「当会の技術について」カテゴリーアーカイブ

「気とは?!」その4 自身の気を扱う

師匠である井口師範から教わった技術では、自身の気の扱う重要ポイントは3つあります
 ①気の流れ
 ②呼吸力
 ③螺旋形
です。

合気道の技を行う上で、「気の流れ」が最も重要だと師匠の井口師範はおっしゃいました。「気の流れ」というのは、滞りなく身体が流れるように動き、身体の内部に気の流れを感じることです。そして、大切なポイントはこの「気の流れる」感覚を切らないことです。「止まれば気は滞る」と言われました。

呼吸力というのは、心身を統一したときに出る力で、単に腕の筋力と異なり、全身が一体となって出る力をいいます。一部の合気道修行者はこれを誤解している人がいます。「息をハーと吐け」とか指導されますが、息を吐くときにでる力とは違います。

人は意識レベルを変えることで、現状のままの身体で、かなり効率よく身体を強くすることができます。さらに、それを鍛えていくことでもっと大きな力が得られるといいます。言い方を変えれば、呼吸力とは各身体の部位が協力して最高の力を出せるようにしたときにでる力です。この呼吸力をだしていると、体に不思議な流れが感じますが、これが気が流れた状態ということです。

最期は螺旋形です。合気道のすべての動きが螺旋形である必要があると師匠はいいました。相手に気を伝えるためには、気をらせん状に相手に流し込むと必要があると言われていました。

以上の3つのポイントを意識して、技を行うことで、相手を巻き込んでいくような強い気が身体に流れ、技を強力にすると教えられました。、

「気とは?!」その3

前の記事では「気は誰でも使っている」が、合気道では「気を扱う技術を稽古する」と話しました。

この記事では、井口師範が指導した実際に合気道ではどのように「気」を扱うかという点を書いていきます。

井口師範の合気道では、以下の点を意識するように教えられました。
 ●自身の気の使い方
 ●相手の気の使い方

相手が必要な武道では、相手を無視して存在できませんし、自分を無視して存在できません。当然ですが、どちらの側面も必要になります。

自身の気の使い方では、は肉体上における感覚を重視し、構造的に身体を強く使う技術です。また、相手の気の使い方というのは、相手の意識をコントロールする技術になります。

ですから、自身の気の使い方で、身体が安定していて力(気)が流れる感覚を自分の中に持ち、相手の気の使い方では、相手を観察することで相手の意識(気)がどこにあるかを判断して相手よりもより相手の気を理解することで相手を導くということを稽古するわけです。

こういった意識が合気道の稽古には必要と師匠は常日ごろから言われておりました。

次回は、今回の内容をもう少し踏み込んで書いていきたいと思います。

「気とは?!」その2

昨日、書いた私のブログを読まれた方で、井口師範が言われたかったことがお分かりになった人はいらっしゃるでしょうか?

井口師範は「気は誰でも使っている」ということを言いたかったと答えた人がいらっしゃったら、流石です!

井口師範は、私が攻撃しようと出した「気」を察知し、絶妙なタイミングで私が吹き飛ぶように、その「気」を躱したのです。(実は秘伝にあたるので詳細はいえませんが、この表現には微妙な誤りがあり、合気道のこの辺の気のやり取りに詳しい人が読むと本当に分かっているのかと思われるでしょうから一言添えておきます)

「気は誰でも使っている」ので「気」とはそんなに特別なものではないということです。

では、特別でないなら「何故わざわざ合気道では『気』を重んじるのか?」という疑問がでてきます。

簡単にいうと、井口師範によれば、元々の合気道では誰でもつかっている「気」とどう付き合うかを稽古する武術だからです。言い方を変えると「『気】の特徴を如何に利用して技を仕掛けるか?」を稽古する武術ということです。

そこが分かれば、「なるほど、体格、体力、性別、年齢はそれほど関係がない」とわかります。
ですから、そこを意識して稽古しないと、只の運動にしかならないということです。

現在の合気道の状況を見てみますと、演武に重点を置いて、如何にきれいに形を魅せるかという点に皆さんが意識して技を稽古するのが中心だと思います。ですから取り(技を仕掛ける側)も受け(技を受ける側)も互いに協力して美しく魅せる演武を行っています。

