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健康護身術を指導している橋本実です。

悩むのは楽しい!

現在、黒帯取得の合気道の修行者2人の指導しており、一人は個人指導で、もう一人は定期的な稽古に来ていただいており、それぞれ別の師範に教わっているので、同一名称の技でも、教わっている形が違うことがよくあります。そして、それぞれの形に合わせて、指導をするのですが、どうしてもその形では、非常に不合理で術理的に無理があり、どう指導してよいものやらと思うことが、立て続けにあり、困ってしまいました。

彼らは、当会に一年以上所属している男性の合気道修行者で、当会の技術をかなり使いこなしています(ちなみに当会の女性会員の方で1年で合気道10年以上もしている男性の高段者を押し倒しています)。その彼らがどう考えてもおかしいと思っているのです。私も、今まではこうすればいいとアドバイスできるレベルものでしたが、今回の動きについては、まったく合理性がなく、武道や護身術としては、隙が出来すぎて、あまりにも不用意な動きに見える動作なので理不尽を通り越して、「馬鹿?」と思える技です。

それらの動作には、演武としては、動きが大きく、派手さがあり、遠くからの見た目はわかりやすく綺麗とは思いますが、「護身の立場で考えたら、崩れてもいない相手が、ボーっとその状態でなされるままにじっとしているわけがない」と彼ら考えるのも無理はありません。

しかし、両師範ともに、彼らが私が指導しているような形をすると、「そんな技だと実戦や護身術に使えもしない。もっと大きく動かないと相手は投げられない」といい、平気で相手に不用意に背中を向けるよう指導したり、無駄に手数の多い指導します。その点が、スパーリングや試合、実戦を体験したことのない合気道師範の方が考えることなのです。ところが、実際は、技を護身に用いる場合、こちらの動きが相手に察知されないうちに捕らえ崩していなければならないのです。

そういう訳で、「見た目同じで合理的に動けないか?」という質問になるのです。

しかし、今回の動きは、あまりにも極端なので、不合理と思われる個所があまりにも多く、「こうすれば、護身的使えるとか、武道的な意味合いがどうである」とか、「稽古でそういう動作をしておくとその動作が鋭くなり、将来的なメリットがあるとか」などアドバイスすらできませんでした。

今もあれこれと考えてみますが、あまりにも非合理な動きで、受けの人の協力がないとかからない技にしか考えられません。しかし、こういう一見不合理で不可解な動きでも、それを合理的にする方法を考えるのは非常に勉強になると思っています。

発想として、相手を崩してアンバランスの状態にしてから、し掛ければ、反撃される恐れもなく、そのような技も護身的・武道的な立場からしても可能ではないかと考えられます。

しかし、最も難しい点は、、周りからはわからない動作でまず相手のバランスを奪うことです。まずバランスを奪って動けなくしておけば、その後は、反撃をされる恐れもなく、技がスムーズにかけられ、見た目同じ動きができると考えられます。そうできれば、それぞれの師範に批判されることなく演武ができます。

ただ、周りからわからない動作で相手のバランスを奪うというところが非常に頭を悩ませているのです。多分使える技術としては皮膚感覚の技術になるのでしょうが、崩すにはどうしても方向性を考え、無理のない方向で相手を崩す必要があります。今回、質問された技の形では、その点が非常難しいものです。

兎に角、解決策を模索していますが、何か発見できるか、不可能であるかわかるのは、まだまだ時間がかかりそうです。プロの格闘家が見ても、素人目に見ても、あまりにも不合理と思える動きで全く技が効いていないように見えながら、実はすごく効いているような演武ができれば、本当に面白いと思います。また、何かアイデアがでたら、ブログに書くつもりです。

