【合気道の前提:我々は神である】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、前回は古い合気道では天津祝詞を奏上する話をし、その目的は心身統一、要するに心と体の調和を取ることだという話をしました。

今回はもう少し具体的にその効果について話したいと思います。


神道では人間の行為も神といえる

 

古事記などの書物を読むと、意図のある神の行為で神が生まれたりします。

そいうった観点からすると、小宇宙であり、神の御霊である僕たちは神であり、その行為もまた神だということが言えるのです。

その行為が我からでた「我良し」の行為は曲がつ神(悪神)であり、真心からでた行為は神であるわけです。

ですから動作一つをとってもすべて神とみなすことができます。

行為を神というとわかりにくいですが、一つのもの、例えば行為はプログラムと考えるといいと思います。

例えば、掴むという動作を考えると、人は何かを掴もうとすると、目的のものを見た瞬間、ほぼ無意識でそういうが最適に動作が行われています。

ところが、そういった動作でも、例えば人よりも早く掴もうと考えると、急に動きがぎこちなくなりますね。そして慌てるあまりつかみ損ねたりしますよね。

このように考えると、動作一つにしてもプログラムされている何かがあるのが分かると思います。

そういった点を考えると、祝詞の効果というのは、人に備わっているプログラムをより洗練されたものにすることができると宣言することで、自分の可能性を信じ、正しく稽古に臨む頃構えを作るには非常に持ってこいのもので遭ったのかもしれません。

 


 心理学的なテクニックの必要性

 

確かに、昔の人は、現代人の僕らと違って、神の存在を純粋に信じることができ、ただ祝詞を奏上するだけで、十分に心身を統一することができたと思います。

ところが現代社会では、急激な科学の発達に伴い、神の入る余地が非常に少なくなっています。

宗教というと特に日本人はネガティブにとらえることが多いと思います。

これは、マッカーサー元帥の教育改革により、戦後の日本人に宗教は怖いものと植え付け、二度と第二次世界大戦で見たように純粋に神国日本を信じて特攻隊への志願するようなアメリカに脅威を起こさせるような人間を無くすようにされたのも一つの要因です。

ですから、私たち日本人は、よく人が集まっていると、「お前ら、何かの宗教か?」ということがありますが、必ず軽蔑の意味が含んでそういいます。

そういった教育をうけた日本人である僕たちはただ単に祝詞を奏上するだけでは、心身統一はおろか何の効果ももたらしません。

そこで祝詞にかわる心理学のテクニックが僕たちには必要だと思います。次回はその点について述べたいと思います。

 


 

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