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健康護身術を指導している橋本実です。

東京からの来客

11月12日(火曜日)と13日(水曜日)2日に渡り、東京より空手の師範の方が来られ、合気道の達人の井口師範の秘伝を学んでいかれました。

個人指導の依頼を受けた際、合気道の私が、当身の専門家、しかも空手の師範の方に、とても当身を指導するのはおこがましいと思っておりました。

そこで、当身は大まかな説明をやって、皮膚の技術を習得していただこうと考えておりました。しかし、当日、当身の原理を説明しましたところ、空手の師範の方が日ごろ疑問に思っていた部分と一致し、それが解消できたととても喜んでいただけました。

ちなみに、合気道の当身では、腕力を使って拳を運ぶのではなく、気の流れ(体幹の運動で運動エネルギー)を作って、気の流れにしたがって、肘で拳(拳からから前腕を一つのかたまりとします)を運ぶと発想をします。

要するに、合気道の当身は、運動エネルギー主体で、その運動エネルギーによって、手が運ばれる動きになります。このようにすると、脱力感があり、力感がありませんので、ある意味頼りなく感じます。そのため、腕力で拳を運んだ方が、スピード感、充実感があり、多くの方は、腕力に傾くのも無理はないかと思います。

このように説明をすると、打ち出し方が若干違うだけで、大した違いが無いように聞こえると思いますが、実際に、40kgの砂を満たした砂袋を打つと、この違いが極端にでます。

40kgの砂が満たされていると、砂袋はコンクリートのように、固くなっていますので、腕の力だけで、拳を加速して拳を打ち込むと、日ごろ鍛えておられても、衝撃が即座に手首に帰って来、手首が折れそうになります。それだけでなく、手で加速したパンチは、手だけが動くため、砂袋を動かせるエネルギーが無いので、砂袋は1センチほどゆれるだけです。

一方、体幹に運動エネルギーを作ってから、拳を加速した場合は、砂袋に手が触れた瞬間、運動エネルギーが先に、砂袋に伝わるため、思ったほど衝撃が手首に帰って来ず、砂袋が大きく揺れます。

空手の師範の方もこれを体験され、
「空手の奥儀に、肘と膝が大切とありましたが、これのことだったのですね」
と、おっしゃられ、長い間、疑問だったことがようやく分かったと言っておられました。

空手でも古来の稽古では、巻きわらを打ち、その時に一体感を感じたといわれていますが、このような奥儀が残っているところから、抵抗のあるものを無数に打っている中で、自然と運動エネルギーを生み出してから、拳を肘に乗せて運ぶというような突き方を、昔の人は、身に着けておられたのでしょう。

こう書くと、合気道の当身式のやり方がいいことばかりのように思われるでしょうが、実際に、それを指導すると、
『先ず体が動いてからパンチがでるのなら、簡単に予測されてしまうではないか』
と多くの人は考えてしまいます。その結果、腕力に頼るパンチになってしまうのです。

それが落とし穴です。実は、運動エネルギーを作った時点では、パンチの飛ぶ方向がまだ決まっていないのです。肘で拳を運ぶつもりでいると、パンチを出している際でも、パンチの軌道が変えられます。極端にいうと、パンチ当たる寸前までコントロールできるということです。ですから、相手に当たる少し前に当てる場所をきめてやると、相手はどこを突かれるかわかりませんので受けるのが非常に困難になります。

ですから、当然ですが、パンチの軌道を相手に悟られない技術も必要になり、その技術も当会には存在します。当会では、「指導者の言うことが絶対だから」という発想はありません。「稽古していたらその内わかる」式な指導は出来る限り避けるようにしており、修行者に実際に確かめて、納得していただいて稽古を行っていただきます。

正直いいまして、私は空手のまったくの素人ではありません。在籍期間は3年ほどですが、合気道の修行の合間に、週1のペースで極真会館に通った経験があります。それでも、空手の師範の方に比べますと、空手に触れた程度ですので、今回の個人指導で、合気道と空手の共通する原理を再確認でき、とてもいい勉強になりました。

お問合せ先は
http://kenkogoshin.tank.jp/contact.html

一般稽古スケジュール
http://kenkogoshin.tank.jp/schedule.html

当会ホームページ
http://kenkogoshin.tank.jp/

小説?

生徒さんの一人に、十年以上前にとある道場で体験したことを『新しい合気道と古い合気道』というタイトルで小説風に書いてみて、FaceBookにアップしたと話したところ、是非読みたいといわれたので、アップします。多分文庫本で15ページぐらいになりますので、興味がある人は読んでくださればと思います。

* * * * * * * * * * * * *

午前十時、暖かい日差しが降り注ぐ5月のある日、雲一つ無い透き通ったコバルト色の空の下、さわやかな風を体いっぱいに受けながら、私はバイクを走らせていた。
実は、ネットで検索した合気道の道場に、バイクで向かっているところなのである。師匠がなくなり、ここ数年ずっと燻ぼっていた合気道の情熱に突然火がつき、どうしても合気道がしたくなったのだ。

道場に到着すると、そこの師範が、私の到着を歓迎して下さり、暖かくうけ入れて下さった。師範は、中肉中背ながらも、重厚感を感じさせるオーラをまとった中年の紳士で、あらゆることに自信にあふれているように見えた。
『もしかすると、この師範は期待できるかもしれない』
と、私の心は弾んでいた。

道場に上がると、五十畳以上の綺麗な畳が広がり、窓から差し込んだやわらかい日差しが、照明で照らされた道場内をより明るくしている。開け放たれた窓から、そよ風が流れ込んで、とてもさわやかだ。外から、鳥たちが鳴き声を交わしているのが聞こえてくる。そこに、集まった道場生たちが、楽しげに会話に興じ、みんなが輝いて見える。
「楽しく体験してください。きっといい経験ができますよ」
と、師範は、道場内に案内した私に、声をかけ、微笑んでから、堂々とした歩みで、道場の奥に進んでいった。

「では、始めます!」
と、師範が上げた大きな声に、皆が一同に集まり整列した。
「今日は、体験者がいますので皆さん、よろしくお願いします」
と、私を紹介してから稽古が始まった。