この様に「気」と如何に付き合うかとう点を差し置いた綺麗な形を目指して稽古していても、体格、体力、年齢など超えられるものではありません。

別に私はこの傾向を悪い事といっているつもりも、批判しているつもりもありません。健康のために合気道をしている人を批判するつもりもありません。それどころか袴をはいてきれいな演武している若い女性を見るととても素敵だとは思います。ダンスや運動としてするという選択肢も合気道にはあるということで、選択肢が多いほど様々な人が楽しめるのでそれはそれでいいと思います。

ただ、実際に対処したり、他の武道と対戦できるのは別です。そして、他の武道の稽古の方がかなり「気」をつかっているという現実を把握しておく必要があると思います。

合気道をしている人を多くの他の武道の人はかなり馬鹿にしている現実があります。
「合気道には達人と呼ばれる人は確かに存在するが、それは何万人に一人で、後はクズ」とまでいう人たちもいます。

それは、
合気道修行者は
「空手や拳法、ボクシングなどのパンチは単なる点にすぎないから、その点をさければ対処は簡単」とよくいいますが、そういう合気道修行者と、他の武道経験者が、相手したら「全く話にならない」という経験よくするからです。現状の取りと受けが協力して綺麗に魅せる合気道の稽古では連打やコンビネーションの対策はできません。要するに「点も沢山集まれば、線にも、面にもなる」ということです。これが現実です。

また、現実は、演武のように技を受ける側が掛ける側の技を協力してくれることはなく、むしろ相手はかからないよう逆らってくるということです。

実話ですが、合気道五段の女性の話です。自分は無茶苦茶強いと思っていたある時、日ごろ運動をしていないご主人に手首を思い切りつかまれ、何もできなかったという経験をして合気道の裏切られたと感じ去っていた女性がいます。

彼女は何十年もかかって五段になったのでしょうが、素人のご主人に本気で手を捕せたら何もできなかったことで初めて自分の技がきかないことが分かったわけです。合気道を信じて何十年も稽古をして、その何十年が無駄だったと去っていくというのはあまりにも悲しすぎます。

護身術で合気道をやっているつもりの人には非常に酷なことをお伝えしましたが、合気道を何十年も頑張っても、本当に気が分かる師匠に学ばないと、合気道をやっているだけでは、男女の体力差まではうめることができないのが現実です。

合気道をやっているから「気」のパワーが強いはずじゃなく、「気」を扱うにはそういう技術があるということを理解して稽古する必要があるのではないでしょうか。ですから、現実を知らずに他の武道を批判するようなこと、合気道は気の稽古をしているから他の武道より優れているという考えは全く的を外しているという他ありません。

【気とは?!】その1

私は、誰でもできる護身術というものを提唱しておりますが、この護身術は「気」を利用する方法も教えます。

しかし当会で教える「気」というのは一般にいわれるような習得が難しい「気」ではありません。実際使えるもので、かなり科学的に踏み込んだ「気」の扱い方を教えています。

といっても、この「気」の使い方が分かると、遠当ての術といわれるように離れたところから「気」を当てるということも可能になります。でも誤解していただきたくないのは、一般に言われている「気」とは少しちがいます。その具体的な方法については秘伝でいえませんので、ヒントになることを伝えていければと思います。

「気」というと、一般的には、宇宙の神秘エネルギーとか言われることが多く、「気」をマスターした人は、空を飛んだり、不老不死を実現したり、人を飛ばしたり、投げたりと自由自在になれると考えられています。また気を集めればドラゴンボールのかめはめ波のようなこともできるともいう人もいます。

ところが、合気道を創始した気の達人・植芝盛平翁先生も、映像見る限りやはり老人であり不老不死を実現したようには見えません。また、実際に空を飛んでいる生きた人を見たこともありません。やっぱり、実際は上記のようなものとはかなり違いがあるのではないのかと私は考え、以前にも書いたエピソードですが、私の師匠である井口師範に以前に「気とはなんですか?」とたずねたことがあります。

そのとき、「木剣で後ろから打ってきなさい」と言われ、後ろから木剣を打っていくと、突然私は空中を舞い、受け身を取って地面に着地しました。

「これが気や! わかったか!」
と、井口師範はおっしゃいました。

当時は、井口師範が気を使って私を投げ飛ばしたと考えました。
しかし、それなら後ろから攻撃させる意図が私にはわかりませんでした。

ではここで質問します。
ここまでお読みの方は井口師範が何を言われたかったのかお分かりになるでしょうか?