金縛りの原理

Youtubeなどでは、合気道の達人が、弟子たちが次々と金縛りになって、投げられたり、抑えられたりする映像が見られます。

「あれは、達人以外は不可能」
と、思われている人が殆どだと思います。

ところが、ある種の金縛り化は特別な人ができるというわけではありません。ちょっとした知識と感覚のトレーニングにより、誰でも簡単にできるようになります。

一見超能力のようなトレーニングが必要ではないかと思いますが、金縛りになる原理が分かれば、その様なトレーニングは必要ないとまで言い切ることができます。 

実は金縛りには、複雑な霊現象のような金縛りもありますが、もっと簡単な原理によって引き起こされる金縛りもあります。

そして、私たち目標とする金縛りは、後者のもので、その原理は次のようなことで金縛りが起こります。
人がバランスを失い、自分の体を安定させようと手で体を支えようとする際に、最低限の力というのがあるのですが、この支えようとする力がその最低限の力に比べ必要以上に大きいと、この余計な力とバランスをとるため肩の筋肉、背中の筋肉と順に力が入っていき、全体のバランスを取ろうとします。

その結果、どこかの力を少しでも抜くと、アンバランスが発生し、倒れそうになるので、どこの力も抜けない状態になります。これが武道における金縛りの原理です。その状態で、バランスを少しずつ崩し倒せばいいだけです。

ですから、金縛りを起こすには、相手に必要以上の力を入れさせ、その余剰の力を相手に戻してやれば実現できます。
以下の映像は金縛りを実現するため当会で行っている訓練の一部です。合気道の修行者の方のご参考になればと思います。

井口師範の合気道における「気」の考え方2

前前回のブログで井口師範の「気」について述べました。しかし、一般的な気の考えは、漢方医学など代表されるように生体エネルギーと呼ばれる部類のものを示されます。それで、井口師範の「気」の考えが異端のように思われたと思います。

実際に、漢方や気功のある研究によりますと、「気」測定ができ、科学的に解明可能なエネルギーだという主張があります。しかし、それをよくよく見てみますると、「気」の測定といっても、「気」そのものの測定ではなく、体内の電気(電位差)であったり、体から放射する赤外線であったりと、単に間接的な測定にほかなりません。間接的な測定することで、生体エネルギーとしての「気」の存在を証明していると主張されているわけです。

また、物理学でも、測定は不可能な実在が予見されている粒子の測定では、この間接的な方法をとります。しかし、飽くまでも、その物理的特性を示す条件に適用できるかが測定の焦点です。存在を示す物理的接点を確かめるわけです。単にやみくもに測定機に反応があったから、その粒子の存在が証明されたとは決してなりません。

一方、「気」というものは、病気を治すことも、病気を悪化させることも可能であり、物体を破壊することも、再生することも可能であり、人の意志でコントロールできるものようですから、人の意志に同期して、機械に反応すれば証明したことになるということでしょうが、どういう原理で、そのエネルギーが、物理的結果を起したのかは、説明がつきません。物理的接点が証明できないのです。そのようなエネルギーは、結局科学が扱う領域ではなくなります。ですから、気の研究は必要ですが、気の存在の証明も科学的に解明も行き過ぎるとおかしな話ということになります。

井口師範は、
「気の正体などなんでもええんや。感じて使えればええ。道具を使うのに、どう道具を作るかとか、材料は何かを考える必要はないんや。出来合いの道具に従って、道具の可能性を最大に引き出せばええ。それが本当の意味での道具を知るということや。それが自然の理というもんや」
と、言われました。

ですから、合気道の修行者としては、いろいろなエネルギーの形態をすべて総称して「気」と呼んでいると考えようが、「気」によって起こされた結果に物理的現象があると考えようが、どちらでもよいのです。「気」をコントロールする意思り、実際にコントロールされた現象が存在することだけでよいということです。

要は、私たち合気道を行っている者にとっては、「気」の正体というのは何でもいい。「気」はこの世界に現れるとき、何らかの物理的特性・心理的特性を併せ持ち、その特性を活かすというのが技に大切なのでしょう。

井口師範の合気道における「気」の考え方

一般的に、合気道ではよく「気を出せ!」と指導者は指導しますが、「気」とは何かという指導はされないのが普通だと思います。

それで納得される方の多くは、漫画ドラゴンボールで表現されているような「気」を思い起こされるようです。確かに、そのようなものがあるなら、巨大な構造物を破壊したり、空を飛んだりと、夢を広がりますが、実際にそんなことできる人にお目にかかった人がいらっしゃるのでしょうか?