まず、稽古は、準備運動から始まった。受身などの一連の基本の稽古を経て、ようやく投げ技の稽古となった。
投げ技の稽古は、合気道のよくあるパターンで形稽古というものだ。先ず最初に、全員の見ている中、師範が弟子の一人と模範演武を行う。その後、師範の行った技を2人一組になって、攻守交互に交代しながら稽古を行うのである。

師範の演武は、「片手取り四方投げ」であった。片手取り四方投げの『片手取り』というのは、技をかけられる役の『受け』が技を掛ける役の『取り』の手首を片手で掴みにいくことである。そして、片手をもたれた『取り』が、『受け』の関節を取って投げるのである。

師範の演武は、私の知っている合気道とまったく違っていた。
体の捌き方も若干異なるが、一番気になったのが、技のかけ手である『取り』が『当て身』を入れない点だ。私の習った合気道では、『取り』は技を行う途中に、何度かパンチで『当て身』を入れる。とは言っても、実際に相手に当てるのではない。相手の身体ぎりぎりのところで止めるのだ。
『この道場は「取り」は技の中で当て身を使わないのか。癖がでなきゃいいが、少しやりにくいなあ』
と、私は、思った。

「では、稽古はじめ!」
という師範の掛け声のあと、一同に並ぶ道場生が、それぞれペアを組みはじめた。私は、近くにいた茶帯を締めた中肉中背の中年の男性が、私に声を掛けてくれた。
「やりましょう」
「どうかよろしくお願いします」
と、私は、返答した。

『相手は、茶帯ということは、2級か1級。わからないところはリードしてくれる。やり易いだろう』
と、考えていた。
私たちは、互いに、
「お願いします」
と、言って礼を行った。

先ずは、相手が技をかける役の『取り』の担当で、私が『受け』を担当することになった。そこで、私は、相手の右手首を左手で掴みにいった。
『?』
相手の手首を掴んだ瞬間、私に何ともいえない違和感が伝わって来た。
『この感覚では、角度がよくない。力がぶつかり、技がかからないのではないか』
と思った。

『よその道場に来て逆らうような行動はよろしくない。とりあえず技にかかっておこう』
そう思って、私は、相手の動き合わせて倒れることにした。
「自分で勝手に掛かって倒れてくれなくてもいいですよ」
と、微笑みながら相手の男が私に言った。

「すみません。初めてのことなので、合気道では、思い切り掴むのはよくないと聞いていて、丁度よい加減というのがわからなくて……」
と、私は応えた。私が、私なりの『普通に持つ』と流れが途切れ、練習になりそうにないとはとても言えなかったからだ。
すると、相手も私と同じように勝手に倒れてくれる。気を使って、私が掛ける前に、先に倒れてくれている。まるで、相手が人ではなく、乾いたタオルか手ぬぐいを振り回しているような頼りなさを感じつつ技を繰り返していた。

「やめー!」
師範の声で、一同は稽古を止め、道場の端に寄って綺麗に整列して正座した。

「次は、『正面突き小手返し投げ』を稽古します。『受け』が『取り』のミゾオチ、すなわちお腹めがけて、パンチを打ちます。すると、『取り』は、それを捌いて相手の横に入ります」
と、師範が説明すると、その道場生が師範めがけて、パンチを打ち出した。
飛んできたパンチを、師範は、非常に俊敏な動きで体を開いて捌き、美しく舞うようにパンチを避けた。
「次に、このように相手の手を引っ掛けて、相手の手を返すように投げます」
と、説明して技をやって見せた。それから3、4回、左右入れ替えて演武を見せた。

「では、始め!」
という師範の声とともに、私は、先ほど組んだ相手とペアになり稽古を始めた。

先ずは、私が『受け』である。私は心の中で気合を入れて、
『エイっー』
と、正面突きを行った。
『?』
なんと、『取り』の相手は、私の出したパンチにすくんで、捌くことができず、急ブレーキを踏んだように立ち止まっていた。私のパンチは、相手の鳩尾の3センチ前で静止していた。

そこに、突然、師範の声が飛んできた。
「殺気が強すぎる! 合気道は和合の武術。殺し合いじゃないんだから、そんなに殺気をこめてはいけない!」
生徒の動作を見て回っている師範が、偶然、私たちの稽古する近くを通りかかっていたのだ。

『この師範、何を言っているんだ?』
私は、師範が言ったことばに呆気にとられてしまった。私は、殺気をこめたつもりはなく、普通に気をこめてパンチを出しただけだった。しかし、体験させてもらっている以上、師範に逆らうわけにもいかないので、
「はい、すみません」
と、私は返事をし、回りを見た。

ちょうど、そのとき、道場内が少し暗くなったのを私は感じた。
『やばいな、太陽が雲に隠れたようだ。天気予報では、今日、雨と言っていたが、帰るまでもってくれればいいがなあ』
と、私は考えていた。

それからすぐに、隣の女性を見た。女性は相手のいない空間に向かって手を差し入れるように緩やかにパンチをしている。
『そうか、ここでは相手にあたらないようにパンチを出すのか。しかも緩やかに……』
仕方がないので、私も隣の女性の真似をしてパンチを出すことにした。すると、相手の男は、蝶が舞うごとく、綺麗に体を捌いて、小手返しを私に掛けた。

『こんなので、皆、護身に使えると真剣に思っているのか? 的外れの当て身を捌く稽古をして、何の意味があるのか?』
と、私の心の中に、疑問が沸々と沸いてくるのを感じていた。私は、灰色の絵の具だけで、絵を描いているような味気ない思いで、稽古を続けた。
一度、疑問を持ってしまった私は、他の技を行っても、まったく色あせて感じ、稽古が終わった時点ではその記憶さえ残っていなかった。

今や外は、太陽が、黒い雲に覆われ、道場の窓を通して見える外の景色は、夕方のように暗かった。それに、先ほど輝いて見えた道場内までもが薄暗くくすんで見える。
『ここでは私の理想とする合気道は学べない』
もう、私の結論は決まっていた。

稽古を終えて、師範は、私の方にやってきた。
「体験はどうでしたか?」
と、師範が微笑みながら聞いきた。
「はい、ありがとうございました。家に帰って入会するかどうか考えて見ます。今日はどうもありがとうございました」
と、無難な挨拶をし、私は帰ろうとした。

