【螺旋】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今年も残すところ10日ばかりとなりました。そこで、今年の当会での指導の問題点を考えてみました。


合気道の基本も極意も螺旋

井口師範は「合気道の極意は、呼吸力、気の流れ、螺旋形」とおっしゃいました。

螺旋は中国拳法で言えば粘勁と呼ばれるものと同じで、当会では、準備運動の際に、気功を一部入れていて、その中で単人粘勁という動作を入れています。

人間は基本的にある一定の方向の力に対してはすぐに反応できます。ところが力があっちこっちに変化すると急に対応できなくなるものです。

これは、反応速度というものがあり、認知してから動作に移すまで時間がかかるためです。

ですから、合気道では一点で一定の力で相手を押すということはせず、螺旋を使って、力が掛かる部分を移動させていくわけです。

螺旋は技術的には、当会の皮膚感覚の技術に分類できますが、接触面を螺旋状に変えることによって、相手にとって読みにくい動作となるため、相手を導くのに非常に都合がいいのです。

ところが、会員の皆さんどうやらそのことに関してあまり理解できていないことに最近気づきました。

一応は理屈では旋は理解できているようですが、技で意識して使ってはいないようなので、来年からは螺旋の相対稽古を入れていくことにしました。


4種類の螺旋

ちなみに、片手で掛ける螺旋には4種類あり、左右の手で考えると合計8種類になります。右手で掛ける螺旋を例にあげますとつぎのようになります。

  1. 相手の右手の外側と右手の内側を最初に接触させてから 相手の手に蛇が螺旋状に巻き付くように巻き付いていくことで相手の手を動かす 行う内回し螺旋。
  2. 相手の左手の内側と自分の右手の外側を接触させてから、外まわし螺旋。
  3. 相手の右手の内側と自分の右手の内側を最初に交差させて行う交差の内まわし螺旋。
  4. 相手の右手の外側と右手の外側を最初に接触させて行う交差の外まわし螺旋。

この螺旋の動きが基本になって、合気道の技が行われ、特に非接触の対打撃系の技に明らかな螺旋を用います。以下がその一例です。

内まわし螺旋

正面突き小手返し投げ、正面突き回転投げなど

外まわし螺旋

横面打ち四方投げ、横面打ち入り身投げ、横面打ち小手返し投げ

交差の内まわし螺旋

正面打ち、横面打ち、正面突きなどでは、小手返し投げと入り身投げです。

交差の外まわし螺旋

正面打ちなら、一教、二教、回転投げ、横面打ちなら、一教、二教、三教、四教、回転投げ、入り身投げなど、正面突きでは小手返し投げと入り身投げです。

相手の力とぶつからないために、合気道の各技は螺旋を用いています。

ですので、来年からはかなり意識できるように螺旋を指導するつもりです。

そのため、螺旋を基本稽古の中に組み入れ、各会員がどこにどの螺旋が使われるのかをしっかりと意識できるよう指導するつもりです。


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【無抵抗主義と合わせ】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今日は合気道の合わせについてちょっと違った角度からお話ししたいと思います。

何かというと、合わせとは無抵抗主義だという話です。


合気道は無抵抗主義

「無抵抗主義の中に潜んでいるものは、大いなる抵抗主義ですよ」
と、合気道開祖はビデオの中で次のように言われています

これは、一般の人にはかなり意味不明の言葉となっていると思いますが、技術に関しては合わせについておっしゃっているともいえるのです。。

実は、合わせを完全に行うと、抵抗感がゼロになります。すると、殆ど力を使わないで相手を導くことができます

開祖のお言葉は、技術面だけでみても合わせについて、非常に的確でこれほど的を射た表現はないのではないかと思えるぐらいです。

また、この完全に合わせたゼロ状態とでもいいますか、この状態には非常に特殊な感覚をおぼえます。

ですから、井口師範はそのときの感覚は特別なので必ず隠す必要があると言われました。

「合気道は感覚が命なので、相手に技を掛けるとき完全に合わせた状態で掛けたらあかん。少し力感が残るようにしておきなさい。何故ならその感覚を盗まれるからや。合気道の秘伝は見てもなかなか分かるもんじゃないけど、感覚は伝わるんや」

