【合気道でいう自然とは?!】

皆さん、こんにちは!
お元気ですか? 私はすこぶる元気です。

さて、今回は合気道における自然観について述べたいと思います。

合気道では自然が一番大切とよく言われます。さて、その自然とは一体どういうことなのでしょうか?

私が学んだ井口師範は合気道の技を「ああしよう、こうしようと考えてはだめだ。それは不自然! 自然を重視する合気道では、相手の中に自然に入っていかなければならない」とおっしゃいました。

具体的には、形稽古を行う合気道では、受け(技を掛けられる側)が取り(技を掛ける側)に攻撃を仕掛けようと行動した時点で、受けがいつ取りに入られ投げられたのかが気付かず、気が付けば既に投げられていたという状況を作れる必要があるということです。それぐらい、己の存在が相手にとって自然である必要があるということでした。

ところで、タオイズム(道教、老荘思想、神仙道)では、自我をなくし自然と心が一体になったときに行う動作のことを、無為自然いいます。心が澄み切っていて、我が無くなった状態ということです。

いわゆる禅でいう無我の境地というものです。それゆえ井口師範は合気道を動く禅であるとおっしゃいました。言い方を変えると、合気道とは無我の境地で技を行えるようになることを目的に自己鍛錬を行う武道ということが言えます。

そのため合気道では形稽古だけを繰り返して行われます。形稽古では技の受け手である受けは技の掛け手である取りがどのように技を掛けてくるか初めから分かっています。だから、受けは取りの技に簡単に逆らうことができます。

ところが、無我の境地に達した取りの技には受けが逆らうことができないのです。合気道ではこのような境地を目指すため、試合などは行わず、ひたすら形稽古を行うのです。

この無我の境地というのは、具体的にいうと、異常に集中力が高まった特殊な状態を示す言葉です。スポーツではいわゆる「ゾーン体験」と言われている状態をさします。

日ごろからかなり鍛錬をするオリンピック選手ですら、ゾーンに入るのはごく稀で偶然に近いといわれるぐらいですから、一流のアスリートすら自在にゾーンに入ることはできません。だから無我の境地とはそれほど難しいものです。

ですから、形稽古のやり方を間違えると、合気道の本来の目的すら曖昧になってきます。よくある間違いは、受けの人が取りを無視して、闇雲に投げられたり、勝手に倒れたりすることです。

それが何故間違いかというと、受けが自然を完全に無視して勝手にやっていることですから、当然取りも無視している訳で、合気道は和合の武道といわれる本来の稽古からかけ離れたものになっているからです。

受けが勝手気ままに行う形稽古では結局取りが受けに合わすようになります。要するに受け取りが入れ替わるということです。飽くまでも取りは主であり、受けは従うものでないといけません。確かに、取りが受けに合わすと、見た目は凄い技を行っているように見えます。

だが、実際の場面を考えたら、それは異常であることが分かります。武道である以上最低限護身ができるということは大切です。そう考えたとき、現実の場面で暴漢が自ら意味もなく吹っ飛ぶようなことは決してありません。

また、このような形稽古ならなら、リーダーとパートナーという関係で行われるソーシャルダンスをしている方が目的がはっきりとしている分まだ自然に到達する可能性高いといえます。

さらに恐ろしい事は、こういう稽古を行っていると、いつしかそれが当たり前になり、大きな誤解をしてしまうことです。例えば、私の経験上、女性に非常に多いパターンですが「もう合気道を十年以上しているから私は達人」「私はもう黒帯だから、男性2人までは大丈夫!」「短刀取りの形を学んだからナイフはもう大丈夫!」なんて言うようになったりすぐのをよく経験しました。

このときが本当に危険です。以前にも述べましたが、合気道の本質をとらえていない女性では、男性の本気の力はとうてい対処しきれません。

しかしながら、合気道で護身術を考えた場合、即効性も必要なのは事実です。何十年もかけて、自然の境地に達するまで、ひたすら努力を続けるというのでは、通り魔やおやじ狩りに代表されるような近年増えている暴力事件への対処はかなり難しいということになります。

禅を専門に何十年も修行してもそのような無我の境地に達する人はごくわずかと聞いています。そして、「いつ投げられたかわからないぐらい自然に相手を投げれる」ようにならないと、合気道は使えないのであれば、やっている意味もないとも思います。

