手首取りの技の意義について12

みなさん!
こんにちは、お元気ですか? 僕はめちゃ元気です!

さて、手首取りの技の意義について今回で12回目となりました。前回は手首取りで「最外殻の気」が自分の手首に集まらないために、別の空間を意識し、そこに「最外殻の気」を集め、そこに向けて手を動かすという方法を説明しました。

しかし、この方法だと、何度もやっていると相手は自分の発した「最外殻の気」の居所をすぐに判断し、その方向に手が行かないように抵抗されるようになってしまいます。そこで次に登場するのが、「内殻の気」を用いた方法です。

合気道の座り技呼吸法の際に一般的に言われる注意事項で「手を張って指を開きなさい」というのがありますが、実はこれは「内殻の気」を扱う最も簡単なやり方の一つなのです。指を開き、指を意識することで「内殻の気」が指に集まります。その結果、実は「最外殻の気」も指に集まります。

手首には「最外殻の気」の層もあり、「外殻の気」の層もあるため、相手は「最外殻の気」が移動したのに気づきません。すると、動作が起こる起点が指先になるため、あなたが手を動かしたとき、相手はタイミングがずれあなたに逆らうことができなくなってしまいます。

運動生理学では、目で見て反応するのにかかる時間を反応速度といい、0.3秒から0.7秒の時間さがでると言われています。ですから、相手がこちらのタイミングを読みさえできなければ手を自由にできるわけです。

では、座り技呼吸法で巧くいかない人がいるのは何故でしょうか?
それは、折角「内殻の気」を使うために指先を開いているのに、「最外殻の気」が手首に集まっているからです。「最外殻の気」が手首に集まれば、当然、相手に自分のすることが先読みされてしまいます。

ですから、意識は「指先」に持ってくること、そして手首を見ないことで、「最外殻の気」は手首に集まるのを防ぐことができます。

さらに、この指先を開く動作でもう一つ大切な点があります。それは相手が自分の手首を持った時点に指先をパッと開くと言うことです。初めから指先に意識をもっていると、手首を持たれた際に自分の意識が手首に向かうからです。そうすると自分の「最外殻の気」が手首に集まり、結果として技が効かないという状態になってしまいます。以上の点を十分意識して行うことが重要です。

手首取りの技の意義について11

みなさん!
こんにちは、お元気ですか? 僕はめちゃ元気です!
さて、手首取りの技の意義について今回で11回目となりました。といっても最近は「当て身」の話ばかりになり、手首取りはどうなったと思われている人もいるでしょう。

今回からは手首取りの話に戻りたいと思います。ただし、具体的な技ではなく手首取りのための稽古法の話になります。

前回まで「最外殻の気」の制御ということで「当て身」の話をずっとしてきたわけですが、「当て身」で「最外殻の気」が動かなくなっても実は、相手に手を取られるとやはり、「最外殻の気」はその取られた手首に集まります。

「最外殻の気」が手首に集まると、すぐに自分の動きが相手に伝わります。ですから、例えば手を挙げる動作をしようとすると、その前に相手に察知され抑えられてしまいます。井口師範がおっしゃられた「ああしよう、こうしようとしない」ということですが、これは言い方を変えると「『最外殻の気』を手首に集めない」ということに他なりません。

それぐらい相手の接触というのは非常に厄介です。空間にある「最外殻の気」ですら感じられてしまうのですから、接触していると余計に「最外殻の気」は相手に感じ取られてしまいます。そういう意味で、先ず相手の接触なしに「最外殻の気」をコントロールする稽古が必要だったのです。そこで、ようやく手首取りにおいて如何に「最外殻の気」を動かさないかという話に入って行ける訳です。

実は手首を持たれた状態で「最外殻の気」を動かさないというのはかなりハードルが高いのです。では、どうするかという話ですが、話は簡単です。手首を意識しなければいいだけです。しかし持たれているところを意識しないというのは読者の方もかなり難しいでしょう。

