「当会の技術について」カテゴリーアーカイブ

【映像による限界】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今ブログでは、NLP心理学の代表システムである、視覚、聴覚、体感覚の3つのタイプと武道を習得の関係を述べましたが、ここから合気道修行者が注意すべきことが見えてきます。

今回はそのことについて考えていきましょう。

 


合気道の技の肝心なのは感覚

 

井口師範は「投げたり、固めたりは単なる枝葉」とおっしゃいました。

その上で、「呼吸力」「螺旋形」「気の流れ」が大切といわれました。

「呼吸力」「螺旋形」「気の流れ」と言われると、なんだかわかった気がします。

ところが実は気がするだけで、これらはすべて、感覚的な表現だった訳でした。

井口師範に手を取っていただけないとその感覚というのが分からないのです。

いくら目を凝らして見ても、感覚は伝わってはきません。この部分が映像による合気道の技を伝える限界です。

前回視覚タイプの人の話をしましたが、体の感覚として認知できないことが非常に大きいのです。

このことより、師範の演武を見て技を稽古するというのは効率的に見えますが、実は肝心の部分が伝わらないのです。

見ても見えようのない感覚、それが合気道の核であり、本質がそこにあります。

その感覚を一言でたとえるなら合気道の「気」なのです。

 


分かる人に教えてもらう

 

合気道の本質は感覚にあるということが分かると、私たち修行者のすべきことは、当然、その感覚が分かる人に教えてもらう必要があります。

ですから、機会をうかがっては、最も技ができ、感覚のある人から技を受ける必要があるのです。

この感覚というのは、案外、体に残るものです。

僕は幸いにして、井口師範に、手を取っていただく機会があり、体を通して、それらの感覚を体験させていただいていますが、井口師範も野球の天才・長嶋茂雄氏と同様に非常に感覚的なことを言われる人でした。

なので、聴覚タイプの僕には何を言っているのか当時はわかりませんでしたが感覚を体験させていただきました。

でも、その時分からなくても、後になってその時に受けた感覚が蘇ってくるのです。

その結果、僕のように典型的聴覚タイプの論理人間は、感覚から理論へという流れが展開していきました。

具体的いうと、ある時にあの技は感覚ではこういうこと再現ができるようになると、理論が浮かんできたものでした。

このように、合気道を理解する上で、聴覚タイプの人も視覚タイプの人も全く理解できなくとも、まずは体感覚を経験しておく必要があります。その後、体感覚が分かると、視覚化あるいは論理化ができようになってきます。

 

 


 

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【タイプ別の武道の取り組み方】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、前回は人のタイプには、視覚タイプ、聴覚タイプ、体感覚タイプがあるという話をしました。

そして、武道家の殆どが体感覚タイプの人が多いと述べました。

体感覚タイプの人はそういった武道家につくと問題は無いのですが、視覚タイプや聴覚タイプの人達にとって体感覚タイプの指導者につくのは非常にハードになります。

そこで、視覚タイプの人や聴覚タイプの人はどのようなことに注意して指導を受けるべきかという点を述べていきたいと思います。


視覚タイプ

 

先ず、視覚タイプの人で注意しないといけないのは、体感覚タイプの人の言うイメージを鵜呑みにしないということです。

そして、視覚を体感覚に変えるトレーニングを併用する必要があります。

例えば、「折れない腕」という故・藤平光一師範が提唱した技術がありますが、これを行う時のイメージがあり、それをイメージするだけで、力の強い人が腕を折り曲げようとしても「絶対にそれ以上曲がらない」というものです。

このイメージというのは、腕の力を抜いて、掌を開き、あたかも手が水が流れているホースになったように、腕に気がながれ、指先から気が放出されているというものです。

これを体感覚タイプの人が行うと、ほぼ百パーセント「折れない腕」が完成しますが、視覚タイプの人がやると、単なるイメージで終わってしまいます。

その違いは、体感覚タイプの人はイメージするだけで体が勝手に連動して、筋肉や体の構造で強度が増す方に働くからです。

体感覚の人はイメージをすると体が勝手に動くのですが、視覚タイプの人はビジョン化だけにとどまるため体は連動しないのです。

視覚タイプの人は、「気を使うには体の連動が大切である」ということを肝に銘じておく必要があります。

 