ただし、技を受ける方がかなり感覚を鋭敏にしないとわかるものではありません。

しかし、井口師範自身、開祖の翁先生から感覚で技を受け取ったということが分かるお話しではあります。

そのため、翁先生にあまり手を取ってもらっていないお弟子さんは、人によって言うことがまちまちで、ある人は「翁先生の腕は鋼鉄のように固かった」といい、別の人は「まるで綿でも掴んでいるようだった」というわけです。

それから、実は合わせを行うと、技を仕掛ける方は、かなり不思議な感覚となります。

掛ける方でもそうなのですから、技にかかる方はかなり意味が不明で、自分が何故か相手にコントロールされている状況になる訳です。

ゆえに、技において、合わせという無抵抗主義は大いなる抵抗主義が潜んでいるといえるのです。


最後は心の在り方の問題

ところが、この完全な合わせを行うことを教わっていても、どこかで対抗心がでてくると、相手を完全にコントロールするということができません。

一番問題なのが、心の在り方の問題です

僕たち日本人は、学校教育で、常に人と比べることを強いられてきました。

それは通信簿でも分かるように、評価は他との比較です。運動能力も学業も何もかも他との比較によって進められてきました。

道徳や体育などでは、他と協力するようにと指導されても、テストでは協力は許されないのです。

このような教育の結果、常に自分と他を比較し、対立するように育ち、魂の奥まで対立が染みついています。

ですから、僕たちは、相手に掴まれたときに、対立ではなく調和をすることが、相手を導く一番よい方法だと理屈で分かっていても、中々技にでないのです。

特に、相手が大きかったり、人前でするとか心に負荷がかかるような場面では、どうしてもこの合わせるということができなくなってしまいます。

この心の問題が一番合わせを難しくしているのです。

そういった点を考慮すると、自分自身も含め、やはり生活全体から、対立を生まない意識を持つ訓練が非常に大切と最近はつくづく思うのです。


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合気道の当て身と積の話

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今朝、散歩していると、アスファルトの割れ目から枯れた草が覗いているのをみました。多分、春から秋にかけては緑いろの草がのぞいていたのでしょう。

かなり堅いアスファルトを突き破って顔を出してくる雑草の生命力には驚かされますが、雑草の力が強いのではなく、小さな力の持続がアスファルトを破る力になるそうです。

とても合気道ぽく思いました。それで、今回はこの話題にしたいと思います。

合気道の当て身と他の武道の打撃

少し前に合気道と和と差のを話をしましたが、当身は積の話になるのですが、別に算数の話をするつもりはありませんのでご安心ください。

実は、僕は、渾身の一撃を打ちだすより、軽く小突いた方が強い打撃がでるとよく言われます。

よっぽどへたくそかと思われるかもしれませんが、僕は、一応は昔に打撃系格闘技もやっていて、素人パンチではなく、並みのパンチは出せます。

軽く小突いた打ち方をする場合は合気道の当て身をつかうからです。

ただし、まずお断りしておきたいことは、打撃系格闘技の打撃方法より、合気道の打撃方法の方が優れているということをいいたいのではありません。

退会選手やプロ格闘家の人たちのパンチは殺人的であるというのは間違いのない事実です。

ただ、違う点は伝授方法があるかないかという点で、そういった格闘技では個人の才能に依存していて、僕の学んだ合気道ではきちんと伝授方法があったということです。


合気道の当て身は掛算

では、この違いは、どこにあるかというと、原理に違いがあいます。

僕がやった打撃系武道、格闘技の場合は、筋力が打撃力の中心でしたが、合気道は運動エネルギーを使います。

さらに、もう一つの違いはイメージによるものだと思います。

合気道の場合、説明がかなり厄介なので、ボールを打撃するということで説明をしていきたいと思います。

まず、打撃系格闘技の場合ですが、この場合スピードを優先するため、

  1. 目標をボールの後方の空間と定めます。
  2. 構えから、足の筋力と腰の筋力を使って、地面の蹴りと腰の回転を同時に起動します。
  3. 素早くボールを打ち抜きます。

