入れて下さった。師範は、中肉中背ながらも、重厚感を感じさせるオーラをまとった中年の紳士で、あらゆることに自信にあふれているように見えた。
『もしかすると、この師範は期待できるかもしれない』
と、私の心は弾んでいた。

道場に上がると、五十畳以上の綺麗な畳が広がり、窓から差し込んだやわらかい日差しが、照明で照らされた道場内をより明るくしている。開け放たれた窓から、そよ風が流れ込んで、とてもさわやかだ。外から、鳥たちが鳴き声を交わしているのが聞こえてくる。そこに、集まった道場生たちが、楽しげに会話に興じ、みんなが輝いて見える。
「楽しく体験してください。きっといい経験ができますよ」
と、師範は、道場内に案内した私に、声をかけ、微笑んでから、堂々とした歩みで、道場の奥に進んでいった。

「では、始めます!」
と、師範が上げた大きな声に、皆が一同に集まり整列した。
「今日は、体験者がいますので皆さん、よろしくお願いします」
と、私を紹介してから稽古が始まった。

まず、稽古は、準備運動から始まった。受身などの一連の基本の稽古を経て、ようやく投げ技の稽古となった。
投げ技の稽古は、合気道のよくあるパターンで形稽古というものだ。先ず最初に、全員の見ている中、師範が弟子の一人と模範演武を行う。その後、師範の行った技を2人一組になって、攻守交互に交代しながら稽古を行うのである。

師範の演武は、「片手取り四方投げ」であった。片手取り四方投げの『片手取り』というのは、技をかけられる役の『受け』が技を掛ける役の『取り』の手首を片手で掴みにいくことである。そして、片手をもたれた『取り』が、『受け』の関節を取って投げるのである。

師範の演武は、私の知っている合気道とまったく違っていた。
体の捌き方も若干異なるが、一番気になったのが、技のかけ手である『取り』が『当て身』を入れない点だ。私の習った合気道では、『取り』は技を行う途中に、何度かパンチで『当て身』を入れる。とは言っても、実際に相手に当てるのではない。相手の身体ぎりぎりのところで止めるのだ。
『この道場は「取り」は技の中で当て身を使わないのか。癖がでなきゃいいが、少しやりにくいなあ』
と、私は、思った。

「では、稽古はじめ!」
という師範の掛け声のあと、一同に並ぶ道場生が、それぞれペアを組みはじめた。私は、近くにいた茶帯を締めた中肉中背の中年の男性が、私に声を掛けてくれた。
「やりましょう」
「どうかよろしくお願いします」
と、私は、返答した。

『相手は、茶帯ということは、2級か1級。わからないところはリードしてくれる。やり易いだろう』
と、考えていた。
私たちは、互いに、
「お願いします」
と、言って礼を行った。

先ずは、相手が技をかける役の『取り』の担当で、私が『受け』を担当することになった。そこで、私は、相手の右手首を左手で掴みにいった。
『?』
相手の手首を掴んだ瞬間、私に何ともいえない違和感が伝わって来た。
『この感覚では、角度がよくない。力がぶつかり、技がかからないのではないか』
と思った。

『よその道場に来て逆らうような行動はよろしくない。とりあえず技にかかっておこう』
そう思って、私は、相手の動き合わせて倒れることにした。
「自分で勝手に掛かって倒れてくれなくてもいいですよ」
と、微笑みながら相手の男が私に言った。

「すみません。初めてのことなので、合気道では、思い切り掴むのはよくないと聞いていて、丁度よい加減というのがわからなくて……」
と、私は応えた。私が、私なりの『普通に持つ』と流れが途切れ、練習になりそうにないとはとても言えなかったからだ。
すると、相手も私と同じように勝手に倒れてくれる。気を使って、私が掛ける前に、先に倒れてくれている。まるで、相手が人ではなく、乾いたタオルか手ぬぐいを振り回しているような頼りなさを感じつつ技を繰り返していた。

