皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、何回かにわたって、色々な思想での気の捉え方を説明してきました。
それによって、全く異なる点と共通した点とがあることがわかります。
僕は、この共通した点が人類に共通に感じる気の感覚であり、異なる点が民族や思想によって認知される部分だと考えています。
そういった点で気を捉えたとき、自分達が気に対してどう向かい合えばよいかというのが分かるのではないかと思うのです。
気の性質が違う理由は?!
今まで、タオイズム、神道、神智学、インド哲学などの気に関して述べました。
まだまだ、それ以外にもあります。たとえば、インディオの呪術であるナワーリズムには、自然のエネルギーとして気とよく似た概念があります。
ところが、それらを詳細を比べるとかなり性質の異なる点が多々あます。
一方、物質、例えば石を世界中の人に見せても、常識的に考えるとすべての人は同じように見えているものと考えられます。
科学的に存在を考えるとき、条件が同じなr誰が観測しても同じであるのが重要です。
そうすると、気の捉え方でそれぞれ異なるということは、気を否定的にとらえざるを得ません。
しかし、認知科学や脳科学、心理学などでは、過去の経験や知識によって人間は目の前にあるものを認知していると言われています。
ですから、実は石を見ても、実際はそれぞれの民族では違った見方をしている可能性があり、それは個人個人によっても違うかもしれません。
実はある人が見ると、その石に巨大なエネルギーを見たり、神を見るかもしれません。
また逆に邪悪な邪霊やよくないエネルギーが見えたりするかもしれません。
結局は、どう認知するかが問題だということです。
それぞれの民族は独自の文化や教育があり、それが気を捉えるのに非常に影響しているものと考えられます。
それゆえ世界の気に関する認識に違いがあると思われます。
結局、合気道では気をどう扱うか?
僕は、こういった思索を繰り返している中で、「結局、合気道では気をどう扱うか?」という点にただりつきました。
そこで、合気道として考えるべきことは、まず技に活かせているかという点だと考えました。
要するに、いくら気を感じても、色が見えても、物理現象である技に活きないと意味がないということです。
いくら強力なサイコキネシスを持っていて、数百グラムのものを浮かせられても、物理的に人を投げ飛ばすには全く使えません。
というか一般の普通の人には使えません。
そういった点から、精神、半精神半肉体、肉体という三つの観点から気を考え、技を整理することで気を誰もが簡単に扱えるようになると当会では考えています。
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