ここに合気道における「気」の考え方のヒントがあります。また、それが分かると、素人でも、映像で気を使って投げたりしている人たちが何故そういうことができるのかがわかりますし、偽物と本物の区別もつくと思います。かなり秘伝なので具体的には公のブログでは踏み込めませんが、非常に科学的な理由が井口師範の秘伝にあります。
この続きは明日お話しします

【呼吸力とはどのような力なのか?】その2

前回は、井口師範からお教えいただいた呼吸力は、一般に広がっている呼吸力の考え方と全く異なると述べました。

では実際、井口師範のおっしゃる呼吸力とは一体どんな力か?

「適切な体の使い方により、その人が持っている能力を最大限に引き出し、最も効率よく力をつかうこと」と言えると思います。

合気道の達人と名高い方々も、井口師範と似た見解を持たれている方がいらっしゃいますが、実戦で有名なある師範は、統一体と呼びました。また別の世界的に著名な師範は集中力と呼びました。

このように、呼吸力を体でもって示す師範たちは、筋肉を使わないとは一言もいってはいないのです。

さらに、井口師範の呼吸力を受けた印象ですが、感触には概ね2つのパターンがあります。人により感じ方が異なります。
①フワッと弾き飛ばされたように感じる人
②恐ろしく強い力で弾き飛ばされたように感じる人

そして、井口師範から教わった呼吸力は、
取り(呼吸力を出す側の人)の感触は、
「脱力感があり、腕や肩に力が入った気がしない」
です。

【呼吸力とはどんな力なのか?】その1

先日から、合気道において、実戦では殆どありえない手首を持たれた状況からの技の稽古を何故行うのかという点についてお話ししました。

その最も大きな理由として【呼吸力の養成】があげられると述べました。

しかし、【呼吸力】といわれてもあまりピンとこないと思います。また、師範レベルの人でもわかっていない人が多いと井口師範は日ごろからいわれていました。

まず、今日は、一般の合気道をされている方がいう【呼吸力】と井口師範から教わった【呼吸力】との間に定義の開きがあるので、井口師範が【誤解】として言っておられた点をあげさせていただきます。

呼吸力とは気のパワーを使ったもので、身体を強健にすることも、病気を治すことも、不老不死にもなれるし、人を破壊することも、殺すこともできる万能のエネルギーというものがあります。

しかし、非常に残念な話ですが、気の最高の状態をつかまれた合気道の開祖もお亡くなりになっておられることから、不老不死は無理であり、治らない病気もあるということです。

気を使うことで様々なことが実現する事実は私もみとめますが、物理の法則を破るようなことは不可能と私は考えています。

そういった実際面の壁を理解したうえで、呼吸力を養成することが大切と私は考えています。

【手首をつかまれるのが何故合気道では重要なのか?】その3

前回の続きです。井口師範は、実戦上意味を持たない手首をつかまれる稽古が何故合気道に必要と言われたのかをもう少し詳しく説明します。

井口師範からお教えいただいたその意義の中で最も大きな理由としてあげられるのが、合気道独特の力の出し方(呼吸力)を鍛えるためであるということです。

では何故、呼吸力の稽古が最もしやすいのかということですが、それは相手との接触時間が非常に長いことがあげられます。

そして、接触時間が長いことで、どんな特徴があるかというと
①相手の微妙な力の変化が分かため、相手の意図が読みやすい
②逆にこちらの力の変化が伝わりやすく意図が相手に読まれやすい

このように接触時間が長いと、相手の意図が読めるが、相手にこちらの意図が伝わりやすいという長所がそのまま欠点となる両刃の剣となります。

そこで学べることは、こちらの意図通り相手を導くことができるかという技術を磨くのに非常に都合がいいということです。

実は相手を導くには、こちらの意図が読まれてはいけないのです。ですから、相手にこちらの意図が伝わりやすい状況で、如何にこちらの意図が相手に読まれないかというスキルが非常に大切になります。要するにどう情報を遮断するかという問題です。

この情報遮断の技術は数種類ありますが、秘伝ですので、そのスキルはブログ上では説明いたしませんが、知ってしまえば「何だそんなことか」と思われることかもしれません。

でも、情報遮断ということをキーワードに一度研究されてはどうでしょうか?