「やめー!」
師範の声で、一同は稽古を止め、道場の端に寄って綺麗に整列して正座した。

「次は、『正面突き小手返し投げ』を稽古します。『受け』が『取り』のミゾオチ、すなわちお腹めがけて、パンチを打ちます。すると、『取り』は、それを捌いて相手の横に入ります」
と、師範が説明すると、その道場生が師範めがけて、パンチを打ち出した。
飛んできたパンチを、師範は、非常に俊敏な動きで体を開いて捌き、美しく舞うようにパンチを避けた。
「次に、このように相手の手を引っ掛けて、相手の手を返すように投げます」
と、説明して技をやって見せた。それから3、4回、左右入れ替えて演武を見せた。

「では、始め!」
という師範の声とともに、私は、先ほど組んだ相手とペアになり稽古を始めた。

先ずは、私が『受け』である。私は心の中で気合を入れて、
『エイっー』
と、正面突きを行った。
『?』
なんと、『取り』の相手は、私の出したパンチにすくんで、捌くことができず、急ブレーキを踏んだように立ち止まっていた。私のパンチは、相手の鳩尾の3センチ前で静止していた。

そこに、突然、師範の声が飛んできた。
「殺気が強すぎる! 合気道は和合の武術。殺し合いじゃないんだから、そんなに殺気をこめてはいけない!」
生徒の動作を見て回っている師範が、偶然、私たちの稽古する近くを通りかかっていたのだ。

『この師範、何を言っているんだ?』
私は、師範が言ったことばに呆気にとられてしまった。私は、殺気をこめたつもりはなく、普通に気をこめてパンチを出しただけだった。しかし、体験させてもらっている以上、師範に逆らうわけにもいかないので、
「はい、すみません」
と、私は返事をし、回りを見た。

ちょうど、そのとき、道場内が少し暗くなったのを私は感じた。
『やばいな、太陽が雲に隠れたようだ。天気予報では、今日、雨と言っていたが、帰るまでもってくれればいいがなあ』
と、私は考えていた。

それからすぐに、隣の女性を見た。女性は相手のいない空間に向かって手を差し入れるように緩やかにパンチをしている。
『そうか、ここでは相手にあたらないようにパンチを出すのか。しかも緩やかに……』
仕方がないので、私も隣の女性の真似をしてパンチを出すことにした。すると、相手の男は、蝶が舞うごとく、綺麗に体を捌いて、小手返しを私に掛けた。

『こんなので、皆、護身に使えると真剣に思っているのか? 的外れの当て身を捌く稽古をして、何の意味があるのか?』
と、私の心の中に、疑問が沸々と沸いてくるのを感じていた。私は、灰色の絵の具だけで、絵を描いているような味気ない思いで、稽古を続けた。
一度、疑問を持ってしまった私は、他の技を行っても、まったく色あせて感じ、稽古が終わった時点ではその記憶さえ残っていなかった。

今や外は、太陽が、黒い雲に覆われ、道場の窓を通して見える外の景色は、夕方のように暗かった。それに、先ほど輝いて見えた道場内までもが薄暗くくすんで見える。
『ここでは私の理想とする合気道は学べない』
もう、私の結論は決まっていた。

稽古を終えて、師範は、私の方にやってきた。
「体験はどうでしたか?」
と、師範が微笑みながら聞いきた。
「はい、ありがとうございました。家に帰って入会するかどうか考えて見ます。今日はどうもありがとうございました」
と、無難な挨拶をし、私は帰ろうとした。

