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健康護身術を指導している橋本実です。

【 合気道の和と差の話】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、合気道は和合の武道と言われます。ですから合気道で和を重んじます。

今回は合気道の和と差の話を述べたいと思います。


和と差

和と差といえば、算数を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?

算数では和も差も計算としてはどちらも算数の基礎で非常に大切です。

ところが、合気道的な見方をすれば、和こそが合気道の至高の目的ということになります。

和というのは、早い話が足し算ですが、意味としては全てを一つにして合わせるということです。

一方、差は、違う点に注目してその違いを抽出することです。

要するに、和は無差別にすべてを受け入れ全体として見ることで、差は違いに注目して優劣を付け区別することを表すわします。

そうすると、和と差の違いは単にフォーカスの違いだということが分かります。

ですから、差は、自分と他者を区別するだけでなく、他者と他者も区別し、共に比べて優劣をつける訳です。

また、差は善悪も生みます。善悪というのは、絶対的なものではなくその時代のその環境によって異なります。

このようにフォーカスが差にあるとき、必ず対立が生まれるわけです。

一方、フォーカスが和にあれば、和は差別なくすべてを一つに受け入れることになります。

また、和というのは、全て平均するということではなく、個性のままそのまま受け入れるということを示しています。

例えば、宇宙は悪人だから宇宙から放り出すということはありません。宇宙を考えたとき、善も悪も存在するものすべてを受け入れます。

だから、宇宙的視点に立つ合気道では、技術の面でも対立せずに合わせを行うわけです。


本当に差は悪いか?

さらに、思考という点にフォーカスした場合、差というのは、違いにフォーカスする点から より違り細かい違いを 比べることにより、物事を分析するという意味がでてきます。

そういった意味からは、差というのは抽象度を下げるという意味では非常に大切な考えです。

特に、技が未熟な内は、より抽象度を下げて考える必要があると僕は考えています。ですから、抽象度という点からはより低くなり、逆に和は抽象度が髙くなります。

そのため、合気道を極めた達人では、「氣」という概念一つで、全て事足りるということになります。

ところが、レベルの低い僕たち凡人は、差から始める必要があるのです。

そのため、個々の技を分析し、その差を知り、より多くの差に接することで、技をドンドンと統合して抽象度を上げていく必要があります。

ですから、合気道でも、物理的技法も大切にし、その上で精神性を尊ぶわけで、武道として使えなければ意味がありません。

精神性だけをいうのなら、宗教を純粋に修業すればいいのです。


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【我を出さないとは?】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今回は合気道で我を出さないというのはどういうことを言うのかについて述べたいと思います。

我の対義語は?

国語では「我」の対義語は「彼」だと教えられますが、合気道的にはそうではありません。

では、少し考えてみてください。合気道的には「我」の対義語はなんでしょうか?

師匠がまだ生きておられたとき、僕は師匠にときどき「技で我(が)を出してはダメだ」「自分勝手な技はいけない」と言われました。

師匠の指示に忠実にやろうとしていた僕にとっては厳しいお言葉に聞えました。

当初は何故そのようにいわれるかなかなかわかりませんでした。

ある時、師匠は「我(が)の反対語は何かわかるか?」と僕にお尋ねになりました。

僕が「他者ですか?」と答えると、「いいや、自然や」と言われました。

合気道では予め「ああしよう、こうしよう」と考えて技を出すことを「我を出す」といい、「我が強い」と指摘されます。

合気道では、自分も相手も自然に感じるように技を出す必要があるのです。

そして技が自然に感じるためには、力のぶつかりや対立があってはいけないということでした。

井口師範は「ぶつかりや対立は相手を敵に回すこと、周りと合わせられたら、自然と相手が自分の思うように動くもんや。それは、人だけでなく、宇宙全てがそうなってるさかい、自然が我の反対語や」 と言われたのでした。

合気道の前提は和合!