【手首をつかまれるのが何故合気道では重要なのか?】その2

実は、井口師範ご存命のころ、私は井口師範の送り迎えを車でしていました。ですから、井口先生とマンツーマンでお話しできる機会がかなりありました。
井口師範は特に合気道の話は大好きで、喜んで疑問なんかに答えてくださいました。

稽古が終わったあと、井口師範をお送りするため、対向車一台すら通らない夜の真っ暗な田舎道をヘッドライトの明かりを頼りに走る車を私は運転をしながら、井口師範に疑問をぶつけてみました。
「合気道ではどうして手首を持つのが基本になるのでしょうか?」
と、少し遠慮気味にお伺いしました。

すると、
「それは、稽古やからや。普通の闘いで手首なんか取りに来るモンおれへん。何でかわかるか?」
と逆に聞きたかったことを質問で返されてしまい、一瞬戸惑いました。

私は
「殴った方が早いからですか?」
と、伺うと、
「ちゃう、ちゃう。そんなこと聞いてへん。手首取りにいく話や。手首って手の先端。だから闘いの時は一番速よ動くんや。だから取りにくい。そやから、手首とるより、襟元とか袖口とか掴みにいったほうが確実や。そしたら投げられるんや。柔道がそうやろ? だから手首のようなところ取りに行く奴おらへんのや。わかるね?」
とおっしゃいました。

「はい」
と、私が答えると、
「そやのにな、何故そんな稽古するんや? っていうことや。わかるか?」
師匠自ら、『手首は取るのは困難!』と宣言され、
『あえて手首を取られたときの稽古をする』と、
その矛盾点と必要性を指摘されたのでした。

「いいえ、全く分からないのです。そこが以前から不思議だったのです」
と私が答えると、
「馬鹿もん! そんなこともわからんと稽古しとったのか?……」
と声を荒げ、師範は目をむいてじっと私の顔を睨んでいした。

『あっ、まずいことを言ってしまった』
と、私が思った瞬間、
師範は、にっこりとほほ笑んで、
「と、いいたいところやけど、わからんやろなぁ。それはな。話は簡単、手首を持ってもらうのが、一番稽古しやすいからや」
とおっしゃいました。

井口師範のお話しはまだ続きますが今日はここまでとします。

【手首をつかまれるのが何故合気道では重要なのか?】その1

ずっと以前の話です。私の合気道が全く使い物になっていなかったころです。私はずっと一つの疑問に持っていました。

この疑問は結局自分では解決できず、井口師範にお伺いをして初めて理解できたことですが、その疑問とは、
『一般の闘いの場では、殆どありえないと思われる想定での稽古』についてです。

具体的にいうと
『相手が自分の手首を持ちに来た場合の対処方法の稽古を徹底的にすること』
です。

ご存知の方の方が多いと思いますが、合気道では投げ・抑え技など技を掛ける側が「取り」で、かかる側を『受け』という役割を決めて形稽古をします。

問題なのは、この『受け』が相手の手を取りに行く動作です。隙だらけの体勢で無防備に相手の手首を握るというところから始まります。

闘いの場においてこんな状況は殆どないと思います。あるとすれば、唯一、己より弱い相手を無理やり自分の方に引き寄せるときぐらいです。

例えば、酔っ払いが、若い女性に無理やり酒をつがせるような場合とか、不審者が女・子供を連行しようとする場合とかです。

そういった面では、女性や子供はある程度対処できる必要性のあるのは認めますが、それを徹底的に稽古する意味がわかりませんでした。

しかも、
『そこから投げや固め技に持っていく必要が本当にあるのか? 手首を外して、すぐに逃げるか、目潰しや金的攻撃などの急所への攻撃の方がよっぽど実用的では?』
という疑問も残っていました。