聴覚タイプ

 

聴覚タイプの人が、最も体感覚タイプの指導者が苦手とします。

何故なら、聴覚タイプの人は、「何故? どうして?」という理由が必要だからです。

ところが、体感覚タイプの指導者は「理屈はどうでもいい。まず体を動かせ」と指導しますので混乱します。

さらに悪い事には、「気」ということを言われると、「気」を使えば、あのような不思議なことができるのかと思考を停止してしまいます。

体感覚タイプの人は「気」を意識するだけで、体が勝手に反応でしますので、「気」の説明で十分です。

しかし、聴覚タイプの人は、抽象度が高い「気」の概念では、体に反応が起こらないのです。

そのため、「気」は精神と物理を結び付けるものと当会では定義し、抽象度を下げて、物理学、生理学、心理学などで教えています。


 

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【武道と理解のタイプについて】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、僕は現在NLP心理学を勉強していますが、NLP心理学では、物事を理解するのにタイプに合った理解の仕方があるとしています。

ですので、何かを習得する場合、それぞれに合ったやり方をする必要がある訳です。

そして、自分のタイプがわからず、間違ったタイプのやり方でやると、「俺には才能がない」と誤った考えを持ってしまいます。

今回はこのタイプについて話したいと思います。


3つのタイプ

 

NLP心理学では3つのタイプのことを代表システムと呼び、視覚タイプ(V)、聴覚タイプ(A)、体感覚タイプ(K)に分けられます。

人が外部からの情報を取り入れたり、考えたりするときに、五感のいずれかに関連づけて行います。

人それぞれ、五感の中から自分の得手の良い感覚を優先的に使用するため、実は人それぞれ理解の仕方が異なっている訳です。

自分がどのタイプであるかで、武道への取り組み方が異なるためよく自分のタイプを理解しておき、何を重視して武道に取り組むかを検討しておく必要があります。


視覚タイプ

視覚タイプの人は、視覚やビジョンが優先されるため、思考は視覚中心になり、説明はイラストや図や映像など視覚から入ってくるものが多い方が理解がしやくなります。

また、話し方は、ビジョンが浮かんでくるためそれを追いかけるように話すことで、早口の人が多いです。

話し方も、「その話しがよく見えない」など、言葉に対しても視覚に関連する言葉で表現します。

 


聴覚タイプ

聴覚タイプの人は、耳から入ってくる音や声から情報を得るため、相手を見るというより、相手に耳を傾けるような仕草で話を聞くことが多く、論理的でうんちくや理論などを好みます。また独り言が多いのも特徴です。

話す速度は早いと遅いとの丁度中間ぐらいです。

そして、「何を言っているのかわからない」というように聴覚に関連する言葉をよく使います。

 


体感覚タイプ

体感覚タイプの人は、その名の通り、味覚、触覚、嗅覚など体で感じる感覚を中心い情報を理解します。

そのため、視覚情報や聴覚情報が多いと頭が混乱してしまいやすいのが特徴です。

話し方は、体で起こることを再現しながら話すため、遅めに実感を感じながら話します。

表現の仕方は「その話の意味がつかめない」など、体を使うことに関連した言葉が多くなります。

 

武道家の多くは体感覚タイプが多いと思います。そのため、「理屈より体で覚えよ」という教え方が中心になり、理屈をいうことを軽蔑する人が多いと思います。

このように体育会系と言われる人達は、体を使うことに理論を当てはめることを嫌う傾向があるため、伝えたことを体で再現できる体感覚タイプの人に素質を見出すことが多いのです。

 


 

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【プロセスとエレメント】

05皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今日は達人たちの使う気をもう少し考察していきたいと思います。


達人は一つの技に複数の技術を同時起動

 

達人たちが気を獲得に至った筋道を探ってみたところ、彼らは技を徹底的に錬磨することで「気」を意識するだけで、一連の技を発動するに至ったと言えます。

言い方を変えると、「気」というエネルギーをコントロールするという意図を持つことで、複雑に構成された細かなスキル群を適切にコントロール下に置き、神技を実現しているわけです。

