知っている者と知らざる者

本ブログも今年最後になってしまいました。このブログを読まれている方は、もう年末年始のお休みに入られた方が多いと思いますが、私は、年末年始の休みのない仕事をしていますので、普通通りすごしています。

それはさておき、知っている人と知らざる人では、物事の見え方が違うというお話しをさせていただきます。
ちなみに、知っているというのは、本質が見ているということです。
私は来年から、合気道の完成を目指しつつ、様々な分野のことをやっていきたいと思っています。ですから、来年の自分に対して、誤った判断をしないよう反省を促す意味でも書いておこうと思ったのです。

私たち人間は、物事を見るとき、大方は先入観というサングラスをして見てしまいます。そして、その先入観がときとして、大きな壁となって新しいことの習得を妨げます。要するに、先入観があると本質が見えないのです。ですから、本質が見えている人の見える世界と見えていない人の見える世界は全くちがうからです。

何事においても、熟知している人は、非常に簡単にその分野のことをやってのけます。さすが熟練技といいたくなりますが、実は、その熟練技にもノウハウがあり、その人にとっては簡単なのです。そして、そのノウハウこそ本質であり、それにいち早く気付いた人は、常識を超えたようなことをやってのけます。

そういう人から、本質であるノウハウを受け取ると、やはり常識を超えて短期間で飛躍的に進歩します。ただ、努力である程度の技術に上り詰めた人は、ある程度のノウハウは持っていますが、常識を超えるノウハウはもっていません。まだ、本質に気付いていないからです。

さらに、超一流の人に、自分のノウハウをより客観的に見つめ法則化している人が世の中にいます。そして、人に教えて、常識では考えられないほど飛躍的に進歩させています。

合気道の達人の井口師範は、確かに言葉では巧く伝える術は持っておられませんでしたが、本質が見えていた一人です。私というあまり運動神経のよくない不詳の弟子に対して、非常に熱心に丁寧に井口師範の持っているスキルを説明しようとしてくださいました。私はそれを中々受け取ることができず、師匠を悩ませ続けたとおもいますが、そのお陰をもちまして、日本中から私を訪ねてこられる人たちに満足していただけるだけの秘伝を授けていただくことができました。と、いいましても師匠の足元にも及びませんが……

何度もいいますが、私は、運動神経が格別いい方ではありません。しかし、私は、超一流の井口師範の秘伝を授けていただいたことで、運動神経の万能と思える人が10年、20年しても到達できないところいます。それどころか、半世紀以上も合気道をやっている人の技を見抜き、対処することができます。

何故なら、井口師範から教わった秘伝は、その方々の行う技よりも、まだ上だからです。
その証拠に、現在当会で個人指導を受けている合気道の高段者の方が、1年半ほどで、半世紀もやっている合気道の師範の技をすべて受け止められるようになっています。

「何だ。受け止めるだけか……」と、思われる人もおられるでしょうが、受け止めるというのは、師範がその人に対して、「どう倒そうか?」と、事前に対策を講じ考えてきた突然出される技に対処できるということです。そういう意味で受け止めるようになっているといったらどうでしょうか。

合気道をされている方はご存知の通り、合気道の師範の方が、初めての人に合気道を説明する際、
「ちょっと手首をつかんでみてください」とか、
「お腹を狙ってパンチを打ってきてください」
というように、注文をつけます。

当然、合気道が初めての人は合気道の技が分からないから、すぐに反応ができません。一方、相手の攻撃に注文をつけている師範の方は、それに対して万全の準備ができていますので、簡単に技を掛けることができます。その結果、「合気道、すげー」となるのですが、これが合気道の指導者の罠です。それでしたら、正直、合気道を半年やった人でもできます。

この方の師範も、突然、この方に声をかけて、自分の技を試すようなことをします。そんな場合、通常は、師範の方が勝つことがすでに決まっているのですが、それを受け止めることができるわけです。そして、師範は
「おー、呼吸力が強なったな」
と、いうそうです。まあ、多くいる弟子の中で一人ぐらいそんなのがいてもいいかということでしょう。しかし、師範は心の中ではきっと、『何故、こいつだけ、私の技がきかないのだ?」と思っているに違いないのです。

効かない理由は、もうお分かりと思いますが、この師範には、根本的な原理(本質)が見えていないのです。一方、師範の受けをしている当会で秘伝を学んだ合気道高段者の人には本質が見えているから、不利な状況でも対処ができるのです。

