小説?

生徒さんの一人に、十年以上前にとある道場で体験したことを『新しい合気道と古い合気道』というタイトルで小説風に書いてみて、FaceBookにアップしたと話したところ、是非読みたいといわれたので、アップします。多分文庫本で15ページぐらいになりますので、興味がある人は読んでくださればと思います。

* * * * * * * * * * * * *

午前十時、暖かい日差しが降り注ぐ5月のある日、雲一つ無い透き通ったコバルト色の空の下、さわやかな風を体いっぱいに受けながら、私はバイクを走らせていた。
実は、ネットで検索した合気道の道場に、バイクで向かっているところなのである。師匠がなくなり、ここ数年ずっと燻ぼっていた合気道の情熱に突然火がつき、どうしても合気道がしたくなったのだ。

道場に到着すると、そこの師範が、私の到着を歓迎して下さり、暖かくうけ入れて下さった。師範は、中肉中背ながらも、重厚感を感じさせるオーラをまとった中年の紳士で、あらゆることに自信にあふれているように見えた。
『もしかすると、この師範は期待できるかもしれない』
と、私の心は弾んでいた。

道場に上がると、五十畳以上の綺麗な畳が広がり、窓から差し込んだやわらかい日差しが、照明で照らされた道場内をより明るくしている。開け放たれた窓から、そよ風が流れ込んで、とてもさわやかだ。外から、鳥たちが鳴き声を交わしているのが聞こえてくる。そこに、集まった道場生たちが、楽しげに会話に興じ、みんなが輝いて見える。
「楽しく体験してください。きっといい経験ができますよ」
と、師範は、道場内に案内した私に、声をかけ、微笑んでから、堂々とした歩みで、道場の奥に進んでいった。

「では、始めます!」
と、師範が上げた大きな声に、皆が一同に集まり整列した。
「今日は、体験者がいますので皆さん、よろしくお願いします」
と、私を紹介してから稽古が始まった。

まず、稽古は、準備運動から始まった。受身などの一連の基本の稽古を経て、ようやく投げ技の稽古となった。
投げ技の稽古は、合気道のよくあるパターンで形稽古というものだ。先ず最初に、全員の見ている中、師範が弟子の一人と模範演武を行う。その後、師範の行った技を2人一組になって、攻守交互に交代しながら稽古を行うのである。

師範の演武は、「片手取り四方投げ」であった。片手取り四方投げの『片手取り』というのは、技をかけられる役の『受け』が技を掛ける役の『取り』の手首を片手で掴みにいくことである。そして、片手をもたれた『取り』が、『受け』の関節を取って投げるのである。

師範の演武は、私の知っている合気道とまったく違っていた。
体の捌き方も若干異なるが、一番気になったのが、技のかけ手である『取り』が『当て身』を入れない点だ。私の習った合気道では、『取り』は技を行う途中に、何度かパンチで『当て身』を入れる。とは言っても、実際に相手に当てるのではない。相手の身体ぎりぎりのところで止めるのだ。
『この道場は「取り」は技の中で当て身を使わないのか。癖がでなきゃいいが、少しやりにくいなあ』
と、私は、思った。

「では、稽古はじめ!」
という師範の掛け声のあと、一同に並ぶ道場生が、それぞれペアを組みはじめた。私は、近くにいた茶帯を締めた中肉中背の中年の男性が、私に声を掛けてくれた。
「やりましょう」
「どうかよろしくお願いします」
と、私は、返答した。

『相手は、茶帯ということは、2級か1級。わからないところはリードしてくれる。やり易いだろう』
と、考えていた。
私たちは、互いに、
「お願いします」
と、言って礼を行った。

先ずは、相手が技をかける役の『取り』の担当で、私が『受け』を担当することになった。そこで、私は、相手の右手首を左手で掴みにいった。
『?』
相手の手首を掴んだ瞬間、私に何ともいえない違和感が伝わって来た。
『この感覚では、角度がよくない。力がぶつかり、技がかからないのではないか』
と思った。