すると、
「何か疑問があるのではないですか?」
と、師範は、私の顔をジッと見て尋ねた。
「実は当て身のことが少し気になってまして……」
と、師範の真っ直ぐな目に、つい正直な気持ちの言葉が出てしまった
「当て身ですか?」
「はい、皆さんあまり当て身を稽古されていないようなので……」
「そうですね。全国的に今の合気道は当て身を稽古しないようになっていますね」
「合気道の開祖は、当て身7分に投げ3分とおっしゃっておられたと聞いています。その点が、気になっているのです」
「それはもう時代遅れの古い合気道のことですね。合気道は日々進化しています。時代に合わせてどんどんと進化しているのです。今は、平和な時代にあった合気道に変っているのです」

「それでは、いざというときに護身の役にたたないのではないですか」
「護身とはですね。危ない状況にならないのが真の護身術です。ですから、護身の技など使わない状況にならないといけない。精神が高まればそういう状況に自然となるものなのです」
「でも、実際、普通の人が、偶然に、通り魔など、不慮の事件に巻き込まれるというケースが非常にふえています。だから護身用の技は大切ではないですか?」
「そうではない。何故なら、精神性が高まればそんな目に会うことがありません。失礼な言い方ですが、そういう人は、精神性が低いから、そういう目に会うのです」
「……」
私は、この師範の言葉に絶句してしまった。高僧や宗教家のような精神的指導者がいうならまだしも、護身術として武道を教えている合気道の師範からそういう言葉が出るとは考えてもみなかったからだ。
それよりも、師範の言っていることに対し、何かしっくり来ない漠然とした違和感が私の中に現われていた。私は、しばらく沈黙していた。

そして、師範の目をジッと見て、おもむろに切り出した。
「それじゃあ、既存の宗教と同じような気がしますし、そうなると、武道という戦う形式をとる必然性は全くないような気がします」
「いいえ、そうじゃない。既存の宗教での精神の追求は、あくまでも自分に向けたものだけに限られています。一方、合気道は、他者と同時に行うものです。今の合気道は他者と一つの形を完成させるのです。一致協力とともに精神を高めていく。これほど完成されたものが他にあるでしょうか。それこそ〝動く禅〟です。私たちは、戦争で戦うために稽古しているんじゃない。合気道という人の生きるべき道を修行するために稽古をしているのです」
と、師範が応えた。

確かに、精神主義者としては、非の打ち所の無い論法だ。だが、私の中に、何とも言いがたい違和感がまとわりつき、何かが足元で絡み付き、まるで泥沼に足が囚われているようなもどかしさを感じていた。
「それでは、2人ペアでやるソーシャル・ダンスの方がより合っているように思います」
と、私は、きり返した。

「ソーシャル・ダンスには、コンテストがある。要するに他者と比較するということです。それは見た目さえ良ければということにつながります。ところが、精神の高さというのは、見た目だけつくろってもダメなのです。飽くまでも、自分視点でないといけません」
と、首をかしげている私の顔を覗き込みながら、師範はゆっくりと説明をしていく。

「合気道には『受け』と『取り』の正反対の2つの役割があり、それを交互に行うことで相手の身になって考えられるように仕組まれています。試合やコンテストがないのは、己の精神に向うためです。また、武道の形式をとっているのは、敵と和合するという尊い意味があるからです」
と、師範は目を輝かせて述べた。

私は、相変わらず、何か納得いかないものを感じていた。
「私の学んだ合気道とあまりにも考えが違いすぎて、面食らっています。開祖も戦える武道性を大切にしたと聞いています」
と、私は応えた。
「しかし、世の中は開祖がいた時代から変っているのです。ですから、それに合わせて変っていかないといけない。この平和な時代の合気道では、当て身のような程度の低い相手を痛めつける技術はふさわしくありません。これからは如何に精神を向上させるかということです」
と、師範は私を諭した。

「当て身を程度が低いと言うなら、当て身を用いた開祖も精神的に程度が低かったということになります。また、全国には空手や拳法など当て身を中心にする武道をしている人も精神が低いということになりますが……」
「そうじゃない。合気道で如何に精神を向上させるかという点で話しているのです。空手はスポーツだからそれでいい。私は、精神向上するもっとも近道の話しをしているのです」
と、師範は応えた。

「……」
私は、私の心の中では、先ほどから感じている違和感がどんどんと膨らむのを感じていた。
「私は時間をもっと精神を高める方向に向けてはどうかといっているのです。当て身のような低いことに時間をさいていると、精神も低いままで終わってしまう。合気道は、時代とともにどんどん進化しているのです。最も進化した新しい合気道をしないと意味がありません」
と、その師範は続けた。

私は、師範の話を聞きながら考えていた。
『武道として始まった合気道を、まったく違う方向に進めるのは本当に進化といえるのだろうか? 違う方に向かうのなら混乱をさけるためにも名前を変えるべきだ。まあ、これ以上、話し合っても平行線をたどるだけだ』

私は、師範の目を真っ直ぐ見つめ、
「最も進化した合気道というのが、現時点では理解できていません。家に帰って、師範が言われたことをしばらくじっくり考えたいと思います。今日はどうもありがとうございました」
と、言った。
「多分、分からないのじゃなく……。あなたは、人を痛めつけることにこだわっているから分かりたくないだけじゃないかと思います。それなら、K1かグレーシー柔術をやって、チャンピオンを目指せばいい。そうすれば、最強の格闘家になれますよ」
「私は、世界一の格闘家をめざしている訳じゃありません。私は師匠が真の達人だと思っています。私は師匠の技を目指したいのです」
と、私が話すと、師範は、鼻で笑って、
「井口さんは全然達人ではありませんよ。あなたが思っているほど、井口さんは大した技を持っていませんでしたよ。私に言わせればお話にならないぐらい何も知らない。剣や杖(じょう)だってろくに出来ないと聞いている。それに、もう死んでしまっているんだから、技は習えません。もう時代は変っているのです」
と、こう私に応えた。
「井口師範は、柔道、空手、剣道、銃剣道など黒帯を取っています。何も知らないとはいえないと思います。それに、井口師範を大したことがないというのでしたら、私が攻撃しますので、井口師範と同じように、後ろからくる相手を、見ないで捌いて見せてください」
「そこですよ。すぐに、腕づくで、解決しようとする。それが、精神性が低いと指摘する点です」
「そうじゃありません。師範は、さまざまな武道を体現している井口師範を何も知らないとおっしゃいました。それでは、師範の技がどれだけすごいのか見せてほしいといっているだけなのです」
と、私が言うと、師範は、一瞬うんざりしたようにため息をつき、見下げるように私を見た。