そこで、何人かの師範や師範代の方にお伺いしたところ、概ね2つの回答を頂きました
①『疑問を持たず素直に稽古しておればその内分かる』
②『昔は刀をもっていたので、刀を抜かせないために手首を持って防いだ』

①に関しては、指導者の指導に一々疑問をもつなというのはかなり乱暴に聞こえますから、私は論外に思いました。

また、②に関しては、よくよく考えてみると、すぐに切れない離れた距離にある状態から、わざわざ刀を抜かせないために相手の間合いの中に入って、手首を持ちに行くというのは非常に危険なことに思われました。タイミングが少しでもずれれば一刀両断されてしまいます。

そうなると、武士が手首をつかみに来るにはそれ相応の技術というのがあるはずです。

しかし、一般の稽古ではそういった想定はなく、ただ漠然と隙だらけで相手の手首を掴むだけです。

『こんな状況ってホンマありえへん」
と、私は思いましたが、折角、親切に説明してくださっている師範の方にそれ以上お伺いするのは失礼と思い、疑問をぶつけるのを失念しました。

読者の方々の中には合気道をされている方もいらっしゃると思いますので、何故手首を持つということが必要になるのかもう一度考えていただきたく思います。井口師範の回答が気になる方もいらっしゃるかもしれませんが、今回は控えさせていただきます。次回に井口師範の答えをあげさせていただきます。

【脱力について4 脱力とは合わせる技術】

これまで、脱力について書いてきたんですが、まだ今一つわかっていないという感想を持たれていると人が多いのではないかと思います。

それは、間違ったイメージがあらかじめ頭の中にあるからです。ですから、そのイメージをもって「力を抜く」ということをやっているのは、赤い色メガネをかけて緑を見るようなもので、どんなに目を凝らしても、黒く見えても緑には見えません。「何だ黒じゃん!」となる訳です。だから、必死になっても緑は分からないのです。

実は、という私も間違ったイメージを持ったクチでしたので、初めて井口師範の技を受けたとき、井口師範の繰り出し技は何と力強いと感じたものです。パワーが違うと思ったわけです。

私は、力を抜くというのは、取り(攻める役)も受け(受ける役)も柔らかいものだと思っていましたので、初めは何か違うと感じたモノでした。

しかし、師範は、「話は簡単! 力を抜いて合わせればいいだけ」と言われていましたので、全く理解ができませんでした。

確かに、フワッとした感じで投げられる技術もありますが、これは受けの状態を崩して行っているもので、技法の一つにしかすぎず、力を抜けばすべてそのようになるというものではありません。

そこで、脱力について理解を助けるために、もう少し「ぶつかる」ということについて述べていきたいと思います。

相手と「ぶつかる」という現象は、言い方を変えると、相手の力と自分の力が拮抗しているという状況です。

相手の力と自分の力が拮抗するというのは、相手も自分もある一定の方向に力をいれていてお互い反発しあっている状況ということです。

人間の力というのは、生理学的に考えると、一方方向に力をいれていると、いきなり他の方向には力がはいらなくなっています。これは当然のことで、ある方向に力をかけていて、急きょ別の方向に力をかけると、骨や関節に負担がかかるから、それを避けるようになっているそうです。

この事実を知っていると、「関節に負担を掛けない状態をつくれば、筋肉は使えるようになる。」ということがわかります。要するに脱力できないと力がでないということですが、単に脱力すれば相手の力に圧倒されてしまいます。

ここまでくると、「どう脱力するか?」がカギになるというのがお分かりいただけると思います。

その「相手に圧倒されず、どう脱力するか?」が、「合わせ」の技術です。

「力を抜け」というのはこの「合わせをしろ」ということであり、「力をぶつかりを回避する」ということですが、それは単純なものではなく、単に力を抜いただけでは相手に圧倒されます。

当会では、「合わせ」については、骨の技術の合わせ、皮膚の技術の合わせ、皮膚感覚の技術の合わせ、空間感覚の技術の合わせと4つの技法があり、状況によってそれぞれの適正があり、正しく使うのにちゃんと本質を分かっている必要があります。