私も、当初は形稽古を行っていて、「こんな形稽古で本当に護身に使えるようになるのだろうか?」という疑問を持っていましたし、実際に使えるようにもなりませんでした。

というのは、自分の技術が如何に役に立たないかが、他の武道をしている人と関わるとよくわかったからです。そのため私はカラテを学んだり、中国拳法の本を読んで研究したりしていました。

ところが、あるときより井口師範より秘伝を授かるようになり、単に闇雲に努力をするのではなく、ある種の規則に沿った合気道には合気道の自然観へ到達する独特の方法があることを知りました。

とは言え、自在に無我の境地に入るのは私では難しいのは確かですが、この方法のいいところは、誰でも無我の境地で行っている状況に近い効果が生み出せるという点です。

次回では、秘伝を完全に公開するわけにはいきませんが、合気道ではこの自然観に到達する方法がどうなっているかをお話ししたいと思います。

護身術:武器としての靴の使い方

靴を武器にするといいますと、靴を手に持って何かするのではないかと予想される人が多いですが、靴の側面のエッジで脛など蹴るだけでかなり武器になります。普通の運動靴でもエッジで脛を蹴られると非常に痛いです。

素早く相手の脛にエッジをぶつけるよう蹴るだけで暴漢の動きを数秒間止められますので、かなり有効な武器となります。

本日のブログでは、シークンドーという武術で使われる蹴り方を紹介します。右足で相手の脛に靴のエッジをぶつけるのを想定して説明しますが、左右どちらでも構わないので、自分の蹴りやすい方で練習して下さい。

①まず相手に対して自分の右側面を向け、完全に横になって構えます。

②体を振り子のように振らせながら、左足を右足に素早く寄せ、右足は曲げて宙に浮かせます。

③左足を寄せた反動がある間に、右足を飛び出しナイフのごとく素早く蹴り、靴のエッジを敵の脛にぶつけます。

このときの注意事項をあげると、体が振り子のように振れることが大切です。ちなみにジークンドーでは、このフットワークを振り子即ちペンジュラムのようなので、ペンジュラム・シャッフルと呼んでいます。このフットワークのメリットは、移動して蹴るよりも短い時間で蹴りを相手に到達させる点にあります。

また、稽古する際の注意点は、くれぐれもパートナーの脛を直接靴で蹴らないということです。できれば座布団でも足に当てて稽古して頂きたい。というのは、軽く当たっても唸るぐらい痛いからです。

ちなみにジークンドーの訓練では、脛に丈夫なプロテクターを付けますが、それでも蹴られると腹が立つぐらいかなり痛いです。

 

護身術:武器としてのペンの使い方

皆さん、お元気ですか? 私はすこぶる元気です。

さて、今回はペンを使った護身術を説明していきます。

身の回りで武器にできそうなものと言えば誰もが最初にあげてくるのではないでしょうか?
ところが、案外ペンの持ち方をご存知ないようです。持ち方次第では、単に相手を怒らせるだけにしかならない場合もありますし、ペンが折れてしまうこともあります。
そこで、有効なペンの持ち方を示しておきます。

基本は、ペンはできるだけ手元に収めるということを覚えて下さい。相手が怖いからと言ってでペンを長くして持つと、テコの原理が働いて、案外簡単に手から外れてしまいます。

また、短く持つことのメリットは、相手に武器を持っていることが悟られにくいという点にあります。ですから、ペンを使うときは、なるべく相手に悟られないように心掛けてください。そうすることで有効な武器になります。

ではペンの持ち方を説明しましょう
持ち方は次の図の通り2通りあります。上の図は、先端を親指と人差し指でしっかりと抑え、残りの指にしっかり納める持ち方で、下の図は、ペンの天蓋をしっかりと親指で抑え、残りの指に収める持ち方です。基本はこの2種類ですので、これらを覚えておいてください。


なお、ノック式ボールペンなどでは、下の持ち方ではペンが出たり入ったりし、安定しないので、図の〇で囲った部分でわかるように、ノック部分を押さずに、クリップ部の上部を親指で抑えて持つことです。

 

護身にはジャケットを使え!