そのため、手首に自分の「最外殻の気」を集めない稽古をします。ここでは、手を挙げるという動作に絞ってお話ししていきます。先ず相手に片手で自分の手首を握ってもらいます。そして、一切自分の手を見ず、空間の手を持ってきたいところだけを見つめます。すると、あなたの「最外殻の気」はあなたの見つめたその空間に集まります。

その時点で、あなたの手がその空間に出現したと思って、その空間に出現するよう動かしてください。あなたの意識がもし手首になければあなたの手はすぐにその空間に向けてあがるでしょう。

これが自分の「最外殻の気」の性質を使った技術です。しかしこれにも限界があります。というのは、自分と相手の力差が大きいと、この技術が効かないことがあるからです。

言い換えると後ろ取りで無理な位置に手を持ってこられると、こういうやり方をすると関節を痛めたりする恐れがあります。ですから、器用な人以外は後ろ取りではかなり危険ですのでしない方がいいです。とにかくこの稽古方法は、「最外殻の気」を手首に集めないためのもので第一ステップだと思ってください。

手首取りの技の意義について10

みなさん!
こんにちは、お元気ですか? 僕はめちゃ元気です!

さて、手首取りの技の意義について今回で10回目となりましたが、手首取りからかなり話がはずれ、今は「当て身」の稽古ということになっていますが、飽くまでも手首取りで「最外殻の気」を動かさないということでの話ですので、「木を見て森を見ず」にならないでくださいね。

前回は、かなり具体的に「最外殻の気」を出さない当身の稽古の内容を話しました。しかし、誤解しないでいただきたいのは、当て身をする際に「最外殻の気」を一切動かすなということではありません。

何故なら、正面打ち、横面打ち、正面突きの各技は、相手の「気」をコントロールするための稽古ですので、受けが「気」を出さないと稽古できないからです。この点、「最外殻の気」が動かなくなっても注意してください。

というのは、「最外殻の気」を動かさない「当て身」を、以前に自称運動オンチの女性に合気道を教えてほしいと言われ、徹底的にこの「最外殻の気」を動かさない「当て身」を教えました。すると、この女性は「当て身」をする際に全く「気」が動かなくなってしまったのです。

その結果、合気道の稽古が成り立たなくなっちゃったのです。何故なら、正面打ちの技をやろうと思っても、いつ正面打ちが来るかわからないと、取り(技の掛け手)は技の掛けるタイミングがわからないことになってしまいます。

当会には、ボクシング、空手などの格闘技経験者も所属していますが、この女性の打撃にはかなり手を焼いています。また、柔道、空手、総合格闘技などをやってきたベテランでも、この女性が受けをするのを嫌います。それぐらいわからないのです。この女性、徹底的に「当て身」で「最外殻の気」を変化させない方法を身に付けさせてしまい、「当て身」で「気」を出す稽古を一切していないから、いくら後から教えてもすぐ「気」が消えてしまいます。本当に厄介です。

というのは、ケンカや格闘技どころか、スポーツで狙って打つということを中学生以来ずっと十数年来やっていない人間が、一切「気」を出さずに打つ「当て身」を学んだんだから、「気」を出す打撃の仕方の上に「気」をださない打撃の仕方を上書きしてしまったようです。だから、「気」をだすようにするには、さらに上書きをしないといけない状況になっています。

正面打ち、横面打ち、正面突きの技というのは、「気」の面で話をすれば、相手が出す「気」に反応して、相手の「気」を導く技術の錬磨ですので、「気」が変化しないと非常にこまるのです。ですから、読者の皆さんには「気」も出せるし、「気」も消せるとうように両方できるようになってほしいと思います。特に、指導者を目指すならこれは必須だと思ってください。

相手と自分の両方の「最外殻の気」のコントロールこそが合気道の大切なポイントであるということ、ご理解いただけたでしょうか。

手首取りの技の意義について9

みなさん!
こんにちは、お元気ですか? 僕はめちゃ元気です!