『結局この人も口だけの人か……』
と、私がそう思った瞬間、
「じゃあ、ちょっと技を見せてあげましょう。これから見せる技は、滅多に人には見せませんが……」
と言って、道場の真ん中に、ずかずかと歩いていき、居残りで稽古している2人の男の弟子に声をかけた。二人とも、襟が擦り切れた年季のはいった道着を着ている。
師範は、この二人と座って礼をおこない、立ち上がってから、一方の男の方に手首を持つようにと、自分の手を前にかざした。
その男が師範の手首を掴んだ瞬間、ピクッと痙攣をおこしたように見えたかと思うと、体が反り返り、踵が浮いた状態になっている。その後、師範は、軽く掌で押して倒した。

バシーン!
と、道場内に大きく受身の音が響いた。
「おうー! 久々の師範の神技だ」
と、歓声が上がった。

道場内に残っていた生徒たちの視線が、一気に、師範の演武に集まった。
「そうそう、滅多に見せない師範の神技。今日、見られるのはめちゃラッキー」
と、袴をはいた若い女性がうれしそうに言った。

居合わせた生徒たちは一斉に、その場で正座して師範の演武を見始めた。
師範が、もう一人の男と目を合わせた。指で自分の首元を指した。それが横面打ちの合図だ。その男は、師範に示された首を向けて斜め横から右の手刀を打ちだした。
その瞬間、師範は、異様な速さで体を捌き、相手の攻撃をやり過ごしつつ、相手の手刀を捕らえた。すると、その男は、ピクンと痙攣し、体が反り返り、爪先立ちで立ったまま動けない状態になった。そこで、師範は、2メートル先に投げ飛ばした。
バシーン!
と、道場内に受身の音が響く。

次々と、二人の弟子たちは、師範の指示どおりに、攻撃をしていく。片手取り、正面打ち、横面打ちといろいろな攻撃をしかけるが、どれも師範の手に触れた瞬間、体が痙攣したようにピクッとなって、反り返り、倒されていく。まるで師範の手から高圧電流がながれているかのようだ。
今や、二人はまさに操り人形と化している。

さらに、師範は、一度に二人で掛かってくるよう指示を出した。
二人は同時に、師範の手をそれぞれ左右から掴んだ。すると、二人は、高圧電流にふれたように痙攣し、反り返って、つま先立ち状態になったと思ったら、そのまま絡め取られ、重なって押さえこまれてしまった。
「すげー」
と、また歓声が上がった。

『多分、実戦空手の猛者ですら、この演武を見たら驚嘆の声を上げるに違いない』
と、私は思った。それほど、この師範の演武には迫力があった。

師範は、絡め取った二人を起こすと、彼らと正座で向かい合い、終わりの礼を行った。
「ああ、もう終わりか」
と、ため息混じりの声が聞こえてきた。
その場にいた生徒たちは、演武の終わりとともに、それぞれ立ち上がり、道場内にばらばらと散っていった。

師範は、私の方へゆっくりと歩いてきた。
「どうです。これが本当の合気道の技です。最も進化した合気道です」
と、笑顔で言った。
「師範の技は、お世辞抜きで、本当にすごいと感じました。後は家でしばらく考えて、教えていただくかどう決めたいと思います。今日はどうもありがとうございました」
と、私は、師範に礼を言って、その道場を後にした。

私は、バイクを走らせながら考えていた。
『今日のような場合、あの師範が井口師範であったならどうするだろう?』
と、私は自問した。
『井口師範なら、体験者に直接掛かってくるように言うだろう。しかも、あっさりと一瞬で決着をつけてしまうだろう』
と、即座に私は自答した。

さらに、私は考えていた。
『多分、あれを見たら殆どの人はひどく感動するにちがいない。あの技に比べると、井口師範の技はとても地味だ。何故なら、最小限で動くからだ。相手を制する最適な一瞬の間合いを、井口師範は正確無比に捉え、制する。だから、周りから見ると、ゆっくり動いているように見える。だが、攻撃している側は、一瞬消えたように、井口師範の動きがとてつもなく速く感じられる。そこがあの師範と違う点だ』

私は、井口師範の動きを思い出しながら、今しがた見た師範の演武と比べていた。
『結局、あれは演武以外の何モノでもない。受けの協力があって初めて成り立つ技だ。とはいっても、あの師範に相当な技術が無ければできないのも事実だ』
私は、今日あの師範が言ったことを再度思い出していた。

『なるほど、今日あの師範が言ったことに嘘はないのだろう。だが、私の求めているものとは全然ちがう』
井口師範の技を経験している私は、あの師範の技の神秘さや迫力にはまったく心が動かなかった。むしろ、大げさなパフォーマンスにしか見えなかった。

『結局は、気を入れたパンチにビビることの方が大いに問題だ』
と、私はバイクを走らせながら心の中でつぶやいた。

あの技を見た瞬間、私は既に答えを出していたのだった。
『私は、あの師範の弟子にはなるつもりはない』と……。

空は、来るときとは打って変わって、太陽も青空もどんよりとしたダークグレーの雲に隠れ、昼前というのに、当たりは夕ぐれ前のように薄暗く、その中を私はバイクをアクセル全開にして飛ばしていた。

合気道で「力を抜く」とは?

合気道では、指導者がよく「力を抜け!」といいいますが、
『これが分かるようで、結局は、分からない。分からないのは自分だけなのだろうか?』
と、思いつつ、
「はい」
と、返事してしまうのが日本人の修行者のつらいところではないでしょうか?

ちなみに、布団に寝転がっているときが、大概の人の一番力が抜けているときだと思うのですが、どうでしょうか?