皆さん、お元気ですか?
私はメチャ元気です。

さて、先日、護身術の電子出版をおこなったという報告をしました。
力の弱い人でもできる唯一の護身術という本です。(https://www.amazon.co.jp/dp/B07FHYGQKR/0

現在改訂版を出すべく、色々と修正・追加を行っております。
第3章の中の「身の回りの物を武器にしよう」の項で、どうしても書いておきたかったのですが、イラストが中々追いつけず、とりあえず出版をしたので今追加をしている最中です。

なお、現在価格は250円となっていますが、1100円に改訂版から料金を上げる予定です。料金引き上げが9月から予定しています。3つの秘伝とはいえ、殆ど表に出ない秘伝技術を公開しているので、あまりにも安すぎると会員から不満の声があがったためです。

本を買っていただいた方も追加内容には関心があると思うので、このブログで発表していきますので安心してください。

今日発表するものは、「服を武器にする」とうことです。

ただ、このノウハウを公表すると、わりと「そんなの当たり前じゃん」と反応する人が案外多いです。

しかし、セミナーで、こうしてくださいと言ってみると誰もできません。今日のブログで発表するやり方も多分「そんなの当たり前じゃん」というものですが、「服を武器にするにはどうしますか?」という質問に正しく答えられる人が殆どいません。ちょっとした知識は、当たり前に思うのですが、知らないといざというときには使えません

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ジャケットを使った護身術

①図のように小指側に襟が来るように服を握りしめ、フリスビーを投げるときのように体の内側に構える

②相手の動きを感じたら、上着がまっすぐに相手にぶつかるように相手の顔面を目掛けて素早く投げつける

③相手にぶつけたら、すぐに手元に引き、服を引き寄せ、また元の構えの位置にもってくる

注意:
やたら服を振り回さないこと。威力がない上、隙だらけになるので、相手はあなたを害しようと手を使って簡単に服を避けてあなたのところに入ってくることができる。

 

 

 

呼吸力2

皆さんお元気ですか? 私はすこぶる元気です。

さて、前回の【呼吸力1】では、呼吸力は気とその気に導かれた間接要素で成り立った力であるといいました。さらに、呼吸力を理解する上で重要なのが、
①気に導かれた間接要素
②その間接要素をどう気で導くか
であり、その間接要素とは、体幹の力と運動エネルギーだというところまでお話しましたね。

かなり今回の記事を出すまで時間がかかりました。それは、説明が非常に難解を極めたためです。というのは、説明しようとなると本一冊分ぐらいは必要だからです。

ところで、今日は、②の間接要素を気でどう導いているかということについてかなり気になっておられる人が多いと思います。

そこで、今回は②について述べていきましょう。

まず結論から言いますと、「気で導くためには、相手との接点で気が伝わる特別な状況を必要」ということです。

ただ、この特別な状況を一概に言葉で説明できません。何故なら、シチュエーションによって、「接点の特別な状況」というのが違ってくるからです。

そこで、座り技呼吸法という2人二組になって、互いに向かい合ってすわり、一方が他方の手首を握り、握られた人が握った人を倒すという技について述べたいと思います。

この際のポイントは、肩の力を抜いて、手首を握られた際、すぐに指先を開き手をパー状態にすることです。

こう言えば、「そんなこと知っている」と合気道をしている人なら誰でもいうでしょう?

ところがそれを知っているにも関わらず、何故相手を巧く倒せない人がこれほどまで多いのでしょうか?

それには理由が2つあります。まず、指先に力を込めて開く動作の意味が分かっていないという点です。

ではどういうことか?というと、手を開くのは、相手を引っかけるという状態に持っていきやすいということです。呼吸力は相手の力に逆らって押し返す力ではなく、相手を引っかけて相手を運ぶ力を言います。

引っかけるという表現を使っていますが、どう引っかけるかというと皮膚に引っかけるのです。多くの人がやっているように骨を相手にぶつけて押すのではありません。

もう一つの答えは、肩の筋肉の動きがあるからです。もっと具体的にいうと、三角筋の動きがあるからです。

三角筋が動くと、三角筋で気が分散してしまい、もはや呼吸力ではなくなり、単なる腕力になります。

だから、「肩の力を抜け」といいます。でも、その表現は非常に微妙です。「肩の筋肉をブラブラにしろ」と誤解を与えるからです。
肩の筋肉を一切使わないで腕を動かすというのは、科学的にありえません。肩の力を抜けというのは、無駄な力を出すなということです。

例えば、歩くのに無駄な力をいれて歩いている人があると、異様な感じがし、つい「足に力を入れずにあるけないのか?」と言いたくなると思います。

じゃあ、普通の人は足の筋肉を一切使わず歩いているのでしょうか?