イメージとしては、目標をボールの後方の空間と定め、素早くボールを打ちぬくようにします。

一方、合気道の当て身の場合は少し異なります。

  1. 身体全体が加速して、身体に運動エネルギーを作り出します
  2. 打撃する目標部に手を持ってきます
  3. ボールの表面をぶち破るつもりで打撃を打ち込みます
  4. ボールの中央部に手が入ったと感じたら、ボールともども押し込んでいく連れていくイメージでそのまま打ち込みます

合気道の当て身の相手ともども引き連れていくというフィーリングでは、実際、接触しているときの時間が長くなります。

そのため小さな力でも持続時間が長いため、時間と力の積である力積が大きくなります。

実は衝撃力はこの力積によってきまるため、軽く出したように見える合気道の当て身の方が結果的に強く感じる訳です。これが合気道の積の話でした。



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【霊と体のバランス】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、最近は霊主体従の話をしていますが、合気道関連の本を読んでいると、霊が大事で体は二の次という発想をもった方もいらっしゃるようです。

しかし、合気道では、バランスを重視し、精神面、物理面がどちらも大切です。

今回は、僕の失敗談をお話ししたいと思います

易学でも、陰極まれば陽に転ずるといわれますが、まさしくその通りで、霊に傾くことで、真逆の物理面で実際によくない現象が起こる経験でした。

でも信じないと言われる方は、別に信じてもらえなくても構いません。何事もバランスが大切ということです。


霊に傾くと、妙な物理現象が起こる

誰でも『超能力があったらいいなぁ』と思ったことがあるのではないでしょうか?

僕もそう思ったクチで、色々な心霊の本とか読みあさりました。そして、元々子どものころから心霊体質というのもあり、ときどき幽霊が見えることがありました。

そういった体質もあって、そういうことに意識がいくようになると、常に心霊が見えるようになりました。

そうすると、不思議なことに、そういうものが自分に集まってくるのです。

ただ、見えるだけならいいのですが、実際に現象面でその影響がでるようになりました。

例えば、かなり精神的な動揺がおこると、自分の周りのものが壊れるという現象とかが起こってきたのです。

単に偶然といえばそうかもしれないというレベルでしたが、あるとき、「本当にありえない」と思う現象が起こりました。


心霊が物理現象を引き起こす

以前、塾のプログラマーとして働いていた時、プログラムに関して全く知識のない経営者に、 寝ずに働いても 100%無理な納期を提示され、精神的にパニックを起こしてしまったことがあります。

そのとき、突然、プログラムを打ち出しているプリンターが意味不明の文字の羅列を打ち出しました。

さらに、何も使っていない2台のプリンターが、急に動き出し、同様に意味不明の文字の羅列を打ち始めたのです。

実は、経営者の知り合いに霊能者がいました。

そこで、経営者は急きょ霊能者に電話して、霊を抑えてもらうことにしましたところ、プリンターが止まり正常になりました。

そのとき、僕が見ていたものは、莫大な数の浮遊霊がその場に渦に巻き込まれるようそこに集まってひしめいていたのが、急に一斉にスーッと消滅した状況でした。

経営者と僕が同時に幻想を見たということもあり得ますが、プリンターで印刷した訳のわからない文字の羅列は、後でスタッフも確認していましたので、どうやら物理現象にでたのではないかと思われます。

しかし、どちらにしても、自分にとっては不可解な現象を体験したのは事実です。

不用意に霊にかかわる問題点としては、意味不明の制御不能な状況におちることで、その現象が物理的なものにも悪影響を及ぼすということです。

とにかく、世界はバランスの中でなりたっているので、バランス欠くとその補正が大きくなるということではないかと思います。


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【霊と体をつなぐもの】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、前回は合気道では霊主体従での技の取り組みが大切とお話ししましたが、霊主体従は霊と体の二元論ではありません。