この方は、私に、
「先生について1年半以上で飛躍的に進歩しました。私の十何年はなんだったんだろう」
とおっしゃいました。でも、実は本質を知っているか知らないかだけなのです。ですから、もっと上の本質を知っている人には私はかなわないのです。

不詳な弟子の私に、一生懸命教えていただいた井口師範に感謝するとともに、わたしのような不肖な弟子をもったゆえに、すべてを教える前に、他界せざるを得なかった井口師範の無念さ、如何程のことだったでしょう。本当に申し訳なく思っています。

ですから、来年からは、さらなる本質をさがすため、頑張っていこうと思っています。ブログを読んでいただいた皆様、本年はどうもありがとうございました。皆様も目先のテクニックではなく、本質を求めて修業されることをお祈り申し上げます。いいお年をお迎えください。

骨の技術2(肩甲骨)

一般の合気道の道場ではあまりいわれない(と聞いています)ですが、井口師範は、「合気道の技を行うのに肩(肩甲骨)の位置が非常に大切」とおっしゃいました。

堂々と胸を張って構えていると、雄々しく強そうに見え、見ていてすがすがしく感じられます。ですから、そのように構えておられる合気道師範の方もYoutubeなど見ていますとときどきいらっしゃいます。

ところが、井口師範は、「肩を後ろにずらすのはよくない。背中が丸くなるのが良い」とおっしゃられました。前回でも述べましたが、首は曲げずまっすぐ伸び、背筋もまっすぐとして、肩甲骨を前にずらして丸めよということです。

肩甲骨の位置がどれだけ重要かというのは次の実験をしてみるとわかります。

①受けの両手を後ろからつかみます。
②領とをつかまれたまま、受けは、胸を張ったきれいな姿勢を取ります。
③取りは受けの両手を、斜め下後方に引っ張ります。
④受け逆らおうとしても、簡単に後ろに倒すことができます。

⑤次に、①と同じく受けの両手をつかみます。
⑥受けは、胸を凹ませるように肩甲骨の位置を前に滑らせます。
⑦取りは受けの両手を、③と同様に斜め下後方に引っ張ります。
⑧受けが逆らおうとすると、後方に倒すことができません。

このように肩甲骨の位置が後方にひかれていると、後方に対して非常に弱くなります。
実はこれは、隅落としの大事な原理にもなっているのです。

さらに、大切なのは相手を押すとき、肩甲骨から直接相手の接点まで棒がでているつもりで、その棒を肩甲骨で押すように力をいれるというのも非常に大切な意識の持ち方です。そうすることで、肩甲骨は後方にずれず、また、体の構造上、前面に力を伝えるのに非常に強くなるからです。

肩甲骨から押された場合、受けは非常に大きな力と感じ、
「恐ろしいちからですね」
と、受けにういわれることがよくあります。こちら(取りの方)は、殆ど力をいれた感覚はないので、その反応に驚きます。

一般の合気道では、
  力をいれない=力を感じずふわっと投げられた
と思っている人が多いから、そういう反応をするのです。呼吸力とタイミングの技との区別がつかないのですね。

さらに、井口師範の指導する合気道の場合、運動エネルギーがのってきますので、座り技呼吸法などの呼吸技では、『途方もない力で押された』という印象をもちます。まるで10トントラックと軽トラが押し合いするぐらいの極端な差を感じるものです。

これを腕力と考えると、合気道の上達は遠いものとなるのです。開祖・植芝盛平翁先生の技を受けた人達は、「まるで雲を相手にしているようだった」とか「鋼鉄(はがね)のようになって、跳ね返された』とか全く矛盾することを言っていますが、実は、開祖自身、そんなに力をいれているおつもりではなかったのです。

本ブログを読んでいる合気道をしている人で肩甲骨を意識した人はいないと思いますので、半信半疑だとは思いますし、実際自分で行っても、巧くいかないかもしれません。そこで、嘘ばかり書いていると思われるかもしれません。でも、できるにはできる理由があります。それがコツというものです。それがわからないとできない人にはできないのです。

やはり、できる人に教わらないと、勘所がわからないのです。私は若い時分からそんなに運動神経がいい方ではありませんでしたが、井口師範に教えを受けることで、私はできるようになりました。わかる人に教われば、運動神経など関係ないのです。もし興味があるようでしたら、当会にお越しください。

骨の技術1(首)