技を段階的に分解して考えたとき、それぞれの段階で目的となる意図があります。

その意図を実現させるためには、プロセスの中にも何種類もの細かな技の要素(エレメント)があります。

しかも、達人の技では、一つのプロセスに使用するエレメントは一つではなく、複数存在します。

そういった一つのプロセスに含まれる複数のエレメントを状況に合わせて適切に同時起動させながらも、さらに次のプロセスへ途切れなくスムーズに行っています。

そのため、井口師範のような達人に技を掛けられると、まったく対応することができなく、気が付くと地面に張り付けられているという感じになります。

これが、達人の技の正体で、僕たち凡人との違いで、この様々なエレメントを同時起動を実現するのが「気」であるわけです。

 


凡人ができること

 

そこで、これより、達人の技に少しでも近づけるよう凡人ができることを考えていくことにしましょう。

例えば、合気道の技で相手と接触した時点でのプロセスを考えてみると、このときに必要な技術のエレメントとして、少なくとも3つのスキルの同時使用が必要です。

それは、相手にこちらの意図が伝わらない技術、意図が位置関係を有利にとる技術、相手に力を十分に入れさせない技術があげられます。

相手にこちらの意図が伝わらない技術としては、目の使い方と体の使い方が重要で、どちらについても言えることは、変化をできるだけない方がいいという点で、眼法と移動法があげられます。

また、位置関係を有利にとる技術というのは「骨格の合わせ」です。

さらに、骨格の合わせには2種類あります。

一つは自分の骨格上で次の技にかかりやすい位置関係を取ることです。

そしてもう一つは相手の骨格上において相手が不利になる位置関係を取ることがあげられます。

さらに、相手に力を入れさせない技術としては、当会の分類では「骨の合わせ」「皮膚の合わせ」「皮膚感覚の合わせ」「空間感覚の合わせ」などです。

凡人の僕たちは、これらを別々に稽古して確実にできるようになったうえで、複数の技術を同時使えるようにし、それを「気」に関連させていく必要があります。


 

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【気が使えるようになるには】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、最近は「気」について色々と意見を述べているわけですが、最近の記事から、余計に「気」について分からなくなったという人もいるでしょう。

そこで、僕たち一般人が「気」を使うためにはどうすればよいかというのを達人たちの足跡から考えていきたいと思います。

 


気の達人たちの現状

 

多くの達人たちの共通は、生まれたときから「気」を自在に使っていたわけではないし、あらゆることを「気」を使ってできるわけでもないということです。

例えば、病気治癒を専門にする気功家は格闘家と闘っても勝てません。

「レイキ」という気による治療の免状を持っている人でも、武道で使う「気」は読めないようで、簡単に技にかかってしまいます。

また、武道だけにしか興味のない武道家は他の人の病気治癒はできません。

当然、武道と治癒のどちらにも長けた達人もいて、その人によれば、同じだと言われます。

同じ「気」を使って、一方では人を助ける力を身に付け、一方では人を破壊する力を身に付けているというのは非常に矛盾しているように思います。

しかし、そういった技術と「気」は別だと言ったらどうでしょうか?

言い方を変えると、そういった技術を「気」で行っているのだと考えられないかということです。

 


技術に気を通す

彼ら達人たちは、それぞれの道で「気」を使いこなしていますが、それぞれ得手不得手があります。

彼らが「気」を扱えるようになるのにステップがあったということを示します。

話を簡単にするため武道でのステップを示しますと

  1. 武道の技の鍛錬
  2. 武技を確実に使えるようになる
  3. 武技を気で行う

以上のステップで気による操作ができるようになっています。これは前に自転車の習得の段階とまるで同じです。

  1. 自転車の稽古
  2. 身体で覚え、ハンドル操作を意識しながら乗る
  3. ハンドル操作の意識がなくなり、曲がりたい方を見るだけになる

僕はこういった点を考え、才能のない人間が効率的に「気」の操作を行うには、

  1. 技を理解できるレベルまで抽象度を引き下げ個別に分解する。
  2. 個別に分解した個別の動作の意図を理解する
  3. その意図に従い個別の動作をそれぞれ徹底的に稽古して確実にする
  4. 「気」と結びつけて、全ての動作を統一して一つの技する