答えは“否”でしょう。その証拠として、何か月も寝たきりになった足が細くなり筋肉が無くなった人はすぐに歩けません。足のが腕よりごついのは筋肉がついているからです。このように歩くためには足には筋肉がかなり必要なのです。

そういう事実から考えても、達人が肩の筋肉を一切つかわないなど言っても、筋電図で筋肉測定をしたわけじゃないので本当に科学的に正しいわけではありません。

実はこの肩の力を抜けという表現は、古い時代に気の研究会の藤平光一師範が合気会で指導していたときの表現が残ったものと考えられます。井口師範は、「肩の筋肉を使うな」などとは言わず「肩の筋肉に気を通して、張りを作れ」とおっしゃいました。

このように達人一人一人表現が違うので、飽くまでも感覚的表現であり、科学的根拠でいっているのではありません。

私は井口師範がおっしゃったことが一番しっくりきました。この張りを作るというのが非常に大切だと痛感しています。

そういった感覚があるときに呼吸力が使われている状態と考えてください。全ての呼吸力を使う技に共通する感覚が「引っかけて運ぶ」というモノです。これ以上は、実際にお会いしないと説明が困難ですので、以上を参考に研究してみてください。

呼吸力1

皆さんお元気ですか? 私はメチャ元気です。

さて、今回から、かなり曖昧な言葉「呼吸力」について書いていきます。

合気道では、「呼吸力」を重視します。
「呼吸力」というのは、ウェイトトレーニングで鍛えた単なる力と区別するために用いる合気道独特の言葉です。

「呼吸力」を端的に言えば、「気」を用いた力を示します。ところが、それだけの説明で、さまざまな誤解を生じているのが現状じゃないでしょうか?

そのため、合気道をしている人に「呼吸力とは?」と問いますと、さまざまな答えが返ってきます。しかも、その答えは、非常に曖昧なのです。

それは合気道指導者についても同じことが言えるでしょう。ある道場では、「息をハ~と出せば気が出る」と指導していました。私の目から見ると、単に筋肉を使った力の出し方にプラスして「ハ~」と掛け声を出しているだけにしか見えませんでした。

他方、とある道場では、力を抜いたときに気が流れると指導している道場もあります。以前にもお話ししましたが、脱力には、別の意味があり、筋肉を使わないということではありません。今回は「呼吸力」についてお話しするので、脱力の意図を簡単に言っておくと、「察知能力を上げること」と「相手の動きに合わせること」の2点です。

話は「呼吸力」に戻りますが、井口師範の指導する呼吸力は、非常に具体的でした。というのは、井口師範自身が「これが呼吸力や」と、体で示してくださったからです。

師範自身は「これが気の力や!」と言っておられましたが、直接、「呼吸力」を示して下さるのですから、曖昧さの入る余地など全くなく、非常に明確でした。ところで、井口師範の呼吸力を受けたときの感覚をいいますと、「恐ろしく大きな力が突然加わってなす術がなかった。」あるいは、「まったく自分の力が入る余地がなかった。」という感じだったのを今でも思い出します。

「じゃぁ、呼吸力の正体は?」ということですが、呼吸力を科学的に考えたとき、確実に言えることは、体幹の強さから出る力+運動エネルギーがその根幹にあると考えることができます。

その理由は、師範に直接触れずに気だけが送られた場合と、直接受けた場合では、受ける感覚が違うからです。科学的に考えた場合、離れている場合と接触している場合に関する共通項のみが気の正体と考える方が妥当的です。

だから、呼吸力についても、「気と気に導かれた間接的要素」ととらえているわけです。そうすると、非常に明快な答えが現れます。

そこから導きだされた答えは、私たち修行者が実は「呼吸力」を理解する上で必要としているのは次の2点ということです。
①気によって導かれた間接要素がどうなっているか?
②その間接要素を気でどう導くか?

①についてはもうすでにお話ししましたが、もう一度記しておきますと、
呼吸力=気 + 体幹の強さから出る力 + 運動エネルギー
です。

②については、かなり長くなるので、また次回にお話しします。

なお、呼吸力を別の方向から書いた話は以下にあります。

呼吸力の誤解

今回からはより具体的に科学的考察を加えた内容にしていくので、このブログで曖昧にしていた点もはっきりとさせていきますのでお楽しみに!