『よその道場に来て逆らうような行動はよろしくない。とりあえず技にかかっておこう』
そう思って、私は、相手の動き合わせて倒れることにした。
「自分で勝手に掛かって倒れてくれなくてもいいですよ」
と、微笑みながら相手の男が私に言った。

「すみません。初めてのことなので、合気道では、思い切り掴むのはよくないと聞いていて、丁度よい加減というのがわからなくて……」
と、私は応えた。私が、私なりの『普通に持つ』と流れが途切れ、練習になりそうにないとはとても言えなかったからだ。
すると、相手も私と同じように勝手に倒れてくれる。気を使って、私が掛ける前に、先に倒れてくれている。まるで、相手が人ではなく、乾いたタオルか手ぬぐいを振り回しているような頼りなさを感じつつ技を繰り返していた。

「やめー!」
師範の声で、一同は稽古を止め、道場の端に寄って綺麗に整列して正座した。

「次は、『正面突き小手返し投げ』を稽古します。『受け』が『取り』のミゾオチ、すなわちお腹めがけて、パンチを打ちます。すると、『取り』は、それを捌いて相手の横に入ります」
と、師範が説明すると、その道場生が師範めがけて、パンチを打ち出した。
飛んできたパンチを、師範は、非常に俊敏な動きで体を開いて捌き、美しく舞うようにパンチを避けた。
「次に、このように相手の手を引っ掛けて、相手の手を返すように投げます」
と、説明して技をやって見せた。それから3、4回、左右入れ替えて演武を見せた。

「では、始め!」
という師範の声とともに、私は、先ほど組んだ相手とペアになり稽古を始めた。

先ずは、私が『受け』である。私は心の中で気合を入れて、
『エイっー』
と、正面突きを行った。
『?』
なんと、『取り』の相手は、私の出したパンチにすくんで、捌くことができず、急ブレーキを踏んだように立ち止まっていた。私のパンチは、相手の鳩尾の3センチ前で静止していた。

そこに、突然、師範の声が飛んできた。
「殺気が強すぎる! 合気道は和合の武術。殺し合いじゃないんだから、そんなに殺気をこめてはいけない!」
生徒の動作を見て回っている師範が、偶然、私たちの稽古する近くを通りかかっていたのだ。

『この師範、何を言っているんだ?』
私は、師範が言ったことばに呆気にとられてしまった。私は、殺気をこめたつもりはなく、普通に気をこめてパンチを出しただけだった。しかし、体験させてもらっている以上、師範に逆らうわけにもいかないので、
「はい、すみません」
と、私は返事をし、回りを見た。

ちょうど、そのとき、道場内が少し暗くなったのを私は感じた。
『やばいな、太陽が雲に隠れたようだ。天気予報では、今日、雨と言っていたが、帰るまでもってくれればいいがなあ』
と、私は考えていた。

それからすぐに、隣の女性を見た。女性は相手のいない空間に向かって手を差し入れるように緩やかにパンチをしている。
『そうか、ここでは相手にあたらないようにパンチを出すのか。しかも緩やかに……』
仕方がないので、私も隣の女性の真似をしてパンチを出すことにした。すると、相手の男は、蝶が舞うごとく、綺麗に体を捌いて、小手返しを私に掛けた。

『こんなので、皆、護身に使えると真剣に思っているのか? 的外れの当て身を捌く稽古をして、何の意味があるのか?』
と、私の心の中に、疑問が沸々と沸いてくるのを感じていた。私は、灰色の絵の具だけで、絵を描いているような味気ない思いで、稽古を続けた。
一度、疑問を持ってしまった私は、他の技を行っても、まったく色あせて感じ、稽古が終わった時点ではその記憶さえ残っていなかった。

今や外は、太陽が、黒い雲に覆われ、道場の窓を通して見える外の景色は、夕方のように暗かった。それに、先ほど輝いて見えた道場内までもが薄暗くくすんで見える。
『ここでは私の理想とする合気道は学べない』
もう、私の結論は決まっていた。