合気道では対立する二元論には限界があるとし、霊と体の間に氣を考えます。

今回は、合気道では実際にどのように霊主体従を稽古に取り入れているかという点を述べたいと思います。


霊主体従は単なる精神論とは違う

合気道では精神から肉体をコントロールするという部分が大切です。

とっても、単なる精神論や根性論とは違い、飽くまでも、精神を整えることで実際の技に効果がでる必要があります。

根性論や精神論のように、根性さえあれば何でもできるというような側面も武道では必要でしょうが、根性だけでは技術面への極端な変化は望めません。

合気道では、精神(霊)と肉体を結ぶものとして、「氣」を想定しています

精神というかなり抽象度の高い状態と肉体という抽象度の低いモノを結ぶのが「氣」とです。

しかしながら、当会では、「氣」でもまだ抽象度が髙いと考え、 井口師範の秘伝を、 抽象度という点に着目して、抽象度の低いモノから高い状態を目指していきます。

その一例として次項では、横面打ちの受けを例に、稽古の考え方を話したいと思います。


横面打ちの受けでの「氣」の扱い

横面打ちの受けを「氣」で捉えたたとき基本として、3つの基本があります。

単に「氣」といっても、捉え方で3つの方法があるといういい例になると思います。

一つは、「相手の氣に当てる」で、もう一つが「相手の氣に当たる」、最後が「相手の氣を導く」です。

後者になるほど難易度が高くなります。

氣に当てる受け

この受けは相手が攻撃しようと構えたタイミングをみて、攻撃前に相手の打撃を止めるときに使います。

「氣」でいえば「不発の氣を抑える」というやり方です。。

相手が横面打ちをしよう動作したときに、すかさず前に出て横面打ちを押さえます。

そこから技を掛けていくのが、氣に当てるというやり方です。

ただし、これにもレベルがあって、相手の動作の起こりで抑える段階から、兆(氣差し)をとらえる段階までです。

兆をとらえるというのは、動作にまだ現れず、 相手の「氣」が動いたときのことをいいます。

氣に当たる受け

多くの合気道の演武は、タイミング的にはこの受けで行っていますが、実際に氣に当たっているかどうかというのは、受けにしかわかりません。

受けに取りを一瞬見失った感覚が生じた場合、「氣」に当たる受けができているということになります。

基本的には、人が相手を攻撃しようとしたとき、まず「氣」がでて、その後を追うように攻撃がでます。

ですから、この「氣」に当たるつもりで前に出て、寸前のところで体捌きをすると、相手の攻撃が外れ、タイミングがおかしくなったように感じます。

これは人間は、何か動作する際に、必ず脳内のプログラムを使っている証拠です。

ですから、横面打ちで攻撃しようとした瞬間から、脳内では思考を横面打ちをするプログラムに譲り、プログラムが一瞬、自分を支配してしまうわけです。

そのため、相手が眼前からいなくなったと意識しても、既に起動したプログラムは止まらないため、そのまま実行してしまうわけです。

氣を導く受け

これは、相手の空間を伝わる氣を感じる力が必要になります。

相手が攻撃をしようとこちらを狙った瞬間、相手の氣は目標に直接向かいます。

例えば、横面打ちならば、頸動脈やあご、或いはこめかみです。

その瞬間、手で相手の氣をキャッチすることで、相手の目標と定めた氣を押し返します。

すると、相手は押し返された氣の場所にむかって攻撃を出してしまいます。

これが相手の氣を導くというやりかたになります。

以上のように合気道では、氣というものを通じて、精神(霊)の情報のやり取りを制御する稽古を行うのです。

そのため、形稽古が必須になります。ここを間違えた形稽古では意味がなくなります。


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【体主霊従と霊主体従】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

今回は体主霊従と霊主体従について話したいと思います。


体主霊従

合気道の開祖は大本教の出口王仁三郎師に傾倒していたため、出口師の言葉をよく使われたと聞いていますが、体主霊従も霊主体従もそこから来ています。

ちなみに体主霊従というのは、分かりやすい言葉でいうと物質主義に近い言葉です。

要するに、目に見える物質的な物、即物的なものを優先する考えのことで、現代の日本社会がそれではないかと思います。

また、これは現代武道や格闘技にも影響がでていて、現代の武道や格闘技では、 目に見える部分を取り出して 効率的にトレーニングするという考えがあります。例えば、ウェイトトレーニングで体を作り、走ることで体力を作ったりして効率化を目指します。