前に書いた「力を抜く」ことに関連することですが、当会で指導している基本の柱に、骨の技法とよんでいる技術があります。これは、骨格の構造を有効に利用する技術の総称を意味していますが、関節技を如何に効かせるかというものではありません。もっと根本的な体の使い方を意味するものです。

その一番大切なポイントは、「不要な力が抜けていること」と「構造上強いこと」の2点です。

で、今日はその基本になる首の話をします。そこで、一つ実験していただきたいことがあります。
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*実験1*
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今の状況で、思い切り力を体中に入れて、力で満たしてください。力が入る限り全力で行ってください。

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すると、体は力で満たされ、外部からの攻撃にはかなり耐えられる状況は作れたように感じますね。そこで、もう少し観察すると、大多数の人は、まず首をぐっと曲げ、力を入れ始めたと思います。人それぞれ若干の違いはありますが、概ね順番は、首、背中、肩、腕、お腹、下半身と入れていったのではないでしょうか。

では、もう一度、実験してください。
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*実験2*
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今度もまた同様に力を入れてみてください。ただし、その力を入れた状態で、「私はとても力強い」と言ってみてください。

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ほとんどの人は、詰まったような声をだしたのではないでしょうか? 力をいれると声ですらまともにでません。声を出すのに力は必要ありませんから、体に力が入ろうが、声には関係がないはずですが、自然な声がでません。

しかも、力をいれるのを止めても、何かのどに違和感が残るのを感じているのではありませんか? ということは、力みがまだ消えていないのですね。

そこで、力みをとってみましょう。まず、静かにゆっくりゆっくり息を吐き、そして吸う。できれば腹式呼吸の方がいいですが、無理して腹式呼吸を行おうとするとまた力むかもしれませんので、腹式呼吸を意識せず、普通にこの呼吸を行ってください。コツはできる限りゆっくりと苦しくない程度で行うことです。この呼吸をしばらく繰り返していると、徐々にのどの違和感が消えていくのを感じませんか? 

これら実験の結果からわかることは、体が力むと、体が緊張し、さらに心が緊張し、心が緊張すると体の緊張を解いてなお緊張が維持しつづけるということです。しかも、これは万人共通の原理です。

これから、様々な推測をすることができます。例えば、「人が、外敵に襲われたとき、動きを止めて、首や背中を曲げ、じっと筋肉に力をいれて我慢したときに、外部からの攻撃に対して耐えることができた種だけが、進化の段階で生き残ったため、DNAにこの動作が仕込まれているのではないだろうか。」などですが、その手の推測は、技術の実践を行う私たちには関係がありませんので、これ以上は述べません。

こうしたことから、筋肉の緊張を高め、じっと我慢すると、次の点でメリットがでます。
○体を石のように固くすることで、外圧につよくなる。
○心が筋肉の緊張に向かうことで、痛みを感じにくくなる。
○一度行うと、すぐには体が緩まないので、意識の限界が来てもなお緊張が続くので強い状況が維持する。

ところが、デメリットとしては
○攻撃をする際、筋肉の緊張は負荷になり、身体のパフォーマンスを極端に低減させる。
○素早い動きができない。
○心が外面に対して向かないので、外部の変化への対処が遅れる。

ということです。これからも十分お分かりいただけると思いますが、緊張があると、外部の攻撃には若干構造上強くなりますが、動けないという欠点がでます。これでは、武道として役にはたちません。

様々な武道では、この欠点を補おうとして様々な工夫がなされています。空手では「三戦(サンチン)」という型の稽古をします。これは呼吸を利用して、外部の攻撃に対して、非常に強い緊張を筋肉に起こすとともに、意識してすぐに緊張をとれるよう稽古をするもので、外部の攻撃は一瞬ですから、それに耐え、すぐに攻撃に移れるようにする
ものです。これにより、最大のパフォーマンスで、緊張し、弛緩するということが可能になります。

当会では合気道の秘伝技術を指導しておりますが、合気道ではどうかというと、どんなに筋肉をしめても、刀で切られれば終わりということから、筋肉をしめるということをやめ、パフォーマンスを最高に上げることに重点をおいています。合気道では、緊張をしないため、緊張が起こるプロセスと反対のことを行えと指導します。