すると、
「何か疑問があるのではないですか?」
と、師範は、私の顔をジッと見て尋ねた。
「実は当て身のことが少し気になってまして……」
と、師範の真っ直ぐな目に、つい正直な気持ちの言葉が出てしまった
「当て身ですか?」
「はい、皆さんあまり当て身を稽古されていないようなので……」
「そうですね。全国的に今の合気道は当て身を稽古しないようになっていますね」
「合気道の開祖は、当て身7分に投げ3分とおっしゃっておられたと聞いています。その点が、気になっているのです」
「それはもう時代遅れの古い合気道のことですね。合気道は日々進化しています。時代に合わせてどんどんと進化しているのです。今は、平和な時代にあった合気道に変っているのです」

「それでは、いざというときに護身の役にたたないのではないですか」
「護身とはですね。危ない状況にならないのが真の護身術です。ですから、護身の技など使わない状況にならないといけない。精神が高まればそういう状況に自然となるものなのです」
「でも、実際、普通の人が、偶然に、通り魔など、不慮の事件に巻き込まれるというケースが非常にふえています。だから護身用の技は大切ではないですか?」
「そうではない。何故なら、精神性が高まればそんな目に会うことがありません。失礼な言い方ですが、そういう人は、精神性が低いから、そういう目に会うのです」
「……」
私は、この師範の言葉に絶句してしまった。高僧や宗教家のような精神的指導者がいうならまだしも、護身術として武道を教えている合気道の師範からそういう言葉が出るとは考えてもみなかったからだ。
それよりも、師範の言っていることに対し、何かしっくり来ない漠然とした違和感が私の中に現われていた。私は、しばらく沈黙していた。

そして、師範の目をジッと見て、おもむろに切り出した。
「それじゃあ、既存の宗教と同じような気がしますし、そうなると、武道という戦う形式をとる必然性は全くないような気がします」
「いいえ、そうじゃない。既存の宗教での精神の追求は、あくまでも自分に向けたものだけに限られています。一方、合気道は、他者と同時に行うものです。今の合気道は他者と一つの形を完成させるのです。一致協力とともに精神を高めていく。これほど完成されたものが他にあるでしょうか。それこそ〝動く禅〟です。私たちは、戦争で戦うために稽古しているんじゃない。合気道という人の生きるべき道を修行するために稽古をしているのです」
と、師範が応えた。

確かに、精神主義者としては、非の打ち所の無い論法だ。だが、私の中に、何とも言いがたい違和感がまとわりつき、何かが足元で絡み付き、まるで泥沼に足が囚われているようなもどかしさを感じていた。
「それでは、2人ペアでやるソーシャル・ダンスの方がより合っているように思います」
と、私は、きり返した。

「ソーシャル・ダンスには、コンテストがある。要するに他者と比較するということです。それは見た目さえ良ければということにつながります。ところが、精神の高さというのは、見た目だけつくろってもダメなのです。飽くまでも、自分視点でないといけません」
と、首をかしげている私の顔を覗き込みながら、師範はゆっくりと説明をしていく。

「合気道には『受け』と『取り』の正反対の2つの役割があり、それを交互に行うことで相手の身になって考えられるように仕組まれています。試合やコンテストがないのは、己の精神に向うためです。また、武道の形式をとっているのは、敵と和合するという尊い意味があるからです」
と、師範は目を輝かせて述べた。

私は、相変わらず、何か納得いかないものを感じていた。
「私の学んだ合気道とあまりにも考えが違いすぎて、面食らっています。開祖も戦える武道性を大切にしたと聞いています」
と、私は応えた。
「しかし、世の中は開祖がいた時代から変っているのです。ですから、それに合わせて変っていかないといけない。この平和な時代の合気道では、当て身のような程度の低い相手を痛めつける技術はふさわしくありません。これからは如何に精神を向上させるかということです」
と、師範は私を諭した。

「当て身を程度が低いと言うなら、当て身を用いた開祖も精神的に程度が低かったということになります。また、全国には空手や拳法など当て身を中心にする武道をしている人も精神が低いということになりますが……」
「そうじゃない。合気道で如何に精神を向上させるかという点で話しているのです。空手はスポーツだからそれでいい。私は、精神向上するもっとも近道の話しをしているのです」
と、師範は応えた。