以上が大切なのではないかと考えています。

そのため、気の合わせを様々な種類に分類し、それぞれの合わせを個別に稽古し、それぞれの合わせで技ができるようになり、そこで初めて「気」を導入することで、才能のない僕たちが、開祖や井口師範のような達人に一歩でも近づけるのではないかと僕は考えています。

 


 

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【「気」の限界】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今このブログでは「気と合わせ」ということから始まり、「気」について様々な角度から述べています。

前回の話では、「気」は物理的な万能のエネルギーと考える多くの方が異を唱えたい気分になったかもしれませんね。

そういう人には僕の主張はかなり歪に聞こえると思いますが、これからその点について徐々に述べてみたいと思います。


達人は「気」を宇宙のエネルギーと捉える

 

様々な武術や医術や技術を扱う達人は各分野で「気」を使って驚異的な実績を上げています。

武術を極めた達人は、「武術は最後は気」と言われます。

また、病気治癒を得意とするチベット僧やシャーマンも「気」だといいます。

さまざまな分野の達人がすべては「気」をコントロールすることだと説明するわけです。

そういったところに到達した彼らは、口をそろえて「気」を宇宙の根源的なエネルギーと言って利用しています。

さらに高度に技が発達した彼らは「宇宙」との一体を唱えます。

宇宙の根源の気と一体になることで、様々な不可能と思われることが彼らには可能になります。

 


「気」の限界

ところが、そういったところに到達した彼らは、「気」を使う際に極めて厳格に姿勢について言及します。

特に、身体を極限に強化する硬気功法などでは、心身統一に時間をかけ、姿勢、呼吸などを整え、気を高めてその時点から演武などを行います。

また、「気」を用いて病気平癒を行う治療家家たちも、姿勢、呼吸をととのえ、特別な精神状態に持っていってから施術にあたります。

マンガやアニメでは身体に「気」を集めると、数百メートルの高さから落ちても平気ですが、さすがに硬気功であっても数百メートルどころか数十メートルから地面に向かって落ちるような演武はしません。

これは、経験的に、いくら「気」を巡らせても、「気」の達人ですら身体の限界が決まっているからと考えられます。

もっと具体的な例でいいますと、「気」の達人であっても、物理法則を超えるはずの「気」が扱えても不老不死は実現し難いという事実があるのです。

要するに、荒唐無稽な妄想を「気」に期待しても、物理世界における実現はかなり厳しいということです。

ですから、僕たち普通人が合気道で「気」を扱うとき、あまり荒唐無稽な「気」の思想に囚われていると、全く間違った方向に進んでいる恐れがあるということを肝に銘じる必要があります。

 

 


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【「気」は特別なものではない!】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、合気道では、「天地自然の気に合わせる」とか「相手の気に合わせる」とかよく言います。

ところが、気ということが良く分からないのに、日本人なら何故か分かるような気になってしまいます。

いくら分かる気になっても、実際はわからないのだから、出来るはずがありません。

そこで、僕が「合わせ」について、様々な分類をする理由を今回は僕の「気」に関するスタンスで説明したいと思います。

 


日常、気は誰でも使っている!

 

合気道で使う気を一言で説明するのは非常に難しいことですが、実をいうと人間は常に気を使って生活しています。

例えば、今まで一度もやったことのない動作を初めて行うと誰でも上手くいかないと思います。

しかし、そのことが一度身につくと、そんなに意識を集中しなくてもほぼ無意識でそういった動作ができます。

それが気を使っているということです。

例えば、自転車を乗ることは誰でも簡単にやってしまいますね。

それは日本が世界でも数少ない数パーセントのお金持ちの国なので簡単に自転車を購入できるからで、海外には自転車に乗ったことのない人は沢山います。

そんな人に例えば自転車の乗り方を言葉だけで説明できるでしょうか?

