合気道のパフォーマンスで、「折れない腕」というものをよく合気道家が行います。この「折れない腕」とは、「術者が指先を開いて差し出した片腕に気を通すと、両手を使って肘関節で折り曲げようとしても、絶対に折れない」というもので、両手対片腕では常識で考えて、片腕の方が絶対に不利なのに、曲がらないというところに見せ場があるのです。
殆どの合気道家は、「折れない腕」の実現のためには「指を開かないと気はでないので、握って拳を作ってはいけない」といいます。この「折れない腕」を根拠に、「空手や拳法のパンチは“気”が出ない。本当に気を用いるのは合気道だけ」と主張する合気道家もいるほどです。
一方、井口師範は、「指を開いた方が、気を感じやすいさかいや。拳でも関係ない。初級者はパー。上級者はグーって思といたらいい」といわれました。このように、井口師範は、太極拳を初めとする中国武術の気についてもく否定する立場をまったくとってはいませんでした。要は、「出しやすいか、出しにくいかの違い」ということでした。
ただ、合気道の気と中国拳法の気では、思想的にかなり違いがあるようですので、同列に述べるべきものではないかもしれません。
話を元にもどして、合気道を数年やり投げ技など上手にこなすのですが、「折れない腕」ができない人がかなりいます。実は、気がでていると想像しても、割と多くの人はできません。指導する人に、「本気で気がでていると思っていないからだ。本当に思えるようになれば腕に気が流れ絶対に曲がらない」といわれた人が多いのではないでしょうか。
では、気がでていると思うだけで曲がらないというのなら、機械で折り曲げたらどうでしょう。何トンもの力がでる機械相手で本当に「気が出ている」と思うだけで折れ曲がらないのでしょうか?
もし、それが可能なら、高層ビルから飛び降りても、体に気が流れていると考えれば、無傷ということになります。それはそれで超能力的でSFチックで、物語りとしては面白いのです。
しかし、私は経験的にその発想は否定しています。それをいっちゃー「夢」がなくなるといわれることがよくありますが、武道をするものは、そんな「夢」や絵空事を信じるより、身体を鍛えた方がよほど役に立つと思います。
ところで、「本気で気が流れていると思っていないからだ」という上級者は、嘘を言っているのでしょうか? 答えはNoです。少なくとも、本人は本気でそう考えています。そういう師範は、「気」がでていると思うだけで「折れない腕」ができた部類の人なのです。
では、「思えばできる」のでしょうか? 実は、折れない腕が出来ない理由は、「思う」次のことが出来ていないからです。大切なのポイントは「感じる」ということです。気が出ていると感じることができれば、「折れない腕」ができる人の確率がさらにあがります。
では、何故「感じる」と曲がらない腕ができるのでしょうか? 気が出ていると感じようとすることで、身体が反応し、その感じを起こそうと、当人が分からないぐらいに微妙に動いているのです。この微妙な動きによって「折れない腕」ができます。
ですから、この微妙な動きさえ実現できれば、手を握った状態でも「折れない腕」はできます。この微妙な動きによって、相手に力を入れさせない状況が出来るわけです。「折れない腕」というのは、実は相手に思うように力をいれさせない技術の一つです。それが分かると、座り技呼吸法も、天地投げも同じというのがわかります。また、しっかりと両手で掴まれても同じだとわかります。
要するに、合気道の技術には、相手との関係というのが大切になってくるのです。この関係は、結びと呼ばれているもので、どこかで「相手と結ばれた」感覚を感じるものです。
合気道では、「己が宇宙の中心である」と教えます。しかし、それは、独断的な「自己中心」ではなく、相手との関連性の中で自分が宇宙の中心であり、相手との調和の中心と捉える発想ではないでしょうか?
今回の記事を読まれた合気道家の方には、「折れない腕」というのを、合気道のパフォーマンスで人に見せるだけではなく、もう少し研究していただきたいと思います。そうすれば、実は応用範囲が非常に広い、基本中の基本の技術であることが分かります。