井口師範は、心の世界を「霊」とし、現世すなわちこの物理世界を「体」として、「気」は「霊」と「体」をつなぐものと説明してくださいました。言い方をかえると、「心的世界」と「物理世界」をつなぐものとおっしゃったわけです。そういう意図で、己の「思い」を、この世界に実現するための媒介となるのが「気」だと言われたのです。

要するに、「霊主体従」でなければならないということです。技を行う点で非常に大切なことは、「気」は、「心」と「物理世界をつなぐもの」で、「心そのもの」ではないという考えです。それは、「霊」だけではだめで、「体」がそろわないとだめだということです。「思えばなる」のではなく「動作(行動)」が伴わないといけないということです。

また、「気」は「生体エネルギー」という人もおられますが、生物だけが持っているものではありません。自然界、宇宙、すべてに「気」は、存在していると、井口師範は言われました。

ですから、「気」には、超常現象的なことも含まれますが、井口師範は、自然界(物理世界)を無視して、合気道は成り立たないともおっしゃっておられました。ですから、井口師範は、自然の動きも「気」の表れと、常々私に言われていました。

「曰く、自然は自分たちにいろいろなことを教えてくれる。海原を見ているだけで、合気道の稽古になるんや。何故なら、自然も気の流れの表れだからや。僕は、波を見て合気道の極意を学んだ。だから、自然を味方につかないとあかんのや」

「曰く、山に雪が積もり、それが、下へ落ちようとする“気”をはらむ。ついには、わずかな空気の振動でも、雪崩が起こる。そういうものが“気”や。人の体も同じや、倒れるべきところに倒す。『ああしよう。こうしよう』と違うんや」

物理を無視した動作は、“気を無視した自然に反すること”というわけです。要は物理現象を味方につかないといけないということです。地球上のあらゆる生き物で、自然と共生して生きています。

例えば、念力でスーパーマンのように空を自由に飛び回れれば本当に素晴らしいことでしょうが、それはまた物理を無視していることになると思います。もし物理の法則を使っているのであれば、念力を使って空を飛ぶ生物が多数存在しているはずですが、一般にそういう生物は科学的に認められていないのは、自然の法則に反している証拠ではないでしょうか。

井口師範は、自然界には「心」がないが、「兆し」の前のなるべき状況になる「志向性」がある。また、「気」は「兆し」「流れ」や「勢い」として存在していると説明されました。

井口師範のおっしゃった「雪崩」という現象で説明していきます。雪崩が起こる前は、「勢い」はゼロですが、今にも雪崩が起こるという状況(指向性)があり、起こる前に「兆し」として存在していて、いったん雪崩が起こると、「気の流れ」が起こり、それに「勢い」がでます。その「勢い」という「気」が破壊をもたらすのです。

合気道でも、これと同じです。相手に対して、「技を行おう」という「意図」を「心」(霊)で持ち、身体がまだ動いていない状況で「兆し」(溜め)を作って、「流れ」を起こし、「勢い」を持たせ、「勢い」を最大とするというのが合気道での「気」の一連の流れです。

みんなの学校の体育の時間

9月17日の件ブログにアップするのを忘れていたのでアップしておきます。これは和歌山市の商店街ぶらくり丁の活性化のプロジェクトで、街づくりの活動の拠点みんなの学校の体育の時間として、護身術教室の講習を行ったものです。
みんなの学校のブログでも、報告がありましたので、こちらも見ていただければと思います。