他の武道や格闘技の殆どは「相手に如何に挫くか?」を考え、それに基づいて戦略、戦術を練ります。

そのため、相手に気合負けしないようしっかり睨み、自分は隙を作らず、相手の隙を如何に作るかを考え、相手の弱点を狙おうとします。

この様に「相手をああしようこうしよう」と最初に考えて動くのは前提が「対立」にあるからです。

一方、合気道の前提は、相手を受け入れるところから入ります。

とは言っても、受け入れるのは、相手が急所に打撃を加えてもじっと我慢して殴られておくということではありませんし、短刀や刀で切ってきたら、切られてしまうということでもありません。

受け入れると言うのは、飽くまでも気のレベルで話です。

ですから、合気道といって「気に合わせる道」というわけです。

そして、 「我」と「自然」という対立を無くし、自然すなわち全宇宙と合気ができることこそ合気道の最大の目的であり、理想なのです。

これは技の段階(物理)から出発し、技から対立を無くすことで、心の対立をなくし、それを相手を人への適用から自分を取り囲む自然すべて、要するに宇宙への適用と拡大していくことを目指しているわけです。

だからこそ、武道から「世界平和」という発想が生まれるわけです。


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【日本人の誇りと合気道精神】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今回は日本人というものにフォーカスしたいと思います。


学校で学んだ日本の古代史はウソ?!

 

最近、経済研究家の三橋貴明氏に興味をもっていて、本を読んだり、映像を見たりしているのですが、彼の理論は、ちゃんとした統計資料や科学的資料によって説明されるため非常に納得いきます。

その中であったのが、「学校教育の日本の古代史がウソ」という話です。

ちなみに、日本の歴史の教科書では、日本人の祖先は朝鮮半島から移住してきた渡来人であり、元々は朝鮮民族であるということになっています。

ところが、最新の遺伝子の研究から、遺伝子は中国人や朝鮮人と似ておらず、しかも世界で日本人の独自の配列があることが判明しています。

このことは、遺伝子が変化する前の現アジア人から、中国人や朝鮮人へと変化したように、現アジア人から日本人へと変化したということが分かっています。

さらに、比較言語学では、日本語を研究した結果、他の言語の影響をほとんど受けていないということも分かっています。

日本語の文法と類似している朝鮮語は、かなり他の言語の影響を受けていて、明らかに日本語が朝鮮語の方言ではないということが分かっているのです。

それなのに、そうした事実を「何らかの理由」ということで蓋をして、未だに日本の歴史研究者は、日本人の起源を朝鮮半島だと言い張っているのは非常におかしい限りとしか言いようがありません。

 

 


日本人としての誇りは持っていい!

 

海外の人からすると、日本人は信仰をもたない民族だと考えられていると聞きます。

正月には神社(神道)へ行き、二月はバレンタインデー(キリスト教)を祝い、盆にはお寺(仏教)に行き、クリスマス(キリスト教)を祝い、一体何をしているのか? 日本人は無信仰ですべてイベントにしてしまうぐらい神に対して地に足がついていない民族と外国人にはうつるそうです。

それは日本人にはアイデンティティがないからだと言われます。

しかし、日本には、世界で最も古い伝統のある王族、すなわち天皇家があり、しかも様々な科学的事実から、歴史家たちのねつ造した事実とは別に、日本人は何千年も前から日本人であり続けているわけです。

しかも、日本では八百万の神々といって、たくさんの神々が同居して、時には暴荒れたりしていますが、常に和を保っているのです。

様々な神を受け入れるのが日本の宗教観で、私たちは本来は他の宗教と殺し合いなどしない民族であり、こういう和の精神は本当に誇ってもいいと思います。

「合気とは愛なり」と合気道開祖がいい、合気道を提唱しましたが、これは、日本人の非常に高い感受性と古代より脈々と受け継いだ日本文化を言い表したものに他なりません。

争わないで調和する合気の道こそがこれから未来の世界に向かうのにふさわしい道だと思います。

 


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上丹田と第6チャクラ

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今、丹田とヨガのチャクラの関連についてお話しをしていますが、今回は、上丹田と第6チャクラです。

その前に、井口師範から教わった上丹田、中丹田、下丹田の関係とぼくの体験したプチ神秘体験をまずお話しし、第6チャクラと上丹田の関連を話したいと思います。


合気道でのプチ神秘体験

僕は、井口師範に、毎日、天の鳥船の行(船漕ぎ運動)と振り魂の行をするようにいわれました。

それで、それらの行を十年ほど続けたところ、ある時、振り魂を行っていると 頭部のど真ん中から真下に向かって、目に見えない軸が形成されました。

さらに、行を続けていると、その軸が天と地に向かって伸び出しました。といっても目に見えるものではなく、その様に感じたといった方がいいと思います。

軸が天に高く伸び、地に深く刺さると、天から2つ、地から1つ、小さな玉状の何かが自分に入ってくるのを感じました。

それを井口師範に言いますと、頭に止まったものが日の宝玉、胸に止まったものが月の宝玉、腹にとまったものが地の宝玉とおっしゃわれ、日の宝玉は天を、地の宝玉は地を、月の宝玉は、火と水に関係があるとおっしゃいました。