そのため、緊張は首から起こるのであるから、首に緊張を起こさせないように、首の後ろを自然に伸ばし、背骨が上下に広がるように意識をもちます。このことを、井口師範は、「自分が一回りも二回りも大きくなったように思いなさい。そうすると、頭の天辺が点につながった感じがする。そしたら、天から気がながれてくるのを感じる」といわれました。ただ一回り、二回り大きくなったと想像すると、どうしても肩まわり中心に大きくなったと意識してしまい、逆に肩に力が入ってしまいますので、首の骨、背骨が伸び天まで達するというイメージが大切になってきます。

要するに、そういうイメージを持つと、首を縦に折らないで、首が伸び、首の後ろ側が上に伸びているようなイメージを常にもつことができます。実際は、首を曲げる方が、首の後ろが伸びるのですが、意識的に天を意識すると、首の後ろが伸びている感じがでます。これにより、いくら緊張しようとしても、首が曲がりませんので、背中に緊張がおこりません。背中に緊張が起こらなければ、肩に緊張がおこりません。結局、無駄な筋肉の緊張がおこらないわけです。それが、身体のパフォーマンスを最大に引き上げる第一段階なのです。

ですから、「首が緊張しない・させない」というのが、合気道だけでなく、あらゆる芸ごと、日常生活にも大切なことです。

次回は、肩甲骨の位置についてお話ししたいと思います。

塩田剛三師の技の井口師範の見解

今日、中国拳法の修行者の方の個人指導を行いました。
当然、中国拳法の指導ではありません。井口師範から学んだ合気道の指導です。今回は皮膚感覚の技術をかなり稽古しました。

その際、「井口師範の技はあまり呼吸力を必要としないのでは?」という疑問が出てきて、井口師範は塩田先生の技についてどう思われていたかという見解をお話しすることになりました。

井口師範の見解は、
「塩田さんは、呼吸力ばかり使って、気の流れが殆どない。呼吸力が優れているのは分かっている。そんなもん見世物やないんやから」
とおっしゃいました。

聞き方によれば、単に人を批判しているだけにしか聞こえないこもしれません。ただ、多くの人が抱く思いに、塩田師の技は、植芝盛平翁先生の技に比べ、かなり硬い印象があると思います。でも、井口師は、単に見た目を指摘しているのではなく、その奥にあるものを指摘しているのです。

井口師範はある時
「呼吸力は強ければ強いほどよい。活殺自在の呼吸力があるから、いつでも相手の命を握っておれるんや。だから、殺しに来た相手でも許せるという境地になれるんや。相手よりはるか上にいるから、許せるんや。それが合気道の愛というものや」
と、おっしゃいました。

小さな幼児が大人にかかっていっても本気になる大人はあまりいません。大抵は、手を使ってたしなめる程度です。それが小さな幼児に見せる愛な訳です。

また、
「合気道はあたかも蝶が舞う如く行わなあかん。蝶と言うても、いつでもどんな相手も殺せる呼吸力という刀をもっているんや。そから合気道は強いと言えるんや」
とおっしゃいました。

要するに、冒頭でお話しした井口師範の話は、絶対的な呼吸力だけが合気道のすべてではないということです。確かに一瞬で相手を崩す塩田師の恐るべき呼吸力は素晴らしいですが、井口師範は、それ表に出すものではなく、いつでも相手を破壊できる呼吸力を全開で出せる状態を保っていても一切出さず、相手とぶつからず、相手と和合するのが合気道であるといわれたのです。

この点を今回稽古を行ったのですが、中国拳法の修行者の方は、もしかすると、「合気道には、呼吸力って、意味ねーんじゃねえの?」と思われたのかもしれません。なんせ、中国拳法では、最後は相手を仕留めるというのが入っていますが、合気道(特に合気会)にはないですから、相手の命を奪えるほどの呼吸力を出す場面がないと考えるのも無理のないことです。

しかし、井口師範は常に実戦を想定されていたので、どんな相手でも一瞬で破壊してしまえる呼吸力は合気道には必要と考えていたようです。筋肉の化け物のような相手でも、圧倒的な呼吸力で、相手を制圧してしまえるのであれば、相手に臆することなく戦えます。それが井口師範の呼吸力でした。

ですから、塩田師の実力を低いといっているのではなく、演武に対する捕らえ方が、翁先生と違うというので、塩田師の演武は納得できないし、容認できないといわれたのです。

マスコミ関係者の中には、技の上で、塩田師は翁先生を超えたと考えている人がかなりいると聞きますが、「翁先生が本気で呼吸力を出しまくっていたら、塩田師どころの演武ではなくなる」というのが井口師範の見解です。