当日は朝から雨がたくさん降り、受講者がかなり少ないのではないかと心配していましたが、午後から雨がやんだこともあり、受講者は7名あり、男性3名、女性4名、内男性1名が見学でした。内、武道経験者は太極拳をしていた女性の方1人と見学の方だけでした。

講習内容は次の通りで、当会の4つの秘伝の初伝の技術を素人用にアレンジして伝授しました。
1 つかまれたときの手の解き方・攻撃の仕方・攻撃のかわし方など数種類(骨の技術)
2 相手にこちらの動きを読ませない方法(空間感覚の技術)
3 ナイフをもった相手の撃退術(皮膚の技術)
4 後ろから首に組み付いてこられる(チョークスリーパーホールド)場合の撃退法(皮膚の技術)
5 傘で凶器をもった相手をの撃退術(皮膚感覚の技術)

多くの皆さんは、みんなの学校の活動に共感されてこられている方が主で、護身術教室だからというよりも、毎回変わる体育の時間を楽しまれている様子ですで、またみんなの学校の近くの方で自転車で来られるような方ばかりでしたので、当会への入会希望される方は多分ないと思いますが、参加していただいた皆さんは、それぞれの技を納得していただいたようです。

最初、ある男性は「2時間って長いですよね。体力がもちますかねー」と言っていましたが、2時間をすぎても、皆さんから活発な質問をいただき、事務局スタッフの方が「もう、そろそろ」と言われるぐらいでした。

それから、講習前に、見学の方とお話ししましたところ、空手道・合気道の師範で、力のいらない護身術というフレーズに興味をもってこられたとのことでした。

この方は遠く離れて見学されていましたし、井口師範に対抗していた方のお弟子さんでしたので、秘伝を盗まれないように、できる限り技の原理をわからないよう受講者だけにわかる感覚を重視して伝え、秘伝にかかわる大切な説明はトーンを落として説明し、その方にはあまり聞こえないように配慮しました。

そのためか、みんなの学校でのブログでは、誰でも簡単にできるような説明をされていますが、力を入れさせない技術が凝りこまれていたので、スタッフの方もわからなかったものと思われます。

講習会の後、その空手・合気道の師範の方につかまってしまい1時間以上立ち話をすることになりましたが、ご自分の技術にかなり自信をお持ちになっておられ、当会との方向性も異なっていましたし、(実際の効果を体験されなかったので低く見られたのだと思いますが、)当会の原理を学ぶという気持ちは一切無いようでしたので、秘伝を盗みにきているわけでなかったので安心しました。

形稽古の意味

昨日、関東からの来客以外に、実は、中国拳法の経験者の方が技を学びに来られました。その人と軽いスパーリング的な技の出し合いを行い、こちらが技を掛けましたところ、
「いつどのタイミングで、合気道のどの技の出そうと意識するのです?」
という質問をいただきました。

要するに、質問の内容は、以前に、「勝速日の技術」で、相手の攻撃がとどかない遠い間合いにある内に、相手を捉えることを意識するように指導しているので、その時点で技を決めていいるのか、それとも別の時点で技を決めるのかということです。

私は、
「『勝速日』では相手を捉えるだけで、技はきめません。相手を捉えたときの体勢で、掛けやすい技をかけます。要するに、それぞれの技で掛けやすい体勢というのがありますから、技は決まってくるのです。だから、技と形がいろいろとあり稽古する必要がある訳です。形の特性を知り、今の自分の体勢がどの形のどこ近いかを理解することが重要です。」
と答えました。

ちなみに、合気道では、最も大切なのは、技に持っていく前に相手を捉えた状態にすることです。これを合気道では『合わせ』といいます。その次に技が来るのです。ですから、井口師範は「技は枝葉」と表現しました。でも、枝葉であっても大切な合気道の要素であることは間違いありませんので、どうでもよいということではないと思ってください。

こうに説明しますと、中国拳法の方は、中国拳法の形はかなり抽象的で、実際の用法を説明されても、どことなく納得できないところがあったそうですが、この話で、形の重要性と意味がすごく納得できたとのことです。

