井口師範は、「合気道の技は体だけではあかん。それから、心だけでもあかん。心と体が合って初めて合気道の技になるんや。霊主体従ということや」とおっしゃられました。
合気道では、技を行う際、心と気と体を考えます。多くの日本人は、多分『なるほど』と分かったように聞いてしまうのではないでしょうか?
でも、気といわれると、殆どの人があいまいで、よく分からないものではないでしょうか? わかっているという人に聞いても、万能のエネルギーで、物体を破壊することもできれば、病気を治すこともできる不思議なエネルギーとまったく意味不明なことをいわれることもあり、また、気とは心の状態といわれる人もおられ、結局何なのかよくわからないものになると思います。
そこで、井口師範の話をさせていただきますと、井口師範は、「心でよく気を制御し、気と体と調和して動かなければ技にならない。技にするには気の流れに乗って体が動かなあかんのや」といわれました。
つまり、井口師範によれば、まず心が動き、次に気が動き、最後に体が動くという順番で、技が行われるということです。前回まで当身の話をしていましたので、一般的なパンチの出し方をもう一度考えて見ましょう。
攻撃者が、先ず、パンチを出そうと心で思います。次に、攻撃箇所に気を出し、最後に肉体の一部であるパンチを攻撃箇所に叩きつけます。
これが普通です。ですから、このように心が動けば、気が出ます。そして、実は、気は一瞬で山の上でも飛んでいきます。遠くの山で何か煙が昇っていたら、すぐに煙のほうに気とび、そして、山火事であることに気づいたりするわけです。
ですが、井口師範は、「気をむやみに飛ばしたらあかん」と注意されました。「気は体を導くもの、気によって体を導かなあかん。気と体を分離したらあかんのや。それが自然ということや」といわれました。
もう少し分かり易く説明しますと、物を拾う場合を例にとりますと、目の前に自分のサイフが落ちていれば、あっと思ったらもう拾っていると思います。その拾い方には、何の無駄の力も入っていません。ところが、カルタ取りのようなゲームを行うと、殆どの人は、いかにも「用意!」の掛け声でスタートするように緊張して、手を引いてすぐに手がでるように用意をします。そして、探したカルタに向けて、誰の目からも分かるように、その人の気を出します。その動作は、前者のサイフを拾う動作に比べると不自然そのものになります。
合気道における自然な動きというのは、この様に出そうと思って出すのではなく、自然と出るというの動きを目指すのです。そのためには、「気をむやみに飛ばすな」と気を出すことを井口師範は否定し、心・気・体の一致が自然な動きには大切と教えたのです。