さて、「手首取りの技の意義について」から、かなり話が外れ、今回は手首取りの話の方に戻りたいとおもいますが、「当て身」の話になりました。しかし、「気」を考える際には「当て身」の稽古はどうしても外すことができません。手首取りの技の意義ではどうしても必要な事として、もう少し「気」についての話にお付き合い願いたいと思います。

今回は、「最外殻の気」を動かさない具体的な「当て身」の稽古方法について述べていきたいと思います。ただ、公開のブログでは「最外殻の気」を動かさない具体的な秘伝は述べられません。そのため、読者の方には「行間を読む」という読書の技術を実行していただきたいと思います。これは文章から文字にかかれていない事実を抽出し理解する技術ですが、どうか読者の方にはよろしくお願いします。

では、説明に入ります。先ず、読者の方の下準備として、合気道の「当て身」、正面打ち、横面打ち、正面突きの稽古を十分しておいてください。この稽古の際、「気を出す」ことが非常に大切です。できれば「当て身」の稽古の際、「当て身」が当たるという瞬間に気合いを出していただいた方が後々の稽古に非常にプラスになります。

当て身に十分体重がのり、強力な当て身がだせるようになったら、次に「殺気」を消して相手に入るということを考えて稽古されると良いでしょう。それだけでもかなり変化が起こります。

変化が起こり始めたら、さらに「当てる時だけ瞬間に殺気を出す」稽古を入れます。それには、具体的には中国拳法でいわれる寸勁というパンチのやり方のような稽古を行います。やり方は、目標(サンドバッグなど)から拳や手刀を数十センチ~数センチぐらいにおき、そこから拳や手刀を一気に出して打撃する稽古です。そして打撃力を上げていっていただきたい。初めはタイミングがつかめず巧くいかないかも知れないがいずれ衝撃が帰ってくるようになります。

ちなみに、私は立ち木で稽古をしましたが、立ち木や壁で稽古する場合は、徐々に回数を増やしていくことをお勧めします。私は井口師範に言われ、いきなり一日八十八回思い切り叩く稽古を一日8セット行ったところ、体に無理が生じ、脾臓が腫れ、変な咳がでるようになり、結局2週間入院するということになりました。ですから、あまり無理をせず徐々に回数を増やしていくことをお勧めします。目安は、肩甲骨の間の部分(菱形筋、小菱形筋)が異様に凝るようですと、やりすぎです。

やりすぎにはかなり気を付けて下さい。私は今でも体調が落ちてくると原因不明の咳がでます。このときの影響だと思います。

また、打ち込むときは、「ィエイ!」と気合いを出した方がいい。何故なら、体と声は共に反応するからです。要するに条件付けということです。「ィエイ」と言うだけで、体が覚えていて、そのた距離の打撃が出るようになります。

そうすると、後は殺気なく相手に近づく稽古をし、「ィエイ」と言えば体が反応するという回路ができますので、「最外殻の気」が殆ど動かない状況ができます。

ちなみに、船漕ぎ運動(天の鳥船の行)も、声と体の反応という点では非常に良いので併用して稽古するのもいいと思います。

【別の土俵で闘う】4

皆さん
今日は! 元気ですか? 僕はメチャ元気です。

さて、前回の内容は、かなり科学的に書きましたが、内容的には非常に抽象的になりました。でも、意識が自分の動作にかなり影響が出るということは理解はできたと思います。そして、その意識の持ち方を研究することで、「意識して動く」と「意識せずに動く」以外の第三の方向性が見いだせたのではないかと思います。そして、我々に必要なのはどう意識すると、相手はどう動くかという経験を積む必要があります。

その初歩的なヒントとして、【別の土俵で闘う】という点で、少し手首取りの話をしていきたいと思います。

合気道では、手首取りという技があります。具体的には、片手取り、両手取り、諸手取りなどですが、通常は、師範は「持たれたら」という言葉を使います。

でも、本当は「持たれたら」、もう遅いというのが武道的な考えです。例えば、殴るという動作を考えてみたらどうでしょう。「顎を思い切り殴られたら」と、師範が技を見せたらあなたはどう思うでしょう。