そのため、精神に関しては非常に大雑把な根性論に終始します。

根性論というのは、根性さえあればどんなことでもできるというものですが、理論もなにもないところがかなり大雑把だと思います。

また、実際はいくら根性があっても、生まれつきの身体、体格、年齢、性別、才能などどうしても超えられない壁というが存在します。

霊主体従

霊主体従は、どちらかというと精神主義に近いものがあります。

要するに体主霊従の対義語です。

合気道は霊主体従の武道と合気道開祖が言われています。

最近、僕が書いているブログを読まれた方は、丹田の話などなるほどと思われると思いますが、目に見えない部分に大切なもがあるというのが霊主体従です。

ですから、昔の武道は、肚(はら)作りといって武道の動きの中で身体をつくり、同時に丹田をきたえました。

ところが、精神主義が行き過ぎて、精神論にいってしまうと、これまた問題です。

合気道は、武道である以上、目に見える形として効果が発揮できないと意味がありません。

いくら、精神性がすぐれているから、精神がしっかりすれば後はどうでもよいと肝心の技がなおざりになってしまうともはや合気道とは呼べません。

やはり、精神と肉体の繋がりを理解して、意識の持ち方で、肉体がどう変化するかを研究する必要があります。

そのために、丹田というのが非常に大切です。

特に大切なのが、人体の天である上丹田を使う精神を使った技術、人体の地である下丹田を使う身体の技術。人体の火と水である中丹田を使う精神と身体を結ぶ技術である合わの技術、これらを修練する必要があります。

要するに、天、火、水、地の4つのエレメントを使いこなすことを目指すのが合気道であり、心の在り方で、すぐに技として形で確認できるのが合気道の誇れるところなのです。


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【悟りの話】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、前回は和と差の話をしましたが、それに関連して悟りの話をしたいと思います。


「さとり」の語源

悟りということばは、差を取るということが語源になっていると聞いたことがあります。

自分と他人との差を取り除く、自分と他の生物の差を取り除く、自分と周りの環境との差を取り除く、ついには自分と宇宙との差を取ってしまう。

ということで、完全な悟りの境地が生まれるというわけです。

そこで、差とは何かということですが、前回でもお話ししましたが、差とは、違いにフォーカスして、その違いを比べ、区別することであり、他と区別することにより対立が生まれるということでした。

要するに、完全に対立を無くす、即ち和を極めるということであり、宇宙と調和するということでもあるのです。

ところで、人間は、多かれ少なかれ何らかの悩みを抱えています。

その悩みというのは、合気道で言えばぶつかり感であり、言い方を変えると自分と何かの対立であるわけです。

悟った人から見ると、まるで、それよって自分ががんじがらめにまるで縄にでも括られているかのように、身動きとれないぐらいになっています。

ちなみに、悟りを開いた人を「ほとけ」と呼びますが、「ほとけ」ということばは「解(ほど)けた」人ということから来たということなのです。


技の完成には悟りが必要

「合気道の技はただ教わるだけでは上手くならないんや。自分で悟る必要がある。悟って初めてわかるんや」
と、 井口師範はおっしゃられました。

また、悟りは、いつ来るか分からないらしいのですが、それは突然わかるということです。

井口師範は、あるとき波が打ち寄せる海岸を見ていて、合気道の技を悟ったそうです。

「天は、卵を親鳥が暖めるのと同じように、常に気を注いで自分の殻を温めているさかい、ひな鳥が内から殻を破るようにしとかなあかん。それが合気道の稽古ちゅうもんや」

といわれ、切っ掛けはどこにあるかわからないが、真剣に打ち込んでいるとあるとき、何かの切っ掛けで悟りが啓けるのだと教えて下さいました。

己が自然と一体となったとき、宇宙から悟りが下りてくると言われていました。

ですから、教えるというのは、飽くまでもひな鳥が殻を破れるように応援するもので、最後は自分の力で技を悟る必要があるのです。

そのため、教える方には、殻の破れるように教えるという使命があります。如何に分かりやすく、抽象度を下げて教えられるかが問題だと僕は思うのです。

しかし、習得する側は、習得するというのは技の抽象度を上げるということですので、本人が努力して理解にたどりつくしかありません。

要するに天は抽象度の高いところから常にエネルギーを与えいるので、師は抽象度の低いところから弟子を引き上げ、弟子は最後の殻を破ってもう少し抽象度の高いところに至る必要があります。