地の宝玉は下丹田、月の宝玉は中丹田、日の宝玉は上丹田に繋がっているということでした。

ちなみに、こういった体験をしたからっといっても、自分自身の心には何も大きな変化がありませんでしたし、超能力が身についたというものもありませんでした。

一方、肉体面での変化は、そんなに大きな顔をできるほど大したことではありませんが、今まで決してできなかった技術が急にできるようになるという経験と、集中した際に、眉間に何か圧力を感じるようになった点です。


上丹田と第6チャクラ

神秘体験以前は下丹田だけを意識していましたが、以降中丹田や上丹田も意識するようになりました。

今回は上丹田の話ですが、チャクラで言えば第6チャクラと対応します。

第6チャクラは、サンスクリット名はアージュニヤーチャクラと呼び、 アージュニヤーは「知覚する、知る」という ことを意味します。

また第6チャクラはサードアイチャクラと呼ばれ、第三の目にかかわりがあり、6センスすなわち第六感、超能力と関係があります。

そして、第6チャクラは、 第三の目を使うことで、物理的に目では捉えきれない部分から情報を得たりしています。

井口師範は「目で見るのではなく、感じるんや」と言ったことは、この第三の目を使う第一歩であったのだと思います。

そういったことから、合気道では目の使い方を秘伝にして、一部の人間しか知らないものとしているのだと思います。

この様に考えると、一般道場や一般書籍などでは分からない合気道の秘伝がかなり隠されているのではないかと思われます。

ちなみに、僕には第三の目というほど超能力はありません。

ただ、空間感覚の技術を使う時、何故か眉間の間に気の圧力を感じます。

文献によれば第6チャクラを使うと、人によって違いはあるそうですが眉間の間になにやら感じるそうですから、空間感覚の技術の際は上丹田を使っているのは間違いがないようです。

上丹田が第六感に関係があるなら、第六感を開発するためにももう少し上丹田の技術を見直しする必要があると、最近つくづく思っています。

この様にチャクラを調べると、開祖の伝説となっている合気道の技がより理解できます。


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中丹田とハートチャクラ

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今回のブログでは前回に引き続いて、丹田とチャクラの関係について述べたいと思います。

今回は中丹田とハートチャクラについてですが、僕はこのチャクラのことを調べて、非常に衝撃を受けました。


中丹田の技術

中丹田は、以前にもお話ししましたが、両手と繋がっていて、左右の手のバランスを取る他、相手と自分の間の陰と陽のバランスを取るの使います。

合気道の技術でいうと合わせを使うということです。

要するに、中丹田はバランスを司るのがその中心的機能となっています。

そのため、合気道では中丹田を使うのは非常に精妙で高度な技術を要求されますし、合気道独自の訓練が必要になります。

合気道独自のため、中丹田以上の技術は秘伝となっていると、僕の師匠である井口師範が言われていました。

合わせと一口で言っても、技術から種類に分けるとかなりの数に上ります。

当会で稽古をしているものでも、骨の合わせ系の技術、皮膚の合わせ系の技術、皮膚感覚の合わせ系の技術、空間感覚の合わせ系の技術と系統だけでも4つあり、捉え方次第では十数種類に上ります。

さらに、それらの組み合わせも存在し、当会では稽古しない未知の合わせの考えられるので、途方もない数になると思われます。

井口師範のような達人であれば、一々技術的な分類をしなくても、気をコントロールするという意識だけで、全てをこなすことができるようですが、僕を含め一般人は、ここに稽古をしないと身につくものではありません。