 

【護身術の本出版】

皆さん、お元気ですか?
私はとても元気です。

しばらくブログをお休みにしていましたが、実はその間に、護身術の本を書いていました。
そして、アマゾンのキンドル版で出版しました。

本の題名は
力の弱い人でもできる唯一の護身術
 -合気道の秘伝エッセンス
 -女性・シニアにできる唯一の方法を世界初公開
としました。

先月6月9日に、東海道新幹線で無差別殺傷事件が発生し、誠に残念なことに一人の男性が亡くなりました。

その男性は、頭もずば抜けていて、会社からも期待されている上、周りの人にやさしく非常に正義感が強く本当に人格的に優れた人だということでした。

また、刃物をふるう犯人に無防備な素手で相手に立ち向かうというのは、並外れた勇気の持ち主であったのでしょう。
心からご冥福をお祈り申し上げます。

でも、本当に残念でしかたがないのは、もし少しでも日ごろから護身への問題意識があれば貴重な生命を失うことがなかったのではないか思われる点です。

この悲惨な事件から分かることは、日ごろの護身の意識がなければ、このような東大を出ているほどずば抜けて頭がよくても命を失ってしまうという点、普通の頭しかない私たちは、それこそ日ごろから十分注意しておかなければいけないという点ではないでしょうか?

ところが、マスコミでは視聴率の関係からか、こういった事件が起こっても全く護身について語られることがありません。

そこで、そういった悲惨な事件をこれ以上増やさないためにもと、安全確保を重視した護身術の本の必要性を感じ、この度、出版することにしました。

本書の大きな意義は、本来は合気道の一部の者だけが独占していると思われる力のいらない秘伝技術の本の一部ですが公開した点です。ですから、合気道修行者も非常に参考になるとは思います。

本書で書いた技術は、骨の技術の秘伝、皮膚の技術の秘伝、空間感覚の技術の秘伝の本の一部を護身に焦点を当てて書いたので、実際に合気道の技に活かすには不十分とは思います。

何故なら、素人の護身という点で書いていますので、秘伝技術の幅広い応用については言及していないからです。

それでも、力のいらない技術の一端を知ることができると思いますし、秘伝技術の説明ではイラストなど入れて分かりやすくしたつもりですので、ご興味がある方は読んでいただくといいと思います。

また、一般の人も、今後このような犯罪がますます増えると思いますので、是非とも安全確保のため読んでいただければ幸いです。

現在のところ、価格は250円としています。
しかし、このことを当会の会員の皆さんに話したところ、「安すぎる」と言われました。そこで、今後の値段を再考しておりますので、急遽上がるかもしれませんがあらかじめご了承ください。

なお、価格を変更する際は、ブログでお知らせいたします。

以下にアマゾンのリンクを貼っておきます
力の弱い人でもできる唯一の護身術
-合気道の秘伝エッセンス-女性・シニアにできる唯一の方法を世界初公開

 

「気とは?!」その18 熟練度と抽象度について

前回、私は「気のフェーズに合わせてする指導法を取っている」と述べました。

しかし、フェースブックの個別のメッセージで「“気”は宇宙エネルギーであって、“気”を分けて考えるのは邪道です。治療で使う気も、武道で使う気も同じです。あなたの考えは根本的に間違っている」との意見をまたまた別の方からいただきました。

要するに、合気道で気を指導するのに、状況などで分けて指導するのは良くないというご指摘です。

そのような考えの方もいらっしゃると思いますので、もう少し抽象度という点で説明を加えたいと思います。

例えば「超能力」という言葉があります。この能力を分けると、テレパシー、サイコキネシス、パイロキネシス、サイコメトリー、ヒーリング、透視能力、テレポーテーション、予知能力、エンパス、霊能力、…とかなり多くの分野に分けることができますね。

でも、これらを総括すると「超能力」という言葉になります。さらに、超能力と呼ばれるどれか一つの能力を持っていると「超能力者」と呼ばれます。

「じゃあ、全部超能力でいいじゃん」ということです。ところが、超能力者を見てみるとそれぞれ得意分野と不得意分野がありますよね。もしかしたらすべてをマスターした人がいるかもしれませんが、その人からすれば、「よし、テレパシーを使おう。テレパシーの使い方は、意識をこう集中して、そして…」などバカげたことだと思うはずです。ただ「遠くの人に呼びかければいいじゃないか」ですみます。

これはケイタイでも同じですね。ケイタイを初めて持った時は、「えっと、電話の掛け方はどうだったっけ。このアイコンを押して、それか……」というように一々手順を考えたと思います。