さらに、
「果たして、立ったり、座ったりした状態で、そんな寝転がったときと同じように力をぬくことが可能なのだろうか? でも、師範がいうから間違いがないのだろう」
と、考え込んでしまう人もおられるかもしれません。

正直にいいますと、このように、どこかおかしいと考えられている方は、正常な思考の持ち主だと思います。本当に力を抜いてしまったら、立つことすらできません。筋力を使わずに人間は立つことすらできません。

これに対する反論として、
「ヨガの空中浮遊のように、気のパワーが強ければ、空中に浮くこともできるとのだから、気さえ出せばどうでもできるはすです」
と、反発される人がいるかもしれません。

しかし、皆さんもそのような空中を飛ぶことができる人を実際に見かけたことがあるでしょうか? 私も同様、そのような生身の人物を、生まれてこの方まだ見ていません。

確かに、数グラムのものを触れずに気で動かすというのをテレビで見たことがあります。しかし、直接目の前で見たわけではありませんので、面白く見せるためにトリックがなされていても分かる術がありません。でも、一歩譲って、例え数グラムのものを気で動かせると仮定しましょう。果たして、それだけの力で、筋力を使わず、重たい身体を自由にコントロールすることが可能でしょうか? しかも、それができるのは特殊な人ですから、われわれ凡人にとうていできることではありません。

多くの人は、「気」を、ドラゴンボールを代表とするマンガなどでよく出てくる特別なエネルギーと考えていて、気さえ貯めれば、地球サイズの星でも、ぶつけると粉々にできるといようなものを考えられているようですが、井口師範の示す「気」とは、確かに不可思議なものもありましたが、そのような現実から懸け離れたモノではなく、もっと身近なモノでした。

それには、心の有様や無意識を含む「意識」的な意味が含まれていて、筋力を否定することではありません。井口師範は「『気』が出なければ、立つことすらできない」と話されいます。ですから、井口師範が示した『気』とは、意識で制御できる現象をさすものと考えていただくといいと思います。

そこで、「力を抜く」という話にもどりますが、これは、腕力を使わないということです。要するに、肩の筋肉である三角筋や力こぶの筋肉である上腕二頭筋など腕の筋肉を使わないということです。

「腕を動かそうと思ったら、腕の筋肉を使わないとできないではないか。それに、上で言っていることと反するのではないか」
と、反論がでると思いますが、そこで登場するのが、当会では「骨の技術」という技術なのです。

例えば、相手を押そうとした場合、腕を曲げてから、グッと腕力を使って相手を押すのが普通だと思いますが、「腕を伸ばしたまま相手を押してください」というと、だれでもすぐにできますね。

その場合、腕の力は使わず、足の力で相手を押している訳です。要するに、関節を通じて、骨を骨で押しているわけです。このように、理屈でおいても、腕力を用いない方法が説明できるのです。

ただ、骨で骨で押すというだけでは技術とは言いがたいです。何故なら、それだけですと、少し腕力の上の人に簡単に捻じ伏せられてしまうからです。それ以上に、骨に伝える力の生み出し方、力の伝え方などの問題が次に待ち構えています。

当会では、その方法の一つとして、手で行う当身を「骨の技術」の入門として生徒に教えており、急激な力の生み出し方と伝え方を覚えていただきます。これは、単に相手を打撃するための稽古というのではなく、他の秘伝の技術で活きて来る技術であり、基礎養成も目的も兼ねています。

また、「骨の技術」として、この瞬間的な力の伝わり方以外に、連続的に伝える動作も稽古し、「足の三角」の理論を教えています。このブログでも、気が向けば、当身の理論や、足の三角の理論などお話ししたいと思っています。

今回の話しは、詳細にわたって書くと膨大な文字数になるので、詳細ははぶきましたが、合気道で悩んでおられる方に、少しはヒントになったのではないかと思います。少なくとも力を抜く方向性は理解していただけたと思います。

ただ、力を抜く方向性で、さまざまな技術が必要であるということもわかっていただけたと思います。その点は、後は、ご自分で考えていただければと思います。いくら考えても、さっぱり考え付かない上、どうしても気になる方は、一度ご体験に来てくださればと思います。

お問合せ先は
http://kenkogoshin.tank.jp/contact.html

一般稽古スケジュール
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当会ホームページ
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合気道の呼吸力

合気道では呼吸力が大切といわれています。しかし、指導者により考え方がまちまちで、合気道修行者は、ほとんどその実体はわかっていないというのが実情ではないでしょうか。

井口師範は、「呼吸力を使うと、重いものを軽くひょいと持つことができる」
と、説明しています。

ところで、多くの指導者は、「呼吸力とは、力を使わない技術」というような指導をし、弟子たちに「力を使うな」と指導します。

すると、弟子たちは、「取り(技の掛けて)が呼吸力を出したときは、受け(技の受けて)は、力をまったく感じず、フワッとした感覚になるはずだ」と勘違いをします。これが呼吸力だと、多くの合気道修行者が考えていることではないでしょうか?

ところが、井口師範の呼吸力をまともに受けたときの感じは、まるで軽自動車VSブルドーザーの押し合いのような、こちらの力が圧倒的なパワーにつぶされるという感がありました。
「翁先生(合気道開祖)の呼吸力もすごかった」
と、井口師範は言っていました。

また、
「吉祥丸二代目道主に、座り技呼吸法で、呼吸力で逆らったとき、呼吸力がぶつかって、指が変形した」
と、言って、私に曲がった指を見せて、
「『井口さん、私はまだまだ負けませんよ』と僕を睨んで言っとった。それから、後で、大阪の田中万川(大阪合気会の創始者)が『井口さん、相手は二代目やで、ちょっとぐらい加減せなあかんで』と言われた」
と、笑いながら私に話してくださいました。

このように、多くの合気道修行者は勘違いをしています。
実は私も、井口師範に師事し初めたとき、同じことを考えていました。
というのは、呼吸力というのが分からなくて、いろいろな本を読んで調べたのですが、そのようなことを言っている人が圧倒的に多かったのです。

そこで、
「呼吸力というのは、本などを見ると、人それぞれ言っていることが違うようですが、一体どのようなものなのでしょうか?」
と、井口師範に質問しましたところ、
「曰く、それな、どれも正しくて、どれも正しくない。
何故かというと、それは呼吸力の一面しか捉えてないからや。
呼吸力は、受け手の受け方次第で、感じ方が違う。ある時は、まるで雲か霞を押してるごとくフワフワして力がはいらなかったり、まるで戦車を手で押しているかのように圧倒的な力でやられたりとな。
僕のようにな、時々とはいえ、翁先生や吉祥丸二代目道主に遠慮なく逆らう人は滅多にいないから、呼吸力の実体がわからんモノが多いんや。そやから、皆、まちまちなことを言うんや」
と、応えてくださいました。