要するに、戦いの中では、様々な体勢になり得ますが、そのとき、それぞれの体勢から形の中にある技で適切なものに移っていくことができることを考えると、一見無駄な動きをしていると思える形にも重要な意味があるのだと理解できたということです。

井口師範から「合気道の技は一期一会、同じ形でも、毎回少しずつちがう」と教わっていたので、「完璧な形ができればあらゆる相手に効く」ととなえる合気道指導者に対し軽蔑を持って見ていたところもあったのですが、「完璧に形の意味が理解できてれば」という意味でいわれているのなら、それは正しいことを言っていると思います。一方、「機械的に精密にある形を完璧な軌道で再現する」という意味なら、まったく分かっていないということになります。このように言葉とは曖昧なので、話す言葉で相手の技術をわかった気になるのはよくないと反省しました。

さらに、もう一つの反省点は、私自身も形に関して指導する際に、この点が抜けていたと、もう一度考えさせられた稽古でした。今後、技の稽古では、そのポイントを加えて指導する必要があると思いました。他の武道をしている人との稽古は、違った視点で自分の技を振り返ることができるので、指導している私自身も勉強になり、いい刺激になります。

関東からのお客様

今日は関東から大東流合気柔術の修行者の方が技を学びにこられました。

大東流というのは、Youtubeで見たことはあるものの技にかかったことがありませんでしたので非常に興味をもっていました。私の予想では、Youtubeや教則本などで、大東流というのは、当会の骨の技術と皮膚の技術と反射の技術を使ったものじゃないかと思っていました。

当然、技に悩みをもってこられたのですから、大東流の達人ではありませんので、神秘的な技を掛けていただくということはありませんでしたが、当会の技術を紹介しましたところ、私の予想通り、上級者は、当会でいうところの骨の技術と皮膚の技術と反射の技術を駆使して技をかけているようです。

わざわざ関東からこられるだけあって、かなり熱心に稽古されました。

当会の技をお教えする上で、ネックだったのが皮膚の技術と皮膚感覚の技術の違いを思うように説明できないという点でした。

これについては、もっと説明ができるようにならないといけないと思い、もう少し研究が必要と感じました。

まだ、技ができていないので、頑張って稽古されるとのことでした。ただ、知識だけでも、10年、20年先まで進んだとお喜びいただき、関東に帰って行かれました。理解できたように思えても、技を見てもらわないといけないので、また和歌山にこられるとおっしゃっておられました。

井口師範のお墓参り

今日は、仕事が休みでしたので、井口雅博師範のお墓参りに行ってきました。

井口師範のお墓は、現在の紀の川市にあり、私の家から車で小一時間ほどかかる場所にあります。今回は原付で行きました。

井口師範がご健在のころ、車でご自宅までお送りした道を原付で走っておりますと、稽古の帰り道、いつも立ち寄った酒屋さんがありました。

そこの自動販売機で、師範がキリンラガービールを、私は師匠のおごりでコカコーラを買い、車に乗りながら飲んだのが昨日のように思いだされました。

師匠がお亡くなりになって早や12年立ちますが、当時の酒屋さんはまだやっていて、非常に懐かしく、うれしく思いました。

しかし、そこから師匠のお墓まではかなり距離があり、冷えたビールをお供えしたかったので、懐かしむすだけにして立ち寄らず、師匠のお墓に近いコンビニで、師匠の好きだったキリンラガービールの缶を買いました。

花屋さんで買ったお花と冷えたビールを師匠のお墓にお供えしたのが下の写真です。なお、お墓の俗名は、井口師範の武道家としてのお名前でなく、戸籍の名前・行信となっています。

それから過去の写真を見ていますと、懐かしい写真が何点かあったのでついでに張っておきます。二代目吉祥丸道主と師匠が写っている写真や、開祖・植芝盛平翁先生の書を前に師匠ととった写真、私の四段の授与式の写真などです。

