【合気とは愛】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今回のテーマは「合気とは愛」という意味がわからないような合気道開祖のお言葉について井口師範から教わったことを書いていきたいと思います。


合気とは愛なり

 

合気道では合わせることを専門的には「合気」といいます。

合気道の開祖・植芝盛平翁先生は「合気とは愛なり」と言われています。

「愛」と言えば、つい男女間の愛情のことを考えてしまいますが、愛にも、様々なレベルがあり、自己的な愛から始まって、周りの他を思いやる愛、そして人類全体に対する愛、ついには宇宙全体に対する愛と様々です。

ただ、凡人には、宇宙的な愛ともなると全く見当がつきません。

翁先生のお言葉は宇宙的愛だというのはわかると思いますが、それが何故そうなるのか?。

一般に、愛というのは相手を全面的にうけいれるところから始まっています。

どんなに極道な子どもでも、母親ならその子が亡くなると悲しみます。

その母親は、その子を全面的に受け入れているから、愛するという感情が起こるのです。

ですから、愛というのは、全面的に受け入れたときに起こる感情なわけです。

ところが、「合気とは愛なり」というのは、合気というのは技法であると思われることが、何故感情を示す「愛」となるのか?が余計わからなくなる言葉でもあります。


感情が行動の源

 

「分かっちゃいるけど、やめられない」とかなり古いですがそんな歌がありました。

これはズバリ人間の真理をついている言葉だと思います。

頭で考えて分かっているのに、何故か行動にだせないという人間行動の原理がズバリ述べられているのではないでしょうか。

見方を変えると、心理学の原理もさしていて、人間の行動は、思考だけでは動かず、感情が伴って初めて起こるのだということです。

そこで、「合気とは愛なり」という言葉ですが、合気は思考ではなく、感情にまで持ってくる必要があると説かれている訳です。

そこで、神(宇宙全体)の愛を信じることで、自分が神の分け御霊であり、神に守られている自分の可能性を信じ、自分の尊さを信じることで、技が無限であると感じることができるわけです。

相手を全面的に受け入れるということは、自分の可能性を信じ受け入れることに他ならないわけです。

ですから、合気とは、単なる技法の枠にとらわれず、自分自身の無限の可能性を信じ、相手を前面的に受け入れることに他ならないのです。

そうすることで、無意識からでる行動が自然と起こり、無限に様々な技法が出てくるわけです。

要するに合気とは単なる技法の枠を飛び出したもっと大きなものということでした。

これが井口師範から教わった「合気とは愛なり」という解釈です。


 

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