ですから、万全の備えをしている相手であれば、呼吸力をまともに受けたなら、相当な力と感じるものなのです。

例えば、私がある道場の方に、呼吸力の出し方を教えましたところ、その方が、自分の道場で呼吸力を出して行うと、
「凄い腕力ですね」
と、必ず言われるそうです。
「力を入れていない」
と、いくら言っても
「そんなことはありません。凄い力です」
と、言われ、力を入れていないといってもまったく信じてくれないそうです。

このように、多くの人は、呼吸力というのを「あれよあれよと思う間にやられてしまうモノで、力は感じないはず」と、勘違いをしているのです。

ちなみに、井口師範の技にも、そういう力を感じさせない技があります。呼吸力にはそういった一面もありますが、それとは別に、そういった技が二種類あり、当会では、『皮膚感覚の技術』と『空間感覚の技術』と呼び、稽古しております。

    *  *  *  *  *
ご興味を持たれた方は、一般稽古の無料体験にご参加ください。

なお、個人指導におきましても、20分~30分間技を体験していただいて、もしご興味があれば、その後、原理を有料の指導で行っております。合気道以外の武道をしている方でも結構ですので、ご興味をもたれた方は是非一度ご連絡ください。

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「真の合気道の実現に向けて」という記事を読んで

先日ネットを検索していると、合気ニュースの論説で、スタンレー・プラニン氏の記事がでてきました。そこには武道性を失った合気道について書かれていました。

私は、この記事を読んで、プラニン氏の考えに共感を覚えました。というのは私の師匠の井口師範の合気道のあり方がプラニン氏の提案する合気道にあったからです。プラニン氏に共感される方はたくさんいらっしゃると思います。合気道を愛するみなさんも、是非読んでいただきたいと思います。

http://www.dou-shuppan.com/aikido_w/134_stan/

合わせの技術

当会で指導する合気道の秘伝である「合わせ」の技術について、少し説明したいと思います。当会で「合わせ」というのは、相手の力の方向と強さ、相手の動き、相手の心理の動きなどを利用する技術をさします。そして、「合わせ」とは、単に相手に合わせるだけにとどまらず、相手の動きに乗ってついにはリードしていく技術で、合気道の達人がいう「相手と一体になれ」という言葉を、技術に表現し直したものです。

当会で指導する合気道の秘伝の基本は次の4つで成り立っています。これは、本ブログで何度かお話したことですのが、とりあえず記載しておきますと、
①骨の技術
②皮膚の技術
③皮膚感覚の技術
④空間感覚の技術

そして、さらに②~④の秘伝の中に、さらに「合わせ」と呼ぶ技術があります。
種類に分けると次の3つに分かれます。
Ⅰ.皮膚の技術の合わせ
Ⅱ.皮膚感覚の技術の合わせ
Ⅲ.空間感覚の技術の合わせ

これを具体的に説明しますと、
Ⅰの皮膚の合わせでは、相手の力の方向を読んで、その方向に緩めるように合わせます。特徴として合わせが成立し、相手をリードできたとき、相手と自分の丹田がつながった感覚がでます。

Ⅱ皮膚感覚の合わせは、入り身で生じた運動エネルギーを相手に送りつつ、送り込む場所を常に変化させることによって相手を崩す合わせの技術です。感覚的には、相手の動きやあるいは圧力の生じる有効点のすぐ横に追従しつつ、リードするようなの合わせとなります。特徴としては、力感覚が殆ど感じられなく、相手の動きにのっていくような感じで、皮膚の技術の合わせと異なり、軽く相手と丹田でつながる感覚があります。

Ⅲの空間感覚の合わせは、相手が狙った場所を移動しつつも、相手の意識を離さないように、まるで、「馬の前につるしたニンジン」のようなイメージで相手を導く合わせです。特徴としては、皮膚感覚の物理的な相手の力に沿うという感じではなく、心理的な相手の圧力に沿うという感じで、捕り(術者)は相手の空間的な隙に入って行くような感覚を持ちつつ、丹田からイメージの棒が出ていて、相手とつながった感覚があり、受けは吸い込まれるような感覚を持ちます。

文章に書くと非常に分かりにくい表現になってしまって、多分わからない人の方が多いかもしれません。何となく感覚を掴んでくださればと思います。どの「合わせ」も、相手の力に沿う感覚と相手と丹田でつながった感覚とあり、慣れると「相手と一体」となる感覚が出てきます。

「相手と一体になる」とはよく達人レベルの方がおっしゃることですが、これは、才能に恵まれた特別な人だけがわかることで、わずかに才能がある人でも難しいものだと思います。ですから特別な才能の無い一般人では、この感覚に辿り着くのはほぼ不可能ではないでしょうか。

ですから、一般人は、「相手と一体になる」ということばだけでは、技の上達は見込めません。私の経験からすると、①~④の技術を理解し、Ⅰ~Ⅲの合わせの技術を理解し、全てを統合し、「相手との一体感」に持っていく方が時間が短縮でき、特別な才能のない人でも少なくともそこまではいけます。

時間の短縮ということですが、私の指導経験から、合気道歴10年以上の黒帯の方たちに、単に①と②の基本技術を伝授しただけでも、「私の○○年はなんだったんだろう」と、口をそろえておっしゃいました。しかも、これらの技術は、合気道をしている人なら一時間~数時間の個人指導でで分かります。ですから、全ての秘伝をあわせると、特別に才能の無い普通人なら20年以上は、近道ができるのではないかと思います。そこから、わずかに才能が有る人なら達人の道に進めるかもしれません。

ちなみに、私が指導した方々が自分の所属道場で座り技呼吸法で、この基礎技術を試されたら、その方々よりずっと長い人でも簡単にあしらえるようになったといっておりました。