「……」
私は、私の心の中では、先ほどから感じている違和感がどんどんと膨らむのを感じていた。
「私は時間をもっと精神を高める方向に向けてはどうかといっているのです。当て身のような低いことに時間をさいていると、精神も低いままで終わってしまう。合気道は、時代とともにどんどん進化しているのです。最も進化した新しい合気道をしないと意味がありません」
と、その師範は続けた。

私は、師範の話を聞きながら考えていた。
『武道として始まった合気道を、まったく違う方向に進めるのは本当に進化といえるのだろうか? 違う方に向かうのなら混乱をさけるためにも名前を変えるべきだ。まあ、これ以上、話し合っても平行線をたどるだけだ』

私は、師範の目を真っ直ぐ見つめ、
「最も進化した合気道というのが、現時点では理解できていません。家に帰って、師範が言われたことをしばらくじっくり考えたいと思います。今日はどうもありがとうございました」
と、言った。
「多分、分からないのじゃなく……。あなたは、人を痛めつけることにこだわっているから分かりたくないだけじゃないかと思います。それなら、K1かグレーシー柔術をやって、チャンピオンを目指せばいい。そうすれば、最強の格闘家になれますよ」
「私は、世界一の格闘家をめざしている訳じゃありません。私は師匠が真の達人だと思っています。私は師匠の技を目指したいのです」
と、私が話すと、師範は、鼻で笑って、
「井口さんは全然達人ではありませんよ。あなたが思っているほど、井口さんは大した技を持っていませんでしたよ。私に言わせればお話にならないぐらい何も知らない。剣や杖(じょう)だってろくに出来ないと聞いている。それに、もう死んでしまっているんだから、技は習えません。もう時代は変っているのです」
と、こう私に応えた。
「井口師範は、柔道、空手、剣道、銃剣道など黒帯を取っています。何も知らないとはいえないと思います。それに、井口師範を大したことがないというのでしたら、私が攻撃しますので、井口師範と同じように、後ろからくる相手を、見ないで捌いて見せてください」
「そこですよ。すぐに、腕づくで、解決しようとする。それが、精神性が低いと指摘する点です」
「そうじゃありません。師範は、さまざまな武道を体現している井口師範を何も知らないとおっしゃいました。それでは、師範の技がどれだけすごいのか見せてほしいといっているだけなのです」
と、私が言うと、師範は、一瞬うんざりしたようにため息をつき、見下げるように私を見た。

『結局この人も口だけの人か……』
と、私がそう思った瞬間、
「じゃあ、ちょっと技を見せてあげましょう。これから見せる技は、滅多に人には見せませんが……」
と言って、道場の真ん中に、ずかずかと歩いていき、居残りで稽古している2人の男の弟子に声をかけた。二人とも、襟が擦り切れた年季のはいった道着を着ている。
師範は、この二人と座って礼をおこない、立ち上がってから、一方の男の方に手首を持つようにと、自分の手を前にかざした。
その男が師範の手首を掴んだ瞬間、ピクッと痙攣をおこしたように見えたかと思うと、体が反り返り、踵が浮いた状態になっている。その後、師範は、軽く掌で押して倒した。

バシーン!
と、道場内に大きく受身の音が響いた。
「おうー! 久々の師範の神技だ」
と、歓声が上がった。

道場内に残っていた生徒たちの視線が、一気に、師範の演武に集まった。
「そうそう、滅多に見せない師範の神技。今日、見られるのはめちゃラッキー」
と、袴をはいた若い女性がうれしそうに言った。

