【「あう」という日本語】2

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、前回の話の続きをしたいと思います。


「合わせる」

前回お話ししたように、「あう」という言葉は元来は「一つになる」ことを意味しています。言い方を変えると「合計する」というわけでした。

この考えからすると、相反する2つのものであっても、「あう」と、一つのものとなることができるということです。

例え、相手が敵であっても、「あう」という考えの元では、相手と一つになるということが可能だということです。

さらに、「あう」を名詞にしたとき、「あい」という言葉になります。

合気道開祖・植芝盛平翁先生は、「合気とは愛なり」とおっしゃいました。この言葉から「愛」とは、相手と一つになること、すなわち「愛」とは「調和」であると言えます。

実は、「愛」は音読みですからもともとの 倭言葉ではありませんが、「合い」という響きは「愛」に通じるという点で、合気道の「愛」は「合い」を包括したさらに広い意味となり、対象が何であろうと「調和」するということになるわけです。

それが本来の古来から脈々と受け継がれた日本の考え方です。ですから、日本では神は八百万といって、無数にいて、善も悪もなくそれぞれが調和して存在しているとするのです。

そして、調和した状態が気に満たされた状態、不調和が気が枯れた状態と考えます。


合気道は禊の行

合気道の開祖は「合気道は禊の行」ともおっしゃられています。

禊とは、穢れを払う神道の儀式の事です。神道では気が枯れた状態を「穢れ(気枯れ)」といいます。その穢れた状態をきょめるのが禊です。

禊は「身を削ぐ」というところから来ているといわれますが、「肉を削ぐ」のではなく、身についた穢れを水で洗い流すということです。

ちなみに、「み」は水に通じています。神道では、「天」「火」「水」「地」の4つのエレメントで、万物の創生を考え、純粋で清らかなものが天に、濁った粗いもの地に積もったと考えられ、その中間に、「火」と「水」が存在して、万物を構成していると考えています。

ですから、人は「ひ」と「み」に分けられ、魂は「ひ」、身体は「み」ということになっています。

そして、穢れというのは「ひ」ではなく、「み」に起こるものとするわけです。

そこで身についた穢れも、禊で払えるわけです。ちなみに、魂の場合は「曲がる」という発想をします。真っ直ぐなっている魂が正常で、曲がった魂が「まがひ」と言って分類します。

話はもどりますが、結局、合気道は、真っ直ぐな魂が、身の穢れをなくして、調和を目指して行う武道ということが言えるのです。

次回は、合わせるということで、こういった考えと技がどう結び付くかについて考えていきたいと思います。


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