少し話がそれましたが、当会では、4つの基本技術に沿った3つの合わせの技術を指導しております。ご興味が持たれた方は、一般稽古の無料体験にご参加ください。

なお、個人指導におきましても、20分~30分間技を体験していただいて、もしご興味があれば、その後、原理を有料の指導で行っております。ご興味をもたれた方は是非一度ご連絡ください。

お問合せ先は
http://kenkogoshin.tank.jp/contact.html

合気道上達の秘訣

私の合気道の師匠である井口師範は、よく「相手と一つになれ」と指導されていました。

しかし、私はその感覚がよく理解できす随分と悩みました。「相手と一つになる」という感覚は、技の全ての状況で、非常に適切な表現です。ですから、ある程度わかるようになると「なるほど、その通りだ」と思いますが、出来ない段階の人にとっては、あまりにも抽象的過ぎる表現でまったく理解できないのが当然だと思います。

もう既にお亡くなりになっているのですが、合気道の達人で、たくさん本を出版され、多くの一流のスポーツ選手を育てた氣の研究会の藤平光一師範も、特別才能の無い普通の人の指導には随分と難儀されておられたと聞いています。

このように分かっている人から見ると、当たり前のことでも、普通の人にとっては難解きわまりないのです。

この理由は、「実際」と「感覚」にズレがあるため、指導者が話すことが、実際の動きと違いが生じるからです。

例えば、ある技で入り身で入る場合、感覚的に45度だと思っても、実際はまったく違う場合もあります。しかし、実際できるようになると45度に感じのです。これは円転の理についてもいえます。正確に円に動くと力がぶつかって上手くいきませんが、完全な円を描いているような感覚で動くと上手く行きます。この場合、物理的に見て、実際は円になってはいません。

ですから、ただ指導者の話を聞いて、すぐにそれが出来る人は、その感覚の通り動ける人で、その感覚を理解できる人です。要するに才能が有る人というわけです。一方、普通の人は、言われた通りしていると、全然出来ません。

そこで、自分にできないと思ったら、指導者の言うことを、自分なりに分析・整理することが大切です。そのために、さまざまなヒントになることを、本やネットで情報を集めたり、さまざまな武術の人と交流したりし、徹底的に考え抜き、整理するといいと思います。案外ヒントはその辺に落ちているものです。

「勝手なことをあれこれ考えず、ただ師範のいうことを素直に聞いて、コツコツ稽古していればいつか必ずできるようになる」ということをよく耳にしますが、そういうことをいう人が本当に師範と同じように出来ているかというと、よく観察すれば分かりますが、そうではないことが多いのではないでしょうか。

そして、できるようになった時点で、指導者に技に間違い無いかチェックしていただくことが最もいいのではないでしょうか。

とにかく、合気道で行き詰ったら、情報を集め、取捨選択して、整理し、分析することだと思います。そのためには、合気道にこだわらず、役に立つと思われる情報を集めることだと思います。

合気道上級者でもやってしまう失敗

合気道の技をかけるとき、中級者や上級者でさえ、やってしまう失敗があります。それは「技をかけ急ぐ」という失敗です。要するに“相手を倒すことだけしか頭にない”状況になってしまうことです。

そういう状況になると、相手は逆らいやすくなり、結果として技が決まりません。達人である井口師範は「合気道の技は自然でないといけない。」と常に言っておられました。自然とは、相手が気ついた時点では、もう技が掛かっている状態にあることを意味します。あまり自然なので気づかないということです。

では、「かけ急ぐ」のを解消するのにどうするかという問題になります。
当会では、それを実現するには、技がかかるまで、数ステップの段階があると教えています。具体的には、次の4つのステップで技をかけるように指導します。( )内は井口師範が説明した内容で、当会での指導内容と対比しております。

  • ①合わせ(相手に気が流し易い状況をつくる)
    ②骨の技術により運動エネルギーを作る(気の流れを作る)
    ③運動エネルギーの伝達(気の伝達)
    ④導き(気の流れにそって相手を崩していく)
    ⑤抑え技や投げ技をかける

ただし、①の“合わせ”には3種類あり、当会では次の名称で区別しています。

  • A.皮膚の技術による合わせ
    B.皮膚感覚の技術による合わせ
    C.空間感覚の技術による合わせ

ちなみに、私の師匠である井口師範は、「抑え技も投げ技も、結局は枝葉。肝心なのは、『気の流れ』・『呼吸力』・『螺旋形』で相手を導くことや。枝葉にとらわれていてはいかん!」とよく言われていました。

しかし、いきなり、初心者には「気」と言っても、分かるようで分からないと思います。そこで私は、AとBの”合わせ”においては「気」を運動エネルギーとして説明し、③の空間感覚を使う“合わせ”では、心理学的なトリックによる心理操作と説明しています。

それから、昔、ある技を行っているときに師匠に、「どれぐらいの角度に手を持って行ったらいいのでしょうか?」と質問しました。それに対し、師匠は、「万能な角度とか考えたらあかん。合気道の技は千変万化、そのときそのときで全て変るんや。同じ形など存在せーへん。それやったら皆わからんから、仮に、こうやということで、形というのがあるんや。それでも、受けが変ればやっぱり変る。万能で完全な形なんかないんや」と言われていました。

要するに、合わせを失敗すると、どんな角度に持って行こうとも、腕力でやっているということになるのです。それほど「合わせ」が大切だということです。ただし、テコの原理で、最も小さな力でいける角度はありますが、それは合わせではありません。ですから角度を気にすると、木を見て森を見失うことになりますので、一言添えておきます。

尚、井口師範は「合わせ」とは一言も言われませんでした。井口師範は「技のポイントはコレ。分かるね? コレ! コレが秘伝! それから次がコレ。それで、コレ。こうする! コレ全部、秘伝! いいね? ホンなら、言うたとおりやって見て!」というような感じでしたのた。「コレ」といわれても、だと後で分かりにくいので、私は勝手に合気道関係の本など参考に「合わせ」とか「導き」とかせっせと名前をつけていきました。

師匠は「秘伝には名前は無い。名前があったらこだわる。こだわったら自然とは言えん。合気道は茶道でいう一期一会を大切にせなあかんのや。合気道の本質は一期一会の技や。そやから秘伝には名前はないんや」と言われていました。

しかし、「名前がないと覚えられない」のです。達人にもなると、「あの技をあのようにかける」など思わず、自然に体に動くとのでしょうが、天才でない稽古段階の人は、それを習得するには、名前がないと心に掛かりませんから、覚えられません。

