皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、今回は合気道の開祖が言われている無抵抗主義について述べたいと思います。
キリスト教の無抵抗主義
合気道は無抵抗主義だと合気道の開祖が話していますが、無抵抗主義といえばキリスト教の聖書の中の言葉を思い出す人もいるのではないでしょうか?
新約聖書にあるように、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」です。
キリスト教徒でない僕はこれを聞いたとき、
『じゃあ、左の頬を打たれたら? じゃあ、一人の子供を殺されたら、もう一人の子供を差し出すの?』
と考えてしまいました。
ところが、それは大違いの勘違いでした。
人間は大概は右利きですが、右で相手を殴るのだったら左頬に当たるはずです。
ところが前提が「右の頬を打たれたら」となっているのは、何を意味しているのでしょうか?
実は、古代では奴隷や身分の低い者を打つのに手の甲側を使たそうです。要するに手を握って手の甲側で打つという空手で言えば裏拳打ちをやったようです。
ですから、奴隷として殴れたままでは絶対服従を意味したわけですが、「左の頬を差し出す」ことで、人間として対等に立つことを意味するわけです。
ちなみに、キリスト教徒でない僕たちが誤解をしているのは、中世ヨーロッパの支配者たちである教会側はこれをワザと曲解させて、人々に信心の強い人はされるがままになることを強いたため間違いが世界に流布されたそうです。
要するに中世の教会は「人間として平等」という本来の意味を捻じ曲げて「一般人を奴隷化」しようとしたことによるわけです。
ですから、キリスト教的な無抵抗主義の本来の真意は「神の前の平等」を認めさせることから再スタートすることを意味したわけです。
合気道の無抵抗主義
一方、 武道での無抵抗主義となると話が違います。
しかし、合気道の開祖・植芝盛平翁は、 「合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っていたのだ」といわれました。
また「無抵抗主義の中にあるのは大なる抵抗主義ですよ」とも言われています。
では、武道での無抵抗主義とは何なのでしょうか?
昔、ある合気道関係者から聞いた話があります。
「絶対的な無抵抗というのは空気です。いくら殴ろうが蹴ろうが拳も足も空を切り、ただ虚しいだけです。空気はどうすることもできないのです。だから徹底的に無抵抗になると相手は勝手に疲れ、滅んでいくものです」
確かに、この話を聞くと開祖の話も納得できそうです。ところが、この話には技術論がありませんから武道でどう使うかわからないのです。
しかし、井口師範は「それが合気ということや。相手に完全に合わせることができれば、相手は無抵抗になるもんや」と言って、僕に人差し指を突き出して、思い切りに握って抵抗するようにいいました。
ところが、気づくと思い切り握ったはずの指に対して全然力が入らずに腕を簡単に上に挙げられ、僕は崩せていました。
「曰く、これが無抵抗主義の大なる抵抗や」と笑っておられたのが非常に懐かしく思い出します。
完全に合わすと相手の力が完全に無効化するということです。ゼロの掛け算ということです。
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