稽古を終えて、師範は、私の方にやってきた。
「体験はどうでしたか?」
と、師範が微笑みながら聞いきた。
「はい、ありがとうございました。家に帰って入会するかどうか考えて見ます。今日はどうもありがとうございました」
と、無難な挨拶をし、私は帰ろうとした。

すると、
「何か疑問があるのではないですか?」
と、師範は、私の顔をジッと見て尋ねた。
「実は当て身のことが少し気になってまして……」
と、師範の真っ直ぐな目に、つい正直な気持ちの言葉が出てしまった
「当て身ですか?」
「はい、皆さんあまり当て身を稽古されていないようなので……」
「そうですね。全国的に今の合気道は当て身を稽古しないようになっていますね」
「合気道の開祖は、当て身7分に投げ3分とおっしゃっておられたと聞いています。その点が、気になっているのです」
「それはもう時代遅れの古い合気道のことですね。合気道は日々進化しています。時代に合わせてどんどんと進化しているのです。今は、平和な時代にあった合気道に変っているのです」

「それでは、いざというときに護身の役にたたないのではないですか」
「護身とはですね。危ない状況にならないのが真の護身術です。ですから、護身の技など使わない状況にならないといけない。精神が高まればそういう状況に自然となるものなのです」
「でも、実際、普通の人が、偶然に、通り魔など、不慮の事件に巻き込まれるというケースが非常にふえています。だから護身用の技は大切ではないですか?」
「そうではない。何故なら、精神性が高まればそんな目に会うことがありません。失礼な言い方ですが、そういう人は、精神性が低いから、そういう目に会うのです」
「……」
私は、この師範の言葉に絶句してしまった。高僧や宗教家のような精神的指導者がいうならまだしも、護身術として武道を教えている合気道の師範からそういう言葉が出るとは考えてもみなかったからだ。
それよりも、師範の言っていることに対し、何かしっくり来ない漠然とした違和感が私の中に現われていた。私は、しばらく沈黙していた。

そして、師範の目をジッと見て、おもむろに切り出した。
「それじゃあ、既存の宗教と同じような気がしますし、そうなると、武道という戦う形式をとる必然性は全くないような気がします」
「いいえ、そうじゃない。既存の宗教での精神の追求は、あくまでも自分に向けたものだけに限られています。一方、合気道は、他者と同時に行うものです。今の合気道は他者と一つの形を完成させるのです。一致協力とともに精神を高めていく。これほど完成されたものが他にあるでしょうか。それこそ〝動く禅〟です。私たちは、戦争で戦うために稽古しているんじゃない。合気道という人の生きるべき道を修行するために稽古をしているのです」
と、師範が応えた。

確かに、精神主義者としては、非の打ち所の無い論法だ。だが、私の中に、何とも言いがたい違和感がまとわりつき、何かが足元で絡み付き、まるで泥沼に足が囚われているようなもどかしさを感じていた。
「それでは、2人ペアでやるソーシャル・ダンスの方がより合っているように思います」
と、私は、きり返した。

「ソーシャル・ダンスには、コンテストがある。要するに他者と比較するということです。それは見た目さえ良ければということにつながります。ところが、精神の高さというのは、見た目だけつくろってもダメなのです。飽くまでも、自分視点でないといけません」
と、首をかしげている私の顔を覗き込みながら、師範はゆっくりと説明をしていく。

「合気道には『受け』と『取り』の正反対の2つの役割があり、それを交互に行うことで相手の身になって考えられるように仕組まれています。試合やコンテストがないのは、己の精神に向うためです。また、武道の形式をとっているのは、敵と和合するという尊い意味があるからです」
と、師範は目を輝かせて述べた。

私は、相変わらず、何か納得いかないものを感じていた。
「私の学んだ合気道とあまりにも考えが違いすぎて、面食らっています。開祖も戦える武道性を大切にしたと聞いています」
と、私は応えた。
「しかし、世の中は開祖がいた時代から変っているのです。ですから、それに合わせて変っていかないといけない。この平和な時代の合気道では、当て身のような程度の低い相手を痛めつける技術はふさわしくありません。これからは如何に精神を向上させるかということです」
と、師範は私を諭した。