ボクサーのパンチはかなり速いです。その上パワフルです。未だかつて、顎にクリーンヒットがあって、相手のパンチを返したボクサーはいません。確かに古武道と呼ばれる分野で、殴らせても大丈夫というパフォーマンスを演じる人はいますが、それは心理学的な手法をとって、クリーンヒットを避けているからです。

余談になりましたが、要するに「顎を思い切り殴られたら」というと、答えは「倒れてしまいます」です。それと同様に、「持たれたら」本当は終わっています。「刺されたら」終わっています。

何を言いたいかというと、「持たれる」のではなく、「持たせる」という心構えが必要になります。何故かというと、武道では先を取ることが最も大切だからです。持たれるというと相手に先を取られているわけです。持たれた瞬間、実戦では相手は次の行動に入っています。仲良しクラブじゃないので、持たれても後は何もしないって言うことはありません。

さらに、「持たせる」と何故、先を取れるかということですが、ただ相手が持つのを待っているだけではなく、罠を張っているという気持ちがあるためです。ですから、大切なのは、例えば片手取りの場合なら、片手を取りに来た瞬間を狙うことだけを考えて手を差し出します。

この瞬間について少し詳しく説明しておきましょう。相手の手首を取るというのは、ターゲットである手首まで手を持っていき、そこで握るという2つの動作が必要です。だから、手首に触れた時点から、握るという動作が終了するまでタイムラグが生じます。触れた瞬間、握れているということでないわけです

しかも、相手が握ろうと思った瞬間から手の指が握れるまで、動作がとまらないというのが生理学的特性があります。この握ろうとした瞬間から、握り込むまでの時間を利用すれば、相手を思い通り扱えるわけです。

そのため、ただ手首を持たれるのじゃく、こちらが、罠を仕掛けるがごとく、相手に手首を差し出し持たせるわけです。この点が技がきれいに決まる大切なポイントです。

結局、ちょっとした意識の持ち方を変えるだけで、相手の土俵で戦うように見せながら、実は自分の土俵に相手を引き込んでいるわけです。

【別の土俵で闘う】3

前回、合気道では相手に敬意を払うことを、「合わせる」といいましたが、その意味を今回少し考えたいと思います。

合わせるというと何だかかわかったような気になりますが、合わせるというのは、実は動作だけの問題ではありません。合気道ではこの合わせるという行為は修業者にとって非常に厄介です。何故なら、見た目は、まるで相手に逆らっているように見えるからです。

そして、達人は言います。
「相手と一体になって行ったとき、簡単にできるものです。心がつながれば、相手は自分の思い通りに動いてくれます」
「相手と繋がっていると意識すれば、相手が右手を押して来たら、相手の力を、相手と繋がっているその右手で、相手に送ることができる。だから相手は自分の力が返されるのです。」

これだけの話を聞いて、相手にそのまま力を返すことができる人もいます。でも、いくらやっても出来ない人もいるでしょう。確かに、それは達人の言っている通りなんだけれど、一度できたとしても、原理が分かっていないと、またできなくなったりします。それは、実は相手がそれに慣れて対処できるようになってくるからです。普通の人は、相手が変化に対応した時点で、また自分の力でやろうとしてしまうからです。そうすると繋がりが無くなってしまうわけです。

そこで、本質を科学的に説明しておきましょう。二足で立つというのは非常に不安定な状況なので、人間が力を込めようとしたとき、体の位置、腕の位置などかなり精密にバランスがとれないと力が入りません。そういう訳で、二本の足で立っている人間が、ある位置である方向に力を加えようとすると、最高の位置というのは唯一つの状態しかなく、その状態でしか最大のパフォーマンスが発揮できないのです。ですから、その最高の位置を少しずらせば、力が急激に小さくなります。これが科学的な原理です。

そして、相手は最大のパフォーマンスを出す位置を経験から小脳で自動的に計算しているので、こちらが相手と繋がろうとする意識が働くと力の方向が若干変わるのですが、相手の経験がそういう経験を通っていないから、実際に相手が最大のパフォーマンスが出る位置と食い違いが生じるため、十分な力がなくなります。その結果相手はついてくるわけです。