第4チャクラ

この中丹田に相当するのが第4チャクラです。正式名称はアナハタチャクラと呼ばれ、別名ハートチャクラとも呼ばれます。

アナハタとは「2つの部分に触れることなく生成される音」を意味し、同時に「純粋」または「きれいな、穢れのない状態」を意味します。

具体的には、2つの反対の力を統合し、2つの力が直接触れることなく音(効果)を得ることができるというわけです。

このエネルギーは協力と統合に固有のものであり、合気道における合わせという概念に非常に共通するものです。

更に、アナハタチャクラは、精神的な部分と物質的な部分を結びつけるという役割もあります。

また、アナハタチャクラは、別名ハートチャクラと呼ばれ、心臓という意味ではなく、感情、情緒などを感じるという意味でのチャクラです。

このチャクラが開けば、無条件の愛を作り出し、他人を理解し 、美しい人間関係を作るということも言われています。

このチャクラを調べてみて、合気道の開祖が「合気とは愛なり」と言われた意味がより鮮明になりました。

開祖は、完全にアナハタチャクラが開いていたため、技法である合気道の技が感情である愛と直結したということだったのです。

ですから、僕たちも合気道の技をやりながら愛を感じられる境地まで達する必要があるということです。


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【丹田とチャクラの関係】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今回は丹田とヨガやスピリチャル系の人がよく話すチャクラの関係についてです。


今までチャクラに興味がなかった!

実は、僕はあまりヨガでいうチャクラというものに関して興味がありませんでした。

それには2つの理由があります。

一つは、僕がとても体が弱かった若いころ、ヨガの先生から、「才能がない」と烙印を押され、辞めた経験があるからです。

ヨガは僕には合わないという思いがあったためヨガに関連することを無意識に避けていたからです。

ヨガという健康法で落第の烙印を押されるというぐらい体が弱かったのです。

それともう一つは、ヨガでチャクラを開発して、人のオーラが見えるという人が打撃のよる攻撃の気が読めないという経験をしたこともチャクラに興味がない理由でした。

このように、チャクラというのはスピリチャル系の人がスピリチャル関係のことを見るのに使うものっていうのが今までの認識でした。

ところが、最近衝撃の事実を知りました。

それは、チャクラが丹田と一致するということです。


丹田とチャクラの関係

丹田には、下丹田、中丹田、上丹田というのがあります。

上丹田は眉間の真ん中にあり、中丹田は両乳頭を結んだラインの真ん中、そして下丹田は、臍より親指以外の指を揃えた幅分下にあります。

またチャクラというのは、
ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では、人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる生体エネルギーの中枢のことで、漢訳では輪とされます。 これは7つありますが、そのチャクラの中でそれぞれの丹田に対応するチャクラがあります。

チャクラは下から順に数えますが、本稿では、丹田に相当するものだけをピックアップすると、第2チャクラが下丹田、第4チャクラが中丹田、第6チャクラが上丹田に相当します。

ただし、文献により、下丹田は第2チャクラであったり第3チャクラであったりとする場合があります。

しかし、中丹田と上丹田に関しては、かなりはっきりとしていて、中丹田も上丹田もスピリチャル系に非常に関係が深いことがわかります。

そして、中丹田である第4チャクラの機能を知ったとき、僕はかなり衝撃を受けました。

その内容については次回にお話ししたいと思います。


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【骨の合わせの感覚】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、最近は合気道の合わせということから出発して、合気道の合気というのは技術面を超えて、人の人生そのものに深くかかわるという話に発展しましたが、ここでまた技術面に戻りたいと思います。


合わせの勘所は感覚

 

当会で指導する合気道の基本中の基本が骨の合わせです。

骨の合わせは、通常は片手取りというような手首取りの技で稽古を行うのが普通です。

ところが、この骨の合わせというのが非常に難しく、当会の黒帯取得者でも「難しい」とよく話します。

何が難しいかというと、微妙な感覚を瞬間に作るのが難しいといいます。

黒帯取得者にいわせると、その微妙な感覚を瞬間に再現するのは、当会で指導する色々な合わせの中でも、最も大変だそうです。

というのは、僕自身も感覚を得るために、かなり一人稽古をしたもので、手が空くと自分自身の手で、この骨の合わせの稽古を行っていた記憶があります。

骨の合わせでは、手首の皮膚の感覚を敏感にしてまず相手の力の流れを読みます。

その流れに従って、自分の骨を動かしていくわけですが、ここで問題は動かし過ぎてしまうるということです。

合わせということですので、動かし過ぎてぶつかると意味がないのです。


骨の合わせはリニア方向だけではない!