「当て身を程度が低いと言うなら、当て身を用いた開祖も精神的に程度が低かったということになります。また、全国には空手や拳法など当て身を中心にする武道をしている人も精神が低いということになりますが……」
「そうじゃない。合気道で如何に精神を向上させるかという点で話しているのです。空手はスポーツだからそれでいい。私は、精神向上するもっとも近道の話しをしているのです」
と、師範は応えた。

「……」
私は、私の心の中では、先ほどから感じている違和感がどんどんと膨らむのを感じていた。
「私は時間をもっと精神を高める方向に向けてはどうかといっているのです。当て身のような低いことに時間をさいていると、精神も低いままで終わってしまう。合気道は、時代とともにどんどん進化しているのです。最も進化した新しい合気道をしないと意味がありません」
と、その師範は続けた。

私は、師範の話を聞きながら考えていた。
『武道として始まった合気道を、まったく違う方向に進めるのは本当に進化といえるのだろうか? 違う方に向かうのなら混乱をさけるためにも名前を変えるべきだ。まあ、これ以上、話し合っても平行線をたどるだけだ』

私は、師範の目を真っ直ぐ見つめ、
「最も進化した合気道というのが、現時点では理解できていません。家に帰って、師範が言われたことをしばらくじっくり考えたいと思います。今日はどうもありがとうございました」
と、言った。
「多分、分からないのじゃなく……。あなたは、人を痛めつけることにこだわっているから分かりたくないだけじゃないかと思います。それなら、K1かグレーシー柔術をやって、チャンピオンを目指せばいい。そうすれば、最強の格闘家になれますよ」
「私は、世界一の格闘家をめざしている訳じゃありません。私は師匠が真の達人だと思っています。私は師匠の技を目指したいのです」
と、私が話すと、師範は、鼻で笑って、
「井口さんは全然達人ではありませんよ。あなたが思っているほど、井口さんは大した技を持っていませんでしたよ。私に言わせればお話にならないぐらい何も知らない。剣や杖(じょう)だってろくに出来ないと聞いている。それに、もう死んでしまっているんだから、技は習えません。もう時代は変っているのです」
と、こう私に応えた。
「井口師範は、柔道、空手、剣道、銃剣道など黒帯を取っています。何も知らないとはいえないと思います。それに、井口師範を大したことがないというのでしたら、私が攻撃しますので、井口師範と同じように、後ろからくる相手を、見ないで捌いて見せてください」
「そこですよ。すぐに、腕づくで、解決しようとする。それが、精神性が低いと指摘する点です」
「そうじゃありません。師範は、さまざまな武道を体現している井口師範を何も知らないとおっしゃいました。それでは、師範の技がどれだけすごいのか見せてほしいといっているだけなのです」
と、私が言うと、師範は、一瞬うんざりしたようにため息をつき、見下げるように私を見た。

『結局この人も口だけの人か……』
と、私がそう思った瞬間、
「じゃあ、ちょっと技を見せてあげましょう。これから見せる技は、滅多に人には見せませんが……」
と言って、道場の真ん中に、ずかずかと歩いていき、居残りで稽古している2人の男の弟子に声をかけた。二人とも、襟が擦り切れた年季のはいった道着を着ている。
師範は、この二人と座って礼をおこない、立ち上がってから、一方の男の方に手首を持つようにと、自分の手を前にかざした。
その男が師範の手首を掴んだ瞬間、ピクッと痙攣をおこしたように見えたかと思うと、体が反り返り、踵が浮いた状態になっている。その後、師範は、軽く掌で押して倒した。

バシーン!
と、道場内に大きく受身の音が響いた。
「おうー! 久々の師範の神技だ」
と、歓声が上がった。

道場内に残っていた生徒たちの視線が、一気に、師範の演武に集まった。
「そうそう、滅多に見せない師範の神技。今日、見られるのはめちゃラッキー」
と、袴をはいた若い女性がうれしそうに言った。