翁先生も「覚えて忘れよ」というような教えで、技の名前さえこだわらなかったようですが、それでは、一部の才能ある天才しか体得はむずかしいのではないかと私は考えています。

少し話がそれますが、以前の話ですが、ジークンドーという武術をやっていたとき、そのセミナー会場で、ある武道をやっている人に、「私は合気道をやっていた」というと、「ああ、合気道ね。俺は合気道は武術と思っていないですわ。柔道や空手は稽古すれば、誰でも、ある程度のレベルになけれど、合気道は、何年やっても、まともに使える人は稀で、殆どが使えない人ばかりで口ばかり。俺が今までにあった合気道の黒帯の人全部、空手や拳法で3ヶ月ぐらい稽古した人のパンチすら捌けない人ばかりでしたよ。 だから、合気道はね……」と言われたことがあります。まあ、『悔しかったら、立ち会ってみろ』とでも言っているようでした。

そこで、その方に、パンチを打たせ、技の説明し、術理がわかれば、簡単に合気道の技が使えるということを納得していただきました。

ですから、「秘伝やノウハウや術理は邪道で、合気道の技は、自然と体得するもの」とおっしゃる方が、合気道をやっているとわりと多く見かけますが、お金を頂いて生徒を持つ以上、わかりやすく教えるのが指導者の義務だと私は考えています。そのためには、やはり、分かりやすく、理をもって説明してあげるのが大切だと考えています。

それはともかくとして、最終的には、術理が体に染み付いて、自然と出なければいけないということで、その結果は「技にこだわらなくなる」ということです。ですから、初めは、こだわるべきところはこだわらないと稽古にならないということだと思います。

皮膚の技術と皮膚感覚の技術

最近、日記の方がおろそかになっていました。一応、このブログは生徒に、稽古した内容に近いことを書くと言っておりますが、最近、実は、日記には書けない「相手を崩すための技術」を稽古していたためです。日記に書けないというのは、秘伝であるということもあるのですが、図解であらわさないと説明が困難な技術であるというのが大きな理由です。

ちょっと興味がある人のために、少し触れておきますと、最近まで稽古していた、肩に触れて崩すという技術の一番大切な考え方と技術を稽古していたのです。

また、基本的な稽古にもどりましたので、今回の稽古のまとめを書くことにしました。
今回の稽古内容—————————————————
皮膚感覚の技術の稽古・「体の転換」の術理・「座り技呼吸法の術理」・拳法などのパンチに対する「合わせの術理」を稽古しました。

体の転換の術理では
①気の流れを伝える「体の転換」(合気会二代目吉祥丸道主が演武で行った形)
②皮膚の技術の合わせを使った「体の転換」
③骨の技術の陰の技法を使った「体の転換」

座り技呼吸法の術理では
①皮膚の技術
②皮膚の合わせの技術

パンチに対する合わせの術理では
①パンチを出す前に相手を崩す技術
②パンチを受けて相手を崩す技術

以上

映像をUPしたかったのですが、上手く取れておらず、後日、できればですが、編集してUPできればと思っています。
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ちなみに、よく混乱するのが、皮膚の技術と皮膚感覚の技術です。ともに皮膚に関係がありますが、それぞれまったく異なる技術です。

特に感覚で大きな違いがあります。皮膚の技術では、自分(自分の丹田)と相手との間に力感覚のあるツナガリを感じますが、一方、皮膚感覚の技術では、「ゼロ感覚」というぐらい、力感覚のツナガリは感じません。ツナガリ感としては、相手にべったりとくっついていくというかへばりついて行くというような、いやらしいツナガリ感です。

この様に合気道では、力感覚を感じつつツナガリがあったり、力感覚がゼロであるツナガリがあったりと、状況や技術により異なっています。しかし、通常の合気道の道場では、この違いをまったく説明しないため、高段者の人でも、混乱していると聞きます。

でも、この違いの区別なしに、技をかけることをしないと、効く技にならないのではないかと思います。

このブログを読まれている合気道修行者の方で、今までその区別が分からず、技が効いたり、効かなかったりするとお悩みの方は、効いたときのイメージを思い出して、それをヒントに、稽古に当たっていただければと思います。

皮膚感覚2

私的に非常に忙しく、ブログの更新がなかなかできませんでしたが、前回に引き続き、皮膚感覚について書いていきたいと思います。まず、下の動画を見て下さい。

これは、合気会の二代目・故・植芝吉祥丸道主の演武の映像です。ご覧の通り、不思議な感覚を与えるほど、非常にやわらかい演武です。この映像を見て『凄い』と思える人は、大した感性の持ち主か、本当に分かっている人のどちらかです。

吉祥丸道主の演武の柔らかさは、非常に高度な皮膚感覚の技術と空間感覚の技術を駆使して行われている結果です。これだけ美しく演武できる方はYoutubeの映像でも少ないのではないかと思います。

とある昔、合気道の集まりで、「あれは弟子が勝手についてきているだけだからだ」ということを自分の弟子にカゲで話していた師範の方がいましたが、その人の演武はとても硬く、皮膚感覚も空間感覚の技術もは使われていませんでしたので、それが読み取れないのだなあと、私は見ていました。

皆さんも、経験でお分かりになると思いますが、弟子がどれだけ巧く立ち回っても、柔らかく見せることはできません。

巧く気の流れ(運動エネルギー)に乗って、それが受けに伝わっているから柔らかい動きが実現できるのです。

また、吉祥丸道主のすばらしさは、動きに途切れがなく、波が寄せては引いて、また寄せるがごとく、常に気の流れを起こしています。

吉祥丸道主が好んで使われている起こし方では、前進移動、回転、沈みです。当会でいうところの、骨の技術の第一式~第三式の技術ですので、会員の方には、非常に参考になると思います。

会員でない方でブログを読まれている方で、この意味を知りたいかたは、本ブログで「気について2 当身の大切さ」で、当身の4種類の用法として説明していますので、そちらを参照してください。

なお、吉祥丸道主は、相手を導くために、気の流れを起こしておられますが、技の中でこの骨の技術の原理を如何に使うかという点でも、非常に参考になると思います。