このように合気道では、面白いことに、意識と現象が全く正反対になります。相手に敬意を示すと、逆に相手がついてくるというのはこういうことです。これが合気道の面白さなんです。

【別の土俵で闘う】2

こんにちは!
皆さんお元気ですか? 僕はメチャ元気です。

前に、別の土俵で闘うという話しをしましたが、「世界平和などといいつつ、結局、合気道って本当は卑怯なのですね」ということを指摘された人がいました。そこで、もう少し、合気道の平和思想と一般的な正々堂々に関してお話ししたいと思います。

確かに、漫画やアニメでは、主人公が相手の最も得意な分野で、相手を打ちのめすというシーンが良くあります。とても格好良く描かれています。主人公のすばらしさを表現するためにそう描かれています。

自信満々でくる相手の得意なものよりも、適当にやってる主人公の方が得意だということを表現することで、主人公が得意なものはさらに上で、そんな奴にも余裕で勝てる主人公の何でもできる絶対的な素質を述べているだけです。

でも、実際問題として、少しの時間も惜しんで命がけで何年もトレーニングを積んだことが、何の努力もしない相手に一瞬で負かされたらどんな気持ちでしょう? 

例えば、筋トレを必死な思い出3年間やり、かなり筋肉が付いたと思ったら、日ごろのらりくらりとしている人が、いきなり自分の持てる最大の重量の2倍を軽々と持ち上げたらどうでしょうか? その人は自信を失うのではないでしょうか?

正々堂々というのは別の意味では、相手の自信を徹底的につぶすということと言えます。日本人は正々堂々が好きです。才能にあふれた人が、華の舞台で高得点を取るのが大好きです。

だから、野球などでも、日ごろ必死で頑張って努力した人が、たまたま不調で、大切なところでヒットがでなかったら、ボロクソいいます。どんな不調でも、どんなに体調がわるくても、活躍することを期待します。

合気道についてもそうです。世界平和を目指す武道であるから正々堂々でなければならないという人がいます。
・力自慢に対してはそれ以上の力で対抗する。
・スピードに自信のある人には、さらなるスピードで対抗する。
これで、相手を敬意を示せるのだろうか? 

合気道は世界平和を目指す武道です。それは相手の世界に敬意を示すから実現できると考えます。

でも、相手の得意なことを相手の得意なことをつぶすことは、結局相手の人格を全面否定をしているようなものです。もし、自分の得意なことをすべて否定されたらどんな気持ちをもつでしょう。少なくとも子供なら完全に自信を無くしてしまうでしょう。

真向から正々堂々と勝負するというのは、相手の得意な分野で、それをつぶすということです。正々堂々と勝いうのは、ある意味、できる人間が出来ない人間を否定することです。それは、相手を見下すことになります。それこそ傲慢と思うのです。

確かに、世のなかには何の努力をしなくても、飛んでもない素質を持った人がいます。そういった人に比べると、自分の中の最大の才能は芥子粒のようなちっぽけなものかもしれません。でも、それにかけた情熱は、時間はそんなこと全て無駄に思ってしまうかもしれませんが、人と比べる必要はないと合気道では考えます。

それにつぎ込んだ時間、経験が大切だということです。人生を賭けたその時間、あなたはどんな貴重な体験をしたでしょう。僕も何十年もかけて研究した成果を惜しげもなく、会員に教えるのは、その苦労した経験ができたことこそ自分にはよかったと思うからです。そして、この成果をさらに、合気道を愛する後続の人に研究してもらって、もっと完成させて次の世代に回してほしいと考えているからです。

例えば、数学を例にとると、数学を自分だけのものにして、誰にも教えないという習慣があったとしたら、今日ほど数学は発達しませんでした。学問は後続の人によってより発展してきました。数学を家元だの何のといって、発展させることもなく何千年も前のままで残しておいたらどうでしょう? きっと算術のままで終わっていたと思います。

