「気とは?!」その18 熟練度と抽象度について

前回、私は「気のフェーズに合わせてする指導法を取っている」と述べました。

しかし、フェースブックの個別のメッセージで「“気”は宇宙エネルギーであって、“気”を分けて考えるのは邪道です。治療で使う気も、武道で使う気も同じです。あなたの考えは根本的に間違っている」との意見をまたまた別の方からいただきました。

要するに、合気道で気を指導するのに、状況などで分けて指導するのは良くないというご指摘です。

そのような考えの方もいらっしゃると思いますので、もう少し抽象度という点で説明を加えたいと思います。

例えば「超能力」という言葉があります。この能力を分けると、テレパシー、サイコキネシス、パイロキネシス、サイコメトリー、ヒーリング、透視能力、テレポーテーション、予知能力、エンパス、霊能力、…とかなり多くの分野に分けることができますね。

でも、これらを総括すると「超能力」という言葉になります。さらに、超能力と呼ばれるどれか一つの能力を持っていると「超能力者」と呼ばれます。

「じゃあ、全部超能力でいいじゃん」ということです。ところが、超能力者を見てみるとそれぞれ得意分野と不得意分野がありますよね。もしかしたらすべてをマスターした人がいるかもしれませんが、その人からすれば、「よし、テレパシーを使おう。テレパシーの使い方は、意識をこう集中して、そして…」などバカげたことだと思うはずです。ただ「遠くの人に呼びかければいいじゃないか」ですみます。

これはケイタイでも同じですね。ケイタイを初めて持った時は、「えっと、電話の掛け方はどうだったっけ。このアイコンを押して、それか……」というように一々手順を考えたと思います。

でも慣れてくると、様々な局面に合わせてスマホを使われるわけです。電話をするにしても、必要あればラインで電話したり、メッセンジャーで電話したり、電話回線を使った電話をしたりと、ほぼ無意識で電話しています。ついには熟練度があがると「同じ携帯じゃん! なんで分からないの?」ってなります。

このように熟練度があがると様々な細かい点もすべて一つにまとまってきて、「何事をするのも同じ~じゃん」となるのです。これが「抽象度が上がる」ということです。

人は、熟練度があがり高度化してくるほど思考自体の抽象度が高くなります。要するに一つのことですべてを包括できるようになってくるわけです。

以前、ブルース・リーが自分の武道をジークンドーと呼び始めたころ、武道に関係のない一般事象でも何事においても、「これはジークンドーだ」と同朋のダン・イノサントに話したといいます。ついにはジークンドー自体をコンセプトであると打ち出したと聞いています。

仏教でも、一休さんはカラスの鳴き声で悟りを啓いたという話しがありますが、「カラスの鳴き声で悟りを啓くって、どんな悟り? 何かかなりショボくね?」と思う人もいるでしょうが、カラスの鳴き声と宇宙の真理が結びつくということはかなり仏教に対して熟練しているということがわかります。

タオイズムでは、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」(『老子』第四十二章)と万物の始まりを説明します。また「還虚(虚に還る)」(『老子』第十六章「帰根復命」)といって上記を逆行して最終的に一の元である道(タオ)に戻ることを目標に修業しますが、まさしくこれに近いではありませんか?

このように熟練度があがると、1つがすべてを包括するという意識に立っていきます。

私は「気」についても同じことがいえると思うので、色んなアプローチから気の本質に至ろうとしている訳です。達人が気の本質に気付いたからと言って、本質だけ聞いて凡人がいきなりその本質にたどり着くことはないと私は考えています。

熟練度が上がった完成された人は「すべて気」といいますが、そのまねをしてもそこには到達できないのではないかと思っています。

やはり、その達人にしても、そこに至ったプロセスで、具体的におこなったことが沢山あるはずです。そういったプロセスを経て頂点に至りそこから眺めれば、確かに頂点に至る道はたくさんあるということに気づくのだろうけれども、かといってどんな行き方でもたどり着く訳ではありません。頂上に向かう正しいルートがあるはずで、少なくともそのルートを通らないといけないわけです。

例えば富士山に登るにしても様々なルートはありますが、知らなければ行きようがありません。さらに最速最短で富士山に上りたいのであれば、その経験者に道を教えてもらう必要があります。

一方、道は沢山あるからと、富士山のことも調べず自分勝手に富士山にのぼろうとすれば、樹海に迷ってしまうのがオチでしょう。

私は、初心者の段階で、いきなり達人の「気」の境地を教えるのは、地図すら示さず遠くから山をさしてあの山に登ればいいと教えるようなものだと考えます。

私は、井口師範が示して下さった「気」の本質というとんでもない高い山に登れるよう、遠くにその山が見えている初心という位置から私のが登っている現在の位置までに謂わば「舗装した道」を付けていこうと考えています。そんな訳で私は今の団体を興しているのです。

「気とは?!」その17 私が独自流派を立ち上げた理由

皆さんこんにちは!
お元気ですか? 私はめちゃ元気です。

さて、昨日の私のブログに対して、知人からご意見をいただきました。

それは、
“達人と言われている人達は、すべて一くくりで「気」といっている”
ということでした。

これはとてもありがたい意見と思いました。
何故なら、これは私が独自流派を立ち上げた理由がそこにあり、一番言いたかったことを端的に表してくれている言葉だからです。

そして、彼が言っていることは確かにその通りであり、全く正しいのです。しかし、私の言っていることも間違いでありません。

何が違うかというと、単なる抽象度の違い! ただそれだけです。

もう少し具体的にいうと、例えば、犬は動物です。「だから犬はもう動物でいいじゃん!」というとどうでしょうか?
そうなると猫も動物ですから、犬も猫も区別がつかなくなります。

もっと抽象度を上げると、「生物でいいじゃん」となると細菌も生物です。もうそこまでいったら訳がわからなくなりませんか?

これと同じように、達人になってくると抽象度がかなりあがり、すべて「気」ですむことになります。

しかし「気」では、一般の人が学ぶには、かなり抽象度が高いと私は考えます。ですから、「気」の抽象度を下げるためにそのフェーズで指導をすることにしている訳です。

一般的に合気道では、「気」の概念で教えていますが、私はこれでは、小学生に算数を教えるのに、同じ数学の括りだとして、足し算より先に微分や積分を教えるようなものだと考えます。

数学の専門家、いわゆる数学の達人は、足し算だろうが、微分積分だろうが、どれも数学の一分野として納得できますが、足し算を始めたばかりの子供にいきなり微分や積分を教えても理解できません。

確かに、子供は言葉を修得したように、微分・積分の問題を何度も教えている間に足算・引算の概念から、掛け算・割算、さらには関数の概念が分かる子供も現れるか可能性もあるとは思います。しかし、多分、その抽象的な数学の概念を修得できるのは生まれついた天才だけじゃないでしょうか?

だから、初心者には抽象度を下げて教えてあげる必要があると私は考えます。しかし、現状の合気道はひとくくりにした「気」を教えることになっているて、しかも具体的に教えるのは一部の弟子だけという話も聞こえています。

それでは、大多数の人はに修得が難しいのではないかと考え、私は自分独自の武道を立ち上げたわけです。