でも慣れてくると、様々な局面に合わせてスマホを使われるわけです。電話をするにしても、必要あればラインで電話したり、メッセンジャーで電話したり、電話回線を使った電話をしたりと、ほぼ無意識で電話しています。ついには熟練度があがると「同じ携帯じゃん! なんで分からないの?」ってなります。

このように熟練度があがると様々な細かい点もすべて一つにまとまってきて、「何事をするのも同じ~じゃん」となるのです。これが「抽象度が上がる」ということです。

人は、熟練度があがり高度化してくるほど思考自体の抽象度が高くなります。要するに一つのことですべてを包括できるようになってくるわけです。

以前、ブルース・リーが自分の武道をジークンドーと呼び始めたころ、武道に関係のない一般事象でも何事においても、「これはジークンドーだ」と同朋のダン・イノサントに話したといいます。ついにはジークンドー自体をコンセプトであると打ち出したと聞いています。

仏教でも、一休さんはカラスの鳴き声で悟りを啓いたという話しがありますが、「カラスの鳴き声で悟りを啓くって、どんな悟り? 何かかなりショボくね?」と思う人もいるでしょうが、カラスの鳴き声と宇宙の真理が結びつくということはかなり仏教に対して熟練しているということがわかります。

タオイズムでは、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」(『老子』第四十二章)と万物の始まりを説明します。また「還虚(虚に還る)」(『老子』第十六章「帰根復命」)といって上記を逆行して最終的に一の元である道(タオ)に戻ることを目標に修業しますが、まさしくこれに近いではありませんか?

このように熟練度があがると、1つがすべてを包括するという意識に立っていきます。

私は「気」についても同じことがいえると思うので、色んなアプローチから気の本質に至ろうとしている訳です。達人が気の本質に気付いたからと言って、本質だけ聞いて凡人がいきなりその本質にたどり着くことはないと私は考えています。

熟練度が上がった完成された人は「すべて気」といいますが、そのまねをしてもそこには到達できないのではないかと思っています。

やはり、その達人にしても、そこに至ったプロセスで、具体的におこなったことが沢山あるはずです。そういったプロセスを経て頂点に至りそこから眺めれば、確かに頂点に至る道はたくさんあるということに気づくのだろうけれども、かといってどんな行き方でもたどり着く訳ではありません。頂上に向かう正しいルートがあるはずで、少なくともそのルートを通らないといけないわけです。

例えば富士山に登るにしても様々なルートはありますが、知らなければ行きようがありません。さらに最速最短で富士山に上りたいのであれば、その経験者に道を教えてもらう必要があります。

一方、道は沢山あるからと、富士山のことも調べず自分勝手に富士山にのぼろうとすれば、樹海に迷ってしまうのがオチでしょう。

私は、初心者の段階で、いきなり達人の「気」の境地を教えるのは、地図すら示さず遠くから山をさしてあの山に登ればいいと教えるようなものだと考えます。

私は、井口師範が示して下さった「気」の本質というとんでもない高い山に登れるよう、遠くにその山が見えている初心という位置から私のが登っている現在の位置までに謂わば「舗装した道」を付けていこうと考えています。そんな訳で私は今の団体を興しているのです。

「気とは?!」その17 私が独自流派を立ち上げた理由

皆さんこんにちは!
お元気ですか? 私はめちゃ元気です。

さて、昨日の私のブログに対して、知人からご意見をいただきました。

それは、
“達人と言われている人達は、すべて一くくりで「気」といっている”
ということでした。

これはとてもありがたい意見と思いました。
何故なら、これは私が独自流派を立ち上げた理由がそこにあり、一番言いたかったことを端的に表してくれている言葉だからです。

そして、彼が言っていることは確かにその通りであり、全く正しいのです。しかし、私の言っていることも間違いでありません。

何が違うかというと、単なる抽象度の違い! ただそれだけです。

もう少し具体的にいうと、例えば、犬は動物です。「だから犬はもう動物でいいじゃん!」というとどうでしょうか?
そうなると猫も動物ですから、犬も猫も区別がつかなくなります。

もっと抽象度を上げると、「生物でいいじゃん」となると細菌も生物です。もうそこまでいったら訳がわからなくなりませんか?