 

骨の合わせの基本は直転的な力の変化として捉えることです。

その稽古方法として、片手でもう片方の手を掴み、掴んだ方の手で様々な角度に力を加えてみて、掴まれた方の手をその力に合わせる稽古が大切です。

しかし、骨の合わせは、直線的な変化だけにあわすものではありません。

手首の旋回による力もあるので、螺旋の動きも骨の合わせでは必要になります。

螺旋の動きで相手の力に合わせる稽古も必要でし、相手の腕の位置によって螺旋が必要になる場合もあります。

ですから、骨の合わせの変化は無制限になりますので、どの方向に相手の力がきても対応できるようになる必要があります。

以上の合わせができるようになったら、ゼロの感覚ということで、均等に相手の力が自分の手にかかるようなるように稽古しましょう。

骨を合わせができたなら、次に皮膚の合わせや皮膚感覚の合わせを加えることで、相手はコチラの動きがさらに読めなくなります。

このように合わせといっても、様々な技術の組み合わせでおこないますので、自分の学んだ合わせだけが正しいのではなく、新しい考えを吸収して、別の合わせもありだと考えて、どんどんと吸収するのが大切です。

人の動きというのは、原理が分かった時点で、読むことができるようになってしまうので、出来る限り知識の引き出しをたくさん持っていることで、相手に読まれにくくなるのです。

 


 

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【不運は幸福の種である】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、昔からいわれていることに、天命を受けて人は生まれてくるというのがあります。

僕も、長く生きてきて、成る程と感じるものがあります。


天命はある

 

僕は、子どものころから恋愛や結婚は諦めるぐらいメチャクチャ体が弱く、その上片目を失っているので、少年時代、青年時代は一生涯とても武道なんてできることなどないと考えていました。

そして、あるとき、電車に乗っていると、知らない男に言いがかりをつけられ、電車の中で暴力を受けることになりました。

電車のなかでは、誰も助けてくれることはありませんでした。

僕はその経験から、結局は自分の身は自分で守らなければならないと決意し、合気道の師匠・井口師範の門をたたきました。

体が弱かった僕は、青少年時代はスポーツもろくにできませんから、合気道をするのはかなり大変でした。

しかし、井口師範から背骨の調整法を教わっため2年もしないうちに僕は普通に健康になりました。

そして、井口師範から様々な秘伝を教わり、そして今、僕の元に様々な武道をした人たちが集まって、僕の稽古を受けています。

よくよく僕の人生の各地点を線で結んでみると、明らかに合気道をするように結びついています。

正しく天命があると言い切れるのはこのためです。

誰にでも必ず天命があるのですから、読者の方も自分の天命を探すと良いと思います。


天命という側面から見ると不運は必然

 

電車の中で理不尽な目に遭ったお陰で、井口師範の合気道に巡り合いました。

井口師範に巡り合ったお陰で健康になれました。

片目が見えなかったお陰で、井口師範の秘伝を理解できるという場面に遭遇しました。

それにより極端に理解が進むようになりました。

点で考えたとき、不運な出来事も後になれば、お陰になります。

このように天命という目からみると、不運な出来事も必要があって起こっているのです。

不運な出来事というのは、合気道的に見れば、心のぶつかりと捉えることができます。

ぶつかりをなくすことを合気道では合わせといいます。

合わせには3つの原則がありました。「対立しない、逃げない、受け入れる」ということです。

不運を天命だと全面的に受け入れ、その後、自分がどう生きるべきかを見直すと、自分の動くべき方向が見えてきます。

すると何故か確実に良い方向に向かいます。

そのコツは、「何だかわからないけれど、このことが元で必ずよい事が起こる。だから受け入れよう」と決意することなのです。

誰にでも天命という道はあります。その道を進んでいるとあなたは必ず幸せに行きつくというのが合気道的な生き方です。


 

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【合気とは愛】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今回のテーマは「合気とは愛」という意味がわからないような合気道開祖のお言葉について井口師範から教わったことを書いていきたいと思います。


合気とは愛なり

 

合気道では合わせることを専門的には「合気」といいます。

合気道の開祖・植芝盛平翁先生は「合気とは愛なり」と言われています。

「愛」と言えば、つい男女間の愛情のことを考えてしまいますが、愛にも、様々なレベルがあり、自己的な愛から始まって、周りの他を思いやる愛、そして人類全体に対する愛、ついには宇宙全体に対する愛と様々です。