話は戻りますが、合気道の理想は相手と一つになって、相手を導くことにあります。それは相手の得意なことに合わせるということで、相手に敬意を払いながら、自分の土俵で闘うということを意味します。要するに自分の得意なものの中に引き込むわけです。だから、力いっぱい持たれても、相手にとって心地よく、相手をコントロールできてしまうのです。

【別の土俵で闘う】

今日は!
皆さんお元気ですか? 僕はメチャ元気です。

さて、今日、Youtubeを見ていると、何故か分からないけれど、自動再生をしている中、突然、今はもう解散してしまったジャニーズに所属していたグループ・スマップの歌「世界に一つだけの花」が再生されました。

ということで、今日は、いつものシリーズ・手首取りの意義とは違う話をします。
僕はこの歌の歌詞が凄く好きです。今日この歌を聞いていて、ここに合気道の本質を聞いたような気がしました。

  *   *
花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた。

人それぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね 。

この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで

バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている

それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?

一人一人違うのにその中で
一番になりたがる

そうさ 僕らは

世界にひとつだけの花
一人一人違う種を持つ

その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい。

……

合気道の戦い方は、実は常に自分の土俵で戦うようにします。相手の土俵で戦うことを避け、自分の体が構造上で最も強くなる状況を作り、相手をその状況に導くことをします。

ところが、特に日本人は「正々堂々」という言葉が凄く好きで、特に昭和生まれの人は、道徳教育で、相手の土俵で戦って勝つことこを最高としているふしがあります。

例えば、相撲の解説を聞いていると、体格の劣る力士が体格の優る力士に対して、変則的な戦い方をすると「よろしくないですね。やはり相撲は真っ向から勝負をしないと!」と解説者が話すこと よくあります。

話が極端になっていると言われそうですが、もし相手が犯罪者の場合どうでしょう。犯罪者がナイフを持って襲ってきてるのに、正々堂々と素手で戦おうとして殺されてたらどうでしょう。「よく正々堂々と戦った」と讃える人もいますが、その家族はどうでしょう? 卑怯なことをしてでも死んでほしくなかったと思うでしょう。

合気道は、相手の知らない技術、相手の知らない方法で相手を制します。そして日々その技術を錬磨して行きます。ですから、合気道は基本的に筋トレはないのです。バーベルを持って、力でくる相手にも力でも凌駕し、技でも凌駕するという考えではなく、自分達の得意な分野を徹底的に錬磨するのです。すべてでNo.1になろうとせず自分の得意な分野を徹底的に作っていくということをします。そうすると、気が付くと他の武道の人たちと楽しくスパーリング(模擬試合)ができるようにもなります。

手首取りの技の意義について8

みなさん!
こんにちは、お元気ですか? 僕はめちゃ元気です!
さて、手首取りの技の意義について今回で8回目となりました。

手首取りの技の意義を述べているうちに、「気」の話になり、手首取りの技を行う際には「最外殻の気」を動かさないのが大切という話になりました。ちょっと本題の手首取りから合気道全体の技術へと話が離れますが、非常に大切なポイントなのでその点を詰めてみたいと思います。

だが、実際に「最外殻の気」を動かさないというのがどうすれば可能かということです。ところが、正直に話しますと、その具体的な方法は合気道の存亡に関わるぐらい大切なことなので、極秘伝ということになっています。

私はこの秘伝のお陰で、運動オンチ、片目が見えないという2つのハンディキャップがあるにも関わらず、50歳を超えて、20代前半のプロボクサー、空手の師範や少林寺拳法の師範とスパーリングで十分に闘えた経験があります。別にこれを自慢しているわけではなく、そういった秘伝技術を知ると誰でもが使えるということを言いたいのです。

これぐらい「最外殻の気」を動かさないというのは効果的です。他の武道にはない特殊技術ですので秘伝になっていても仕方がないというのは分かっていただけると思います。何故なら、他の多くの武道や格闘技では、「最外殻の気」を強化し、虚々実々の「気」のやり取りで相手を翻弄する方法を取るのに比べ、合気道は「最外殻の気」の挙動を一切なくし明鏡止水の境地で相手と相対する方法をとっているためです。