居合わせた生徒たちは一斉に、その場で正座して師範の演武を見始めた。
師範が、もう一人の男と目を合わせた。指で自分の首元を指した。それが横面打ちの合図だ。その男は、師範に示された首を向けて斜め横から右の手刀を打ちだした。
その瞬間、師範は、異様な速さで体を捌き、相手の攻撃をやり過ごしつつ、相手の手刀を捕らえた。すると、その男は、ピクンと痙攣し、体が反り返り、爪先立ちで立ったまま動けない状態になった。そこで、師範は、2メートル先に投げ飛ばした。
バシーン!
と、道場内に受身の音が響く。

次々と、二人の弟子たちは、師範の指示どおりに、攻撃をしていく。片手取り、正面打ち、横面打ちといろいろな攻撃をしかけるが、どれも師範の手に触れた瞬間、体が痙攣したようにピクッとなって、反り返り、倒されていく。まるで師範の手から高圧電流がながれているかのようだ。
今や、二人はまさに操り人形と化している。

さらに、師範は、一度に二人で掛かってくるよう指示を出した。
二人は同時に、師範の手をそれぞれ左右から掴んだ。すると、二人は、高圧電流にふれたように痙攣し、反り返って、つま先立ち状態になったと思ったら、そのまま絡め取られ、重なって押さえこまれてしまった。
「すげー」
と、また歓声が上がった。

『多分、実戦空手の猛者ですら、この演武を見たら驚嘆の声を上げるに違いない』
と、私は思った。それほど、この師範の演武には迫力があった。

師範は、絡め取った二人を起こすと、彼らと正座で向かい合い、終わりの礼を行った。
「ああ、もう終わりか」
と、ため息混じりの声が聞こえてきた。
その場にいた生徒たちは、演武の終わりとともに、それぞれ立ち上がり、道場内にばらばらと散っていった。

師範は、私の方へゆっくりと歩いてきた。
「どうです。これが本当の合気道の技です。最も進化した合気道です」
と、笑顔で言った。
「師範の技は、お世辞抜きで、本当にすごいと感じました。後は家でしばらく考えて、教えていただくかどう決めたいと思います。今日はどうもありがとうございました」
と、私は、師範に礼を言って、その道場を後にした。

私は、バイクを走らせながら考えていた。
『今日のような場合、あの師範が井口師範であったならどうするだろう?』
と、私は自問した。
『井口師範なら、体験者に直接掛かってくるように言うだろう。しかも、あっさりと一瞬で決着をつけてしまうだろう』
と、即座に私は自答した。

さらに、私は考えていた。
『多分、あれを見たら殆どの人はひどく感動するにちがいない。あの技に比べると、井口師範の技はとても地味だ。何故なら、最小限で動くからだ。相手を制する最適な一瞬の間合いを、井口師範は正確無比に捉え、制する。だから、周りから見ると、ゆっくり動いているように見える。だが、攻撃している側は、一瞬消えたように、井口師範の動きがとてつもなく速く感じられる。そこがあの師範と違う点だ』

私は、井口師範の動きを思い出しながら、今しがた見た師範の演武と比べていた。
『結局、あれは演武以外の何モノでもない。受けの協力があって初めて成り立つ技だ。とはいっても、あの師範に相当な技術が無ければできないのも事実だ』
私は、今日あの師範が言ったことを再度思い出していた。

『なるほど、今日あの師範が言ったことに嘘はないのだろう。だが、私の求めているものとは全然ちがう』
井口師範の技を経験している私は、あの師範の技の神秘さや迫力にはまったく心が動かなかった。むしろ、大げさなパフォーマンスにしか見えなかった。

『結局は、気を入れたパンチにビビることの方が大いに問題だ』
と、私はバイクを走らせながら心の中でつぶやいた。

あの技を見た瞬間、私は既に答えを出していたのだった。
『私は、あの師範の弟子にはなるつもりはない』と……。

空は、来るときとは打って変わって、太陽も青空もどんよりとしたダークグレーの雲に隠れ、昼前というのに、当たりは夕ぐれ前のように薄暗く、その中を私はバイクをアクセル全開にして飛ばしていた。