これと同じように、達人になってくると抽象度がかなりあがり、すべて「気」ですむことになります。

しかし「気」では、一般の人が学ぶには、かなり抽象度が高いと私は考えます。ですから、「気」の抽象度を下げるためにそのフェーズで指導をすることにしている訳です。

一般的に合気道では、「気」の概念で教えていますが、私はこれでは、小学生に算数を教えるのに、同じ数学の括りだとして、足し算より先に微分や積分を教えるようなものだと考えます。

数学の専門家、いわゆる数学の達人は、足し算だろうが、微分積分だろうが、どれも数学の一分野として納得できますが、足し算を始めたばかりの子供にいきなり微分や積分を教えても理解できません。

確かに、子供は言葉を修得したように、微分・積分の問題を何度も教えている間に足算・引算の概念から、掛け算・割算、さらには関数の概念が分かる子供も現れるか可能性もあるとは思います。しかし、多分、その抽象的な数学の概念を修得できるのは生まれついた天才だけじゃないでしょうか?

だから、初心者には抽象度を下げて教えてあげる必要があると私は考えます。しかし、現状の合気道はひとくくりにした「気」を教えることになっているて、しかも具体的に教えるのは一部の弟子だけという話も聞こえています。

それでは、大多数の人はに修得が難しいのではないかと考え、私は自分独自の武道を立ち上げたわけです。

「気とは?!」その16 武道での「気」

皆さん、こんにちは!
元気ですか? 私はすこぶる元気です!

さて、今回はズバリ“武道での「気」”として「気」の扱う注意点”についてのお話しします。

「気」というと、私たち武道家だけでなく、霊能者、気功家、ヒーラーと言われる人たちも扱っていますね。

では、武道で扱う「気」と病気などを治すヒーリングで扱う「気」とは同じものなのでしょうか?

少しそれについて考えてみましょう!

ここで、飽くまでも極論で、道の考えとしては間違いなのですが、分かりやすく話するため、極論を述べます。

極論では、「気」の扱い方では、武術は相手を壊す方に「気」を使い、気功家・ヒーラーは人を治す方に「気」を使うと言えます。

このように極論でいうと、武術とヒーリングでは「気」の扱い方は、まるで磁石のSNと同じように、全く正反対で対局に位置します。

ところで、皆さんは、この両極にある「気」の扱いをひとくくりに述べるにはかなり無理があるのではないかと思われませんか?

要するに私が言いたいことは「気」は用途によってかなり異なる性質というか様相をもつということです。分かりやすく言えば「気」の現れ方が違うということですから、一概に「気」の力と言ってしまうのはかなり誤解を生じるのではないかということです。

だから、この「気」の現れ方に応じて、それを扱う人が個々に対応する必要があるのではないかと私は考えています。

そうすれば、それぞれの分野において「気」の性質というのがよりはっきりしてくるのではないでしょうか?

例えば、ヒーリングにより病気を治す「気」というのがあります。気功で人を治す場合、相手がその「気」を受け入れる必要があり、特に相手が完全に拒否した場合は多分病気を治すのは不可能という気功家もいます。

一方、私たち武道家は、相手が「気」を全く受け入れなくても、相手を「気」で制する必要があります。何故なら、「気」だけが唯一、年齢、性別、運動能力、体格、筋力などを超えられるからです。

時々、武道経験のない気功家の方が、私たちの武道に関わってくることがありますが、暗示にかかりやすい人を除いては、武道の素人の気功家が武道経験者とスパーリングをして勝てるほど甘くはないというのが現実じゃないでしょうか?

この点をお話しすると、ヒーラーさんの中には異議を唱える方もいるかもわかりませんが、「気」のバリアを張って敵を制することができるといわれているヒーラーさんにお会いしたことはありますが、現実にバリアが張れる方と私はまだお会いしたことがありません。

可能性としてはそういう方もいらっしゃるかもしれませんが、基本的には「気」でヒーリングができることすなわち武道として使えるということではないということです。

もしバリアを張って護身に使えるというヒーラーさんがいらっしゃったら、その人が特殊だ思います。

武道では、武道として「気」を扱う稽古が必要です。

当会では、「気」を扱うのに、「気」には様相で違いがあり、それに応じた方法で稽古を行う必要があると考え、それに応じた技術を最も近い科学的見地(物理学、生理学、心理学など)に立って説明しています。

ですから、「気」を信じようが信じまいが、また、気功の素質があろうがなかろうが、そんなことに関係なく当会では誰でも武道での「気」を使うことができるようなるのです。

合気道と護身と健康を考えるブログ