頭の中に感覚がありありと思い描けますが、言葉で説明をすると、実際にはしないことを説明します。

例えば、「右に曲がるときはハンドルを右に回せばよい」とかです。

実際は、重心を右に倒しているだけで、ハンドルを回そうなどしてはいません。

というよりは、実のところ、重心を右に倒しているという意識すらないのです。

右に曲がるときは、単に気を右に向けているだけです。

気を向けると、体が反応して、勝手に重心の位置を変えているわけで、自転車ですら気でコントロールしています。

 


精神世界と物理世界をつなぐのが気

 

このように気というのは、超能力者や達人が使う特殊なものではなく、誰でも日ごろから使っているものです。

もし、気ということばで自転車の運転技術を説明するとすると、

「気を前に出して自転車をこげば倒れません。右に曲がりたいときはそちらの方に気を向けると右に曲がります。しかし、大切な点は、例えば右に直角になっている曲がり角では、いきなり右に気を向けても、自転車は曲がりません。直角の道であっても、円を描くように気を向けないと危険です。何故なら自転車はすぐに直角にはまがらないからです。」

というような説明になるのではないでしょうか?

このように説明すると自転車が「気」を使って運転されていることがわかると思います。

ですから、精神世界と物理世界をつなぐものという僕の主張が理解していただけると思います。


 

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【基本の合わせでも数種類】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、前回は骨の合わせについて書きましたが、実は当会だけでも基本の合わせでも数種類に登ります。

実は秘伝に触れずに、ご紹介できればと思ったのですが、他の合わせでもかなり秘伝を出さないといけないことになるので大まかな説明だけしたいと思います。


当会での技の分類

先ず、当会で指導している合わせの種類について述べる前に、当会の技の分類法について述べたいと思います。

当会で指導している技術は、物理学、生理学、心理学の3つ分野に分け、更に、それらを神道の天火水地の4つのエレメントで分類します。

地の技術は、物理学的な力や構造力学やテコなど考えを入れた技術を指し、別名を骨の技術とよんでいます。

水の技術としては、生理学的な技術で、物理的な力の反応で起こる生理学的な現象を取り入れたもので、別名を皮膚の技術と呼んでいます。

火の技術としては、生理学的な技術ですが、ちょっとした小さな刺激によって起こる反射のようなものを取り扱うもので、別名は皮膚感覚の技術と呼んでいます。

天の技術というのは、心理学的な技術を使った技の総称で、一見不思議な現象を心理学により説明した技術群で、別名は空間感覚の技術です。

以上が当会の技術の分類ですが、それぞれの4つの分野で合わせというものがあります。

 


合わせの種類

合わせの種類といっても単純に数えても数種あり、天火水地でもそれぞれ複数の合わせがあります。

まず地の技術の合わせですが代表的なものとして2つの技術があげられます。

一つは前回説明した、「骨の合わせ」というもので、もう一つは「骨格の合わせ」です。

骨格の合わせというのは、骨格上で相手に対して構造上強くなるような位置関係を取ることで相手を誘導するものです。

これには2つあり、関節の角度を上手くとることで、自分の骨格で邪魔されない方向に移動できるように合わす技術と、構造上で相手の予想を上回るほど非常に力が出る骨格の使い方を行う技術です。

さらに、水の技術の合わせは、「骨の合わせ」より早いタイミングで相手の皮膚をずらすことで、相手の力感覚を狂わせる技術ですが、直接的、強引に相手を持っていくものと、導くものがあります。

火の技術の合わせは、相手が接触した瞬間に相手が握ろうとする意識を上手く導く技術と意識を逸らせてから相手の意識をコントロールするものです。

天の技術の合わせは、心理学的な技術を応用したものです。

心理学ではパーソナルスペースと呼ばれる、心理的な相手との距離というのがあり、同じ人でも相手により受け入れられる距離が異なるものですが、このようなパーソナルスペースを上手く活用した技術になります。

 

 


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【脱力と骨の合わせ】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今日から合気道の「合わせ」について話していきたいと思います。

今回は、「骨の合わせ」についてお話ししたいと思います。なお、「骨の合わせ」というのは当会の技術の呼び方で、一般的な呼称ではありません。

 


井口師範の脱力と腑抜けの違い

井口師範はよく「力を抜かなあかん」とおっしゃいました。それで、腕の力をダラーンとぬいちゃうと、「それは単なる腑抜けや! 力を抜いても、呼吸力は入ってなかったらあかん」とお叱りを受けました。