しかし、それでは一般の合気道修行者には全くなす術がないということでは余りにも酷い話なので、ヒントになることを述べさせていただこうと思います。

実は、その「最外殻の気」を動かさない訓練に最適なのが「当て身」の稽古です。「当て身」の稽古は最近の合気道では殆どしないと聞いています。それどころか、「正面打ちの技」はやるが、正しい「正面打ち」の説明を一度も聞いたことが無いという合気道の修行者がかなりいるように思います。

でも、実際に武道として使おうと思うと、「正面打ち」に対処するには、熟練した「正面打ち」を受ける稽古が必要があります。ですので当会は、正面打ち、横面打ちなどから、色々なパンチでの「当て身」の稽古を行っています。

ですから、読者の方は先ず、効果的な「当て身」の出し方を研究し、どうすれば強烈な「当て身」を出せるかを実践していただくことをお勧めします。その上で「最外殻の気」を動かさない稽古をするとよいでしょう。

次回はもう少しだけ具体的に「最外殻の気」を動かさない稽古方法について述べたいと思います。

手首取りの技の意義について7

みなさん!
こんにちは、お元気ですか? 僕はめちゃ元気です!
さて、手首取りの技の意義について今回で7回目となりました。前回、「人間は慣れる」という話をしました。要するに、同じことをしていると相手は適応するということですね。

では達人はどうでしょうか?
達人が真剣に行った場合はいくら分かっていても「慣れ」ません。でも、いくら達人でも、相手を舐め過ぎているとやはり適応された動きで実は読まれてしまいます。

井口師範のような達人にも、一教の技の稽古の際そんな場面がありました。それは、井口師範の一教の技に小学6年生の子どもが逆らってしまったのです。さからったというより、井口師範の動きを予測して先に逃れたということです。井口師範も小学生相手だったのでかなり手加減されていたのでしょう。その子どもは見事に井口師範の一教から逃げてしまいました。ところが、それ以降は誰が逃れよう、逆らおうとしても、見事に技がかかっています。達人でも気を抜くとそんなことがあるということです。

私も、そのシーンを見て、もしかすると逆らえるのではと思いましたが、実際に手を取っていただくと、もう完全にコントロールされ、逆らえる状況ではありませんでした。

では、何が逆らえる要因を作っているのでしょうか?
それは、相手にこちらの動こうとする意図が先に読まれるということです。いつ・どう来るかそれさえ分かっていれば誰でも避けられますよね。だから大切なのはこちらの情報を出さないこと。

井口師範はそれを「気を出すな」と言われました。要するに、以前の気の人体図で言えば、「最外殻の気」を動かさないということです。ここで、少し「最外殻の気」の話をします。

「最外殻の気」は、本当のことを言いますと誰でも感じています。例えば、ある人が相手を殴ろうとすると、殴られそうになった相手は思わず身をすくめます。それは全く武道経験のない人ほど顕著です。これは、殴られそうになった相手が、殴ろうとする相手の気(最外殻の気)を無意識に感じ取ったためです。

ですから、「最外殻の気」が動くと、よっぽどぼんやりしてる人以外は無意識で反応します。それが「防衛本能」だからです。そのため、相手の「防衛本能」を潜り抜け、相手に「気」を感じられる入る訓練が必要になります。

それが唯一合気道が他の武道と違う点であり、相手との調和を目指す合気道であるからです。以前もお話ししましたが、合気道では「自然」であることを重視します。それは相手にとって「自然」であるということです。

相手にとって「自然」とは、言い方を変えると「防衛本能」を起こさせないということです。要するに「ああしよう、こうしよう」と考えないことで、「最外殻の気」を動かさず、相手の中に入るということです。これが「相手に合わせる」ということであり、相手と一体になるということです。ですから、「相手に合わせる」とは単に、相手の動きに乗るということだけではないのです。

合気道と護身と健康を考えるブログ