居合わせた生徒たちは一斉に、その場で正座して師範の演武を見始めた。
師範が、もう一人の男と目を合わせた。指で自分の首元を指した。それが横面打ちの合図だ。その男は、師範に示された首を向けて斜め横から右の手刀を打ちだした。
その瞬間、師範は、異様な速さで体を捌き、相手の攻撃をやり過ごしつつ、相手の手刀を捕らえた。すると、その男は、ピクンと痙攣し、体が反り返り、爪先立ちで立ったまま動けない状態になった。そこで、師範は、2メートル先に投げ飛ばした。
バシーン!
と、道場内に受身の音が響く。

次々と、二人の弟子たちは、師範の指示どおりに、攻撃をしていく。片手取り、正面打ち、横面打ちといろいろな攻撃をしかけるが、どれも師範の手に触れた瞬間、体が痙攣したようにピクッとなって、反り返り、倒されていく。まるで師範の手から高圧電流がながれているかのようだ。
今や、二人はまさに操り人形と化している。

さらに、師範は、一度に二人で掛かってくるよう指示を出した。
二人は同時に、師範の手をそれぞれ左右から掴んだ。すると、二人は、高圧電流にふれたように痙攣し、反り返って、つま先立ち状態になったと思ったら、そのまま絡め取られ、重なって押さえこまれてしまった。
「すげー」
と、また歓声が上がった。

『多分、実戦空手の猛者ですら、この演武を見たら驚嘆の声を上げるに違いない』
と、私は思った。それほど、この師範の演武には迫力があった。

師範は、絡め取った二人を起こすと、彼らと正座で向かい合い、終わりの礼を行った。
「ああ、もう終わりか」
と、ため息混じりの声が聞こえてきた。
その場にいた生徒たちは、演武の終わりとともに、それぞれ立ち上がり、道場内にばらばらと散っていった。

師範は、私の方へゆっくりと歩いてきた。
「どうです。これが本当の合気道の技です。最も進化した合気道です」
と、笑顔で言った。
「師範の技は、お世辞抜きで、本当にすごいと感じました。後は家でしばらく考えて、教えていただくかどう決めたいと思います。今日はどうもありがとうございました」
と、私は、師範に礼を言って、その道場を後にした。

私は、バイクを走らせながら考えていた。
『今日のような場合、あの師範が井口師範であったならどうするだろう?』
と、私は自問した。
『井口師範なら、体験者に直接掛かってくるように言うだろう。しかも、あっさりと一瞬で決着をつけてしまうだろう』
と、即座に私は自答した。

さらに、私は考えていた。
『多分、あれを見たら殆どの人はひどく感動するにちがいない。あの技に比べると、井口師範の技はとても地味だ。何故なら、最小限で動くからだ。相手を制する最適な一瞬の間合いを、井口師範は正確無比に捉え、制する。だから、周りから見ると、ゆっくり動いているように見える。だが、攻撃している側は、一瞬消えたように、井口師範の動きがとてつもなく速く感じられる。そこがあの師範と違う点だ』

私は、井口師範の動きを思い出しながら、今しがた見た師範の演武と比べていた。
『結局、あれは演武以外の何モノでもない。受けの協力があって初めて成り立つ技だ。とはいっても、あの師範に相当な技術が無ければできないのも事実だ』
私は、今日あの師範が言ったことを再度思い出していた。

『なるほど、今日あの師範が言ったことに嘘はないのだろう。だが、私の求めているものとは全然ちがう』
井口師範の技を経験している私は、あの師範の技の神秘さや迫力にはまったく心が動かなかった。むしろ、大げさなパフォーマンスにしか見えなかった。

『結局は、気を入れたパンチにビビることの方が大いに問題だ』
と、私はバイクを走らせながら心の中でつぶやいた。

あの技を見た瞬間、私は既に答えを出していたのだった。
『私は、あの師範の弟子にはなるつもりはない』と……。

空は、来るときとは打って変わって、太陽も青空もどんよりとしたダークグレーの雲に隠れ、昼前というのに、当たりは夕ぐれ前のように薄暗く、その中を私はバイクをアクセル全開にして飛ばしていた。