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結びについて2

質問があったので、それについて書いておきます。

ある人が、合気道の先生に、「合気道は取りと受けが協力して一体になって行うから素晴らしい。取りは受けを導き、受けは取りに協力することで、すばらしい技が完成する」といわれたそうなのですが、「受けが協力してわざと倒れていては、いつまで稽古しても合気道は護身術にはならないのではないか?」ということでした。

確かに、護身として必要な場面に遭遇したとき、襲撃者が勝手に倒れてくれることは絶対にありません。せめて自らの手で相手を制する技術がないといけないと思います。

実は、受けが協力することは、合気道では「結び」ということに通じます。そこで、受けの協力について述べたいと思います。

この受けの協力という解釈として、2通りあげられます。
①受けは、取りが技がきれいに決まるように協力して自分から倒れる。
②受けは、取りの技が完成できるように、稽古の目的を理解して、目的達成に協力した受けをとる。

「目的は、投げ技なら投げることだから、結局受けは投げられることに協力するということじゃないか」と思われる方は、一見①も②も同じように行おうとするかもしれませんが、目的が違えば、①と②は全く違うものになります。

技の正しい軌道を感じさせるためには、その軌道にわざと倒れてあげる必要がある場合もあります。しかし、攻撃をよける稽古をするなら、しっかりと意思をもって攻撃をしてあげないと、稽古になりません。

当会の指導では、気は伝えるときに出し、攻撃を仕掛ける前には、気は出すなと教えます。この目的は、当たる瞬間までこちらの攻撃を相手に事前に悟られないようにするためです。

一方、一般的な武道では、互いの気持ちをまっすぐ相手に伝えるよう、しっかり相手の目をみて戦うことをよしとします。確かに、正々堂々とした男らしい戦い方といえるかもしれません。相手の目を見据えるメリットとしては、相手の攻撃を事前に察知できるという点があげられます。しかし、その反面、こういう戦いかたでは、こちらが攻撃を出す前に、攻撃個所に向かって気がでますので、すぐに相手に察知されます。すると、体力・運動神経・反射神経・体格のあるものが有利ということになります。

話はそれましたが、このように相手の目をしっかり見据えて戦う戦法は、実は、一般的な武道や格闘技だけでなく、素人が攻撃する際にも行います。ですから、護身を想定した稽古を行う場合、一般的な攻撃に対処できるよう、攻撃を仕掛ける人が事前に気を出して、相手に伝えてあげる必要があります。そのうえで、しっかりと攻撃をしてあげないといけません。ましてや、初めから攻撃目標にあたらないように狙いを逸らせて投げやすくするのでは、相手の稽古にはなりません。この様に稽古の目的に合わせて相手に協力してあげるのが、真の意味での“取りに協力する”ということではないでしょうか。

ボクシングでもミットを持っている人が、相手に対して技が上達できるよう導いて稽古をしています。一方、ミットを持ってい人が、ボクシングで使わない蹴りをいきなり出したりと意地悪く振舞うとどうでしょう。確かに喧嘩では、そういう場面もあるかもしれませんが、試合のための練習をしているのですから、そのために役立つようミットを持つ人は動いているのです。ですから、合気道での協力というのはこういう協力のことで、勝手に倒れてあげるというのではありません。

という私も、自ら倒れることが多いです。でも、これは感覚を伝えるためにやっていることで、伝達される運動エネルギーが弱くて、実際は倒れないかもしれないが、タイミングを教える場合、そのタイミングで倒れる必要はあるのです。これはわざと倒れるのではなく倒れることで導いているのです。生徒にはできる限り感覚を伝えないと、わからないのではと私は思うので、生徒に少しでも感覚がでてくれば、その感覚にのってあげる必要があると考えています。これが受けが協力することだと私は考えています。

この協力関係をもつことが合気道では受け側の「結び」です。前回は取りの結びをお話ししましたが、今回は受け側の「結び」についてお話ししました。