ただ、凡人には、宇宙的な愛ともなると全く見当がつきません。

翁先生のお言葉は宇宙的愛だというのはわかると思いますが、それが何故そうなるのか?。

一般に、愛というのは相手を全面的にうけいれるところから始まっています。

どんなに極道な子どもでも、母親ならその子が亡くなると悲しみます。

その母親は、その子を全面的に受け入れているから、愛するという感情が起こるのです。

ですから、愛というのは、全面的に受け入れたときに起こる感情なわけです。

ところが、「合気とは愛なり」というのは、合気というのは技法であると思われることが、何故感情を示す「愛」となるのか?が余計わからなくなる言葉でもあります。


感情が行動の源

 

「分かっちゃいるけど、やめられない」とかなり古いですがそんな歌がありました。

これはズバリ人間の真理をついている言葉だと思います。

頭で考えて分かっているのに、何故か行動にだせないという人間行動の原理がズバリ述べられているのではないでしょうか。

見方を変えると、心理学の原理もさしていて、人間の行動は、思考だけでは動かず、感情が伴って初めて起こるのだということです。

そこで、「合気とは愛なり」という言葉ですが、合気は思考ではなく、感情にまで持ってくる必要があると説かれている訳です。

そこで、神(宇宙全体)の愛を信じることで、自分が神の分け御霊であり、神に守られている自分の可能性を信じ、自分の尊さを信じることで、技が無限であると感じることができるわけです。

相手を全面的に受け入れるということは、自分の可能性を信じ受け入れることに他ならないわけです。

ですから、合気とは、単なる技法の枠にとらわれず、自分自身の無限の可能性を信じ、相手を前面的に受け入れることに他ならないのです。

そうすることで、無意識からでる行動が自然と起こり、無限に様々な技法が出てくるわけです。

要するに合気とは単なる技法の枠を飛び出したもっと大きなものということでした。

これが井口師範から教わった「合気とは愛なり」という解釈です。


 

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【苦しみから抜け出るには】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、人間が生きていると必ず不幸は訪れるものです。

そして、不幸に出遭うたびに人は非常に苦しい思いをします。

ところが、僕はそういった苦しみに遭遇したとき、何度も合気道によって救われました。

今回は合気道的に苦しみから救われるにはどうするかという話を書いていきたいと思います。


“合わせ”という発想

 

読者の中には、大変な不幸に巡り合って、今、本当に苦しんでいる人がいるかもしれませんね。

そんな人にお役にたてるのが、合気道の合わせという考え方です。

前回のブログでは、「合わせと三原則」というのを書きましたが、この合わせと三原則は、人生で不幸な出来事に出遭ったとき、非常によいツールとして使うことができます。

合気道では、相手とぶつかっりが生じたときに合わせという技術を使いますが、前回でもお話ししましたように、ぶつかりを感じたとき、合わせの三原則をまず適用する必要があります。

合わせの三原則は、「対立しない、逃げない、受け入れる」ということでしたが、全てを受け入れて、状況を判断するということがまず大切なのです。

相手が攻撃をしたとき、対立したならば、大きな衝撃を受けます。

逃げると相手は追いかけてきます。

相手の攻撃を如何に受け入れるかと決意し、状況を把握し、力の流れを理解し、それに乗ったときに、急に自分が優位になります。


人生も合気道と同じ

 

これは合気道の技だけに限ったことではありません。

不幸に巡り合うというのは、合気道の技では相手に攻撃をされることに相当するのではないでしょうか。

そのとき、頑張って受け止めようとすればするほど、大きな痛みを伴った苦しみに逢います。

逃げれば、苦しみが追いかけてきます。

結局、苦しみから解放されるには、その不幸を全面的に受け入れるしかないわけです。

そして、自分の不幸の状況が把握できたら、自分が動くべき方向が見えます。

苦しみというのは、そこで停滞していることで起こる感情です。苦しみにこだわっていながら、その苦しみから逃げたいと思うから苦しむのです。

ところが、不幸を全面的に受け入れ、自分で納得し、状況を把握することで、どうしようもないと思われた止まった状態から、心が解放されると苦しみという感情が薄れだします。

しかも、本当にとても不思議なのですが、人生上の不幸を全面的に受け入れ、苦しみから解き放たれ始めると、何故か人生が急に好転し始めます。

 


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