それが合気道での悟りを開くということですから、技を教わるだけでなく、小さな悟りを積み重ねることも大切ですよね。

多かれ少なかれ何かを習得するときに誰もが、「何とも言えないが悟った」という経験はお持ちでしょう。だから、皆さんも何となく理解ができるのではないでしょうか。


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【 合気道の和と差の話】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、合気道は和合の武道と言われます。ですから合気道で和を重んじます。

今回は合気道の和と差の話を述べたいと思います。


和と差

和と差といえば、算数を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?

算数では和も差も計算としてはどちらも算数の基礎で非常に大切です。

ところが、合気道的な見方をすれば、和こそが合気道の至高の目的ということになります。

和というのは、早い話が足し算ですが、意味としては全てを一つにして合わせるということです。

一方、差は、違う点に注目してその違いを抽出することです。

要するに、和は無差別にすべてを受け入れ全体として見ることで、差は違いに注目して優劣を付け区別することを表すわします。

そうすると、和と差の違いは単にフォーカスの違いだということが分かります。

ですから、差は、自分と他者を区別するだけでなく、他者と他者も区別し、共に比べて優劣をつける訳です。

また、差は善悪も生みます。善悪というのは、絶対的なものではなくその時代のその環境によって異なります。

このようにフォーカスが差にあるとき、必ず対立が生まれるわけです。

一方、フォーカスが和にあれば、和は差別なくすべてを一つに受け入れることになります。

また、和というのは、全て平均するということではなく、個性のままそのまま受け入れるということを示しています。

例えば、宇宙は悪人だから宇宙から放り出すということはありません。宇宙を考えたとき、善も悪も存在するものすべてを受け入れます。

だから、宇宙的視点に立つ合気道では、技術の面でも対立せずに合わせを行うわけです。


本当に差は悪いか?

さらに、思考という点にフォーカスした場合、差というのは、違いにフォーカスする点から より違り細かい違いを 比べることにより、物事を分析するという意味がでてきます。

そういった意味からは、差というのは抽象度を下げるという意味では非常に大切な考えです。

特に、技が未熟な内は、より抽象度を下げて考える必要があると僕は考えています。ですから、抽象度という点からはより低くなり、逆に和は抽象度が髙くなります。

そのため、合気道を極めた達人では、「氣」という概念一つで、全て事足りるということになります。

ところが、レベルの低い僕たち凡人は、差から始める必要があるのです。

そのため、個々の技を分析し、その差を知り、より多くの差に接することで、技をドンドンと統合して抽象度を上げていく必要があります。

ですから、合気道でも、物理的技法も大切にし、その上で精神性を尊ぶわけで、武道として使えなければ意味がありません。

精神性だけをいうのなら、宗教を純粋に修業すればいいのです。


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【我を出さないとは?】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今回は合気道で我を出さないというのはどういうことを言うのかについて述べたいと思います。

我の対義語は?

国語では「我」の対義語は「彼」だと教えられますが、合気道的にはそうではありません。

では、少し考えてみてください。合気道的には「我」の対義語はなんでしょうか?

師匠がまだ生きておられたとき、僕は師匠にときどき「技で我(が)を出してはダメだ」「自分勝手な技はいけない」と言われました。

師匠の指示に忠実にやろうとしていた僕にとっては厳しいお言葉に聞えました。

当初は何故そのようにいわれるかなかなかわかりませんでした。

ある時、師匠は「我(が)の反対語は何かわかるか?」と僕にお尋ねになりました。

僕が「他者ですか?」と答えると、「いいや、自然や」と言われました。

合気道では予め「ああしよう、こうしよう」と考えて技を出すことを「我を出す」といい、「我が強い」と指摘されます。

合気道では、自分も相手も自然に感じるように技を出す必要があるのです。

そして技が自然に感じるためには、力のぶつかりや対立があってはいけないということでした。

井口師範は「ぶつかりや対立は相手を敵に回すこと、周りと合わせられたら、自然と相手が自分の思うように動くもんや。それは、人だけでなく、宇宙全てがそうなってるさかい、自然が我の反対語や」 と言われたのでした。

合気道の前提は和合!

