皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、今回の気の正体について、神道ではどうなっているのかという点をお話ししたいと思います。
古神道の人間の解釈
神道の気の話をする前に、理解する必要があるのが神道の人間の解釈です。
神道では、まず人というのは、霊(ひ)を止めるから人(ひと)というと考えます。
そして、霊というのは、大宇宙の根本神から分けられた分け御霊(わけみたま)のことです。
そして、分け御霊が正常な直霊(なおひ)であるとき、体に気である生命エネルギーに溢れ、生命活動が順調に行われます。
一方、分け御霊に異常がおこり曲霊(まがひ)になったり、直霊の調和が乱れたときに気が枯れた状態、すなわち穢れた状態になり、体に不調が出たり、行動に異常が出たりします。
このように、日本の古来の考えは、気というのは外からもらうものではなく、魂が本来の状態に戻ったとき、自然と湧き出るものと考えています。
神道における気
日本語は非常に「気」のつく言葉が多いです。
気が付く、気が利く、気が強い、気になる、気のせい、気が大きい、気を付ける、気を付ける、気に掛ける、気が狂う…。
このように述語でもかなり多いですが、さらに名詞になると、強気、弱気、短気、やる気、負けん気、陽気、陰気…
名詞の方は、中国から入ってきた言葉もあるので、タオイズムの影響を受けたものも多いと思いますが、述語として使っている言葉は古来のやまとことばが元になっているものが多いと思われます。
このように日本では中国から文化が入ってくる前に「気」という考えがあり、元々は中国文化の「気」とは性質が若干異なっていました。
日本語で穢れという言葉がありますが、これもヤマト言葉です。これは汚れているということではなく、古来、気を「け」と呼ぶこともあり、気が枯れた状態を穢れと呼びました。
ですから、さまざまな体調や精神の不調など、すべて気が枯れた状態であるとし、古神道などでは禊ぎを行い、気が枯れたために起こる悪い気を払い清め、魂自身を奮い立たせて、順調な魂の活動を導くことで、良い気を湧き出せせることができるのです。
以上から、日本の「気」という考えは、魂が正しい活動を行うようになったときの状態として、生命エネルギーである気が溢れるものと考え、それにより、神の分け御霊として、人は神の御業を行えるようになると考えます。
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