塩田師は、合気道の極意を「自分を殺しに来た相手と友達になること」と言われましたが、実際にそういう目にあったかどうかは分かりませんが、確かに圧倒的な呼吸力の強さを見せつけられたら相手はもう参ったというしかありません。塩田師にはその自信があったのでしょう。それが塩田師の演武に現れている気がします。

一方、翁先生や井口師範はどうであったかといいますと、技の中に、相手を優しく受け止め、相手と一体となり、柔らかな動きの中に、活殺自在があるというものです。これは技のすべての瞬間で、相手の命を握っており、どんな相手でも生かせてあげる慈悲の心を表現しているということです。

結局、塩田師も翁先生や井口師範も思想的には同じかもしれませんが、演武の仕方に大きな違いがあるのです。翁先生や井口師範は、合気道の愛(慈悲)の精神を演武に表現していたのです。その点を井口師範は指摘し、塩田師の技を認めることができなかったのです。

「力を抜く」意味2

今回はもう少し「力を抜く」の具体的な方法について書いていきたいと思います。

合気道の「力を抜く」に相当する言葉として、お隣の国の武術である中国拳法ではどうかというと、「放松」という言葉を用います。英語で表すとリラックス(relax)です。リラックスと言われ、「筋肉を一切わない」と勘違いする人はいませんね。

中国の武術では、硬気功法や武術気功法などといって、武術家は特に、積極的に筋肉を使っているような動作で気功法を行います。ただし、ウェイトトレーニングのようにある特定の筋肉を使うのではなく、ある動作に適した複数の筋肉を流れるように使います。

それを中国拳法では、「筋肉や腱に気を通す」といい、気のエネルギーですべてを動かすなどという発想ではないのです。筋肉や腱に気を通すことで強くするという発想です。そこでも大切なのがリラッスすることです。

中国拳法では、新興武術である合気道と違って、歴史が非常に長いので、かなりの年月をかけて身体に気を通しても、武器でやられたり、強い相手にかなわなかったりすることがあるのをわかっているので、大変現実主義の面があり、現実に沿った使い方のノウハウがあるようです。

しかし、日本語には「放松」や「リラックス」に相当する言葉がありません。ですから、「力を抜け」という表現になるのですが、これだと誤解が生じ、「力を抜く」ことについていろいろなことを言われる方がいるのです。ついには「筋肉を使うな」という極論にもなります。

リラックスといえば、適切なタイミングで適切な筋肉を使うことと言っても問題はありませんが、「力を抜け」といえば、適切なタイミングで適切に力を入れる発想がどうしてもかけてしまいます。

井口師範の指導する合気道では、「力を抜く」というと、「正しいタイミングで行うと、自分が思う半分よりずっと少ない力で、あたかも力を入れていないが如く感じる」ということで、決して“筋肉を使わない”ということではありません。

当会の技術に、皮膚感覚の秘伝というのがありますが、相手に軽く触れた状況を作り、相手の動向を探り、相手の動きに合わせて適切に力を入れたり、抜いたりして、相手を不利な体勢に持っていく技術です。相手と向かい合って、力を抜いて軽く触れるには、かなり心理的抵抗がありますが、それを行うと、非常に相手の動きがわかりやすくなります。
そして、手で感じた感覚に従って、力の抜き入れを行えば、思う他、相手をコントロールできます。これも力を抜く大きなメリットです。

ところで、読者の方の中には「相手の反応を待っているのであれば、相手が何も仕掛けなければ、技にならない場合もあるのでは?」と考えた方もいらっしゃると思いますが、井口師範の合気道には、自分の動きを相手の身体に伝え崩す骨の技術や皮膚の技術などの秘伝や、相手に心理的な圧力を加えて相手の動きを誘う空間感覚の秘伝があり、皮膚感覚の技術ができなければ、別の技術に移行します。

井口師範は、ご健在のころ「合気道の技は、毎回毎回違う。一期一会や。同じように見えても同じでない。それは、相手が変われば、何もかも違う。体格の違う相手に、大量生産みたいに規格通りの同じ動きで技が掛けられることはない。相手に合わせるから合気道っていうんや」と言われました。

要するに、力を思った半分以上もいらない方向というのは、時、人で変わるということなのです。そこに臨機応変さということが要求されるのですね。これは私にとっても大きな課題でもあります