呼吸力が入った脱力とは一体何だろうと思い、師匠の技を受けていると、師匠の手を掴んでいるにも関わらず、何とも言えない持ちにくい感覚があり、しっかりと掴んでいるのに掴んでいる感がない感覚がしました。

いうなれば、ラーメンで例えるなら、力を抜いているのに芯の通った強さをもっているというのは、茹で足らないラーメンで何か芯が残っている感じがするのを読者諸氏も経験したことがあると思いますが、そんな感じです。

一方、「腑抜け」とは伸びたラーメンといえるでしょう。歯ごたえもなく、フニャフニャで、どうにでもできるそんな感じです。

例えが非常に悪いのですが、食感で説明するとそんな感じでした。

 


脱力には脱力する方向が大切

井口師範の手を取ると、しっかり持っているのに持てていない感じのするこの不思議な感触はどこから来るのかと僕はかなり悩みました。

井口師範の動きを何度も何度も観察して、師範の手を思い切り握ったとき、微妙に動かされているのに気づきました。

一方、僕の場合だと微動だにしません。

ここに違いがあるのだと思い、自分自身の左右の手で、力加減を考えながら、色々な角度で握ってみました。

握るときにぶつかるところをできるだけなくすため、握る方向性を皮膚で感じ、握られた箇所がすべて同じ圧になるように稽古しました。

要するに、脱力には脱力する方向が重要ということです。

ここまでが、所謂「骨の合わせ」です。

骨の合わせは相手との力感をゼロにすることができますが、これは単に力の抜く方向が分かっただけです。

この力の抜く方向に自分の腕の重さを乗せるということを行います。

脱力で、本当に大切なの自分の腕の重さを相手にあずけるということが大切なのです。

これを井口師範は「相手に任せきる」という言葉で表現しましたが、腕の重さを預けてしまい、相手がその重さに影響されて、実は重心を崩しているというのが、脱力が効果を発揮する本当の理由なのです。

 


 

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【抽象度が髙い開祖の「愛」】

皆さん、お元気ですか。僕はメチャクチャ元気です。

さて、前回は多くの武道は「対立すること」を前提に技が組み立てれていて、合気道は「相手を受け入れる」ということが大前提であるという話をしました。

そのため、開祖・植芝盛平翁先生は大東流合気柔術から離れ、独自に合気道を立ち上げました。

今回は、開祖・植芝盛平翁先生のお言葉を振り返ってみたいと思います。


合気とは愛である

 

以下に開祖のお言葉を記しておきます。

◆  ◆  ◆

合気道とは、敵と戦い、敵を破る術ではない。
世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。

合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させる事にある。
合気道の極意を会得したものは、宇宙がその腹中にあり『我は即ち宇宙』なのである。
私はこの事を武を通じて悟った。
敵が『宇宙そのものである私』と争おうとする事は、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。

即ちわたしと争おうという気持ちを起こした瞬間に、敵はすでに破れているのだ。合気道は無抵抗主義である。
無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間ははじめから負けているのである。

では、如何にしたらその邪気を払い、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?

それにはまず、神の心を己の心とする事だ。それは、上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ、偉大なる『愛』である。

『愛は争わない』『愛には敵がない』何ものかを敵とし、何ものかと争う心は既に神の心ではないのだ。
これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。

だから、武技を争って勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。

即ち絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬ事である。
勝つとは己の心の中の『争う心』に打ち勝つ事である。
与えられた自己の使命を成し遂げる事である。

 


抽象思考が達人である証拠

開祖のお話しは非常に難解です。武道の達人ともなると、抽象度が半端なく上がります。

井口師範もかなり抽象度が髙かったため、具体的な事象にまとめ、そこから井口師範の言わんとしておられることを考える必要がありました。

翁先生のおっしゃる「愛」も我々が考える「愛」とはかなり違っていて、結果や行為からみると愛からかけ離れているように思えることですら、翁先生の中では「愛」と表現できるものなのでしょう。

要するに全てを包括する「愛」であり、調和、一体感などもその中に含まれていて、相手を投げてすら、「愛」と呼べるものとなるのです。

無理やり投げられたときはくやしさが残りますが、調和を持って投げられたときは、不思議さを感じるだけです。


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