他の武道や格闘技の殆どは「相手に如何に挫くか?」を考え、それに基づいて戦略、戦術を練ります。

そのため、相手に気合負けしないようしっかり睨み、自分は隙を作らず、相手の隙を如何に作るかを考え、相手の弱点を狙おうとします。

この様に「相手をああしようこうしよう」と最初に考えて動くのは前提が「対立」にあるからです。

一方、合気道の前提は、相手を受け入れるところから入ります。

とは言っても、受け入れるのは、相手が急所に打撃を加えてもじっと我慢して殴られておくということではありませんし、短刀や刀で切ってきたら、切られてしまうということでもありません。

受け入れると言うのは、飽くまでも気のレベルで話です。

ですから、合気道といって「気に合わせる道」というわけです。

そして、 「我」と「自然」という対立を無くし、自然すなわち全宇宙と合気ができることこそ合気道の最大の目的であり、理想なのです。

これは技の段階(物理)から出発し、技から対立を無くすことで、心の対立をなくし、それを相手を人への適用から自分を取り囲む自然すべて、要するに宇宙への適用と拡大していくことを目指しているわけです。

だからこそ、武道から「世界平和」という発想が生まれるわけです。


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【日本人の誇りと合気道精神】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今回は日本人というものにフォーカスしたいと思います。


学校で学んだ日本の古代史はウソ?!

 

最近、経済研究家の三橋貴明氏に興味をもっていて、本を読んだり、映像を見たりしているのですが、彼の理論は、ちゃんとした統計資料や科学的資料によって説明されるため非常に納得いきます。

その中であったのが、「学校教育の日本の古代史がウソ」という話です。

ちなみに、日本の歴史の教科書では、日本人の祖先は朝鮮半島から移住してきた渡来人であり、元々は朝鮮民族であるということになっています。

ところが、最新の遺伝子の研究から、遺伝子は中国人や朝鮮人と似ておらず、しかも世界で日本人の独自の配列があることが判明しています。

このことは、遺伝子が変化する前の現アジア人から、中国人や朝鮮人へと変化したように、現アジア人から日本人へと変化したということが分かっています。

さらに、比較言語学では、日本語を研究した結果、他の言語の影響をほとんど受けていないということも分かっています。

日本語の文法と類似している朝鮮語は、かなり他の言語の影響を受けていて、明らかに日本語が朝鮮語の方言ではないということが分かっているのです。

それなのに、そうした事実を「何らかの理由」ということで蓋をして、未だに日本の歴史研究者は、日本人の起源を朝鮮半島だと言い張っているのは非常におかしい限りとしか言いようがありません。

 

 


日本人としての誇りは持っていい!

 

海外の人からすると、日本人は信仰をもたない民族だと考えられていると聞きます。

正月には神社(神道)へ行き、二月はバレンタインデー(キリスト教)を祝い、盆にはお寺(仏教)に行き、クリスマス(キリスト教)を祝い、一体何をしているのか? 日本人は無信仰ですべてイベントにしてしまうぐらい神に対して地に足がついていない民族と外国人にはうつるそうです。

それは日本人にはアイデンティティがないからだと言われます。

しかし、日本には、世界で最も古い伝統のある王族、すなわち天皇家があり、しかも様々な科学的事実から、歴史家たちのねつ造した事実とは別に、日本人は何千年も前から日本人であり続けているわけです。

しかも、日本では八百万の神々といって、たくさんの神々が同居して、時には暴荒れたりしていますが、常に和を保っているのです。

様々な神を受け入れるのが日本の宗教観で、私たちは本来は他の宗教と殺し合いなどしない民族であり、こういう和の精神は本当に誇ってもいいと思います。

「合気とは愛なり」と合気道開祖がいい、合気道を提唱しましたが、これは、日本人の非常に高い感受性と古代より脈々と受け継いだ日本文化を言い表したものに他なりません。

争わないで調和する合気の道こそがこれから未来の世界に向かうのにふさわしい道だと思います。

 


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合気道と護身と健康を考えるブログ