【物理で考える】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

今回は、合気道の「合わせ」を行うための再プログラミングについて話したいとと思います。


力×時間がパワーを決める

合わせを行うのに、僕たちは今まで獲得した動作を再調整する必要があります。

僕たちの基本的な癖というのは、まずはバランスを取るというところにあります。

そのため、まず足を踏ん張って、相手の力に対抗するという行為が自然と出ます。

これは、攻撃をする際もそうです。例えば、相手にパンチを打ちだす際は、パンチを打ちだす瞬間が最も安定するようにタイミングを合わせて行います。

相手の手を取りに行く場合は、相手の手を引っ張るのが目的であれば、相手の手を持った瞬間に相手を引っ張れる最も安定した態勢をとります。

このように、人の中には決まったパターンで決まった動作をしますので、相手は容易にその動作の意図をくみ取って、自分が最も安定した状態でそれに対峙しようとします。

しかし、力の伝え方は、踏ん張って安定させてから行うだけではありません。物理を勉強すると、相手を動かすには力だけではなく、力積、つまり物体に加える力と時間が問題だと言われています。

要するに、どんなに衝撃力が強くても、その持続時間が短いと相手を十分に動かすことができませんが、小さな力でも、持続時間が長いと相手を動かすに十分なパワーなりえるということです。


運動エネルギーも大切

相手を動かすという点からすると、運動エネルギーを伝えるということも大切です。

相手を動かすというのは、基本的に相手に運動エネルギーを与えるということです。ですから、相手に加える力と時間の積が大きいほど相手へ運動エネルギーを与えるということになります。

ところが、相手に運動エネルギーを与えるという点において、力積だけを考えるのではなく、自分を加速していおいて、自分自身に運動エネルギーを持っておいて、それを相手に伝えるという考え方もあります。

さらに、作用反作用の法則を用いることで、一瞬に相手に運動エネルギーを伝える方法もあります。

それには、相手と真逆に動くことです。これは中学の理科などで学ぶので知識としては分かっていても、この真逆に動くというのは、心理的には非常に厄介です。

このように、運動エネルギーを伝えたり、起こしたりするということは、日常僕たちがやっている動作の安定を作り出してから筋力で押したり、引いたり、当てたりするという方法とかなり違うため、何度もやって体で覚える必要があるのです。

そうした指導を受けて、初めて体が動くようになり、相手は日常接することのない動きによって混乱し、技にかかってしまうのです。

これが合気道の合わせの一つの原理となっています。


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【合わせと意識】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、前回は合わせは誰もが達人レベルでやっているという話をしました。ところが、合気道での合わせが全く上手くいかないのはどういう訳かという問題点が残ります。

その一つとして相手にこちらのしようとすることが読まれているからだという話をしましたが、そのことについてもう少し詳しく述べていきたいと思います。


動作はプログラミングされたもの

「合わせ」を行うためには、僕たちが自分で獲得してきた動作の見直しをする必要があります。すなわち今まで獲得した動作というのはプログラミングされたもので、それにないものは再度プログラムをする必要があるということです。

僕たちが生まれて、自然に身についた動作は、多かれ少なかれ周りの影響を受けて身についています。

赤ちゃんが二足歩行するのは、家族が二足歩行をして歩いているから、それを見て赤ちゃんは二足歩行を学びます。

僕たちは親や兄弟の動きを学ぶことで動作を獲得しているということは、彼らが経験したことのない動きを勝手に獲得できないということになります。

そこで、合わせの問題ですが、こういった学習の結果、合気道修行者にとって「合わせ」というのが非常に困難に感じるようになっているのです。

前回もお話ししましたが、僕たちは、相手が自分を崩そうと動いたとき絶妙なバランスで、相手の力に逆らえるように動きます。

その結果力が強すぎて倒れるということがありません。ただ、相手の力が自分の力よりも上回っている場合、無理やりねじ伏せられることはあります。


意識の違いが大切

合気道で上級者の技を受けると、非常に不思議な感覚を覚えます。それは、無理やりねじ伏せられた場合には感じられない不思議さです。

力でねじ伏せられた時は、何ともいえない相手への敵意がわいてきますが、合わせられた場合は、「どうして?」という感じで、倒されてしまいます。

この違いが大切です。この違いを相手に感じさせるためには、今まで身に付けたプログラムの書き換えが必要です。

そのため、相手の知らない技術を覚え、自分の中に落とし込む必要があります。

その前に、「相手の土俵で闘わない」という前提が必要になり、相手と力勝負をしないという強い決意で臨まなければいけません。

そして「相手の土俵で闘わない」ために、自分の意識革命が必要になります。こういうと「精神論か?」と思われるかもしれませんが、そうではなく、フォーカスする点が違うから相手とぶつからないのです。

当会の技術を学んだ空手家の人で、この意識革命を武道革命と言われた方がいらっしゃいますが、この意識の違いが大切なのです。


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【合わせは特別ではない】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

今回では、合わせというのは、実は誰もがやっていることで、達人でもなんでもないという話と、では思うように合わせができないのは何故かというところに焦点をもっていこうと思います。


合わせは特別なものではない

合気道で「合わせ」をするように言われると、殆どの人は非常に苦労します。

それで、合気道修行者は、「合わせ」が完全に分かるようになるのに数年から数十年費やすることも珍しくありません。

というと、「合わせ」が完全にできるのは、才能ある特別な能力の持ち主と思ってしまいがちです。

ところが、別の見方をすると、実のところ、二足歩行して普通に歩ける人の「合わせ」は、達人レベルということができます。

例えば、あなたは人が倒そうと衣服を引っ張っても、マネキン人形のようにそう易々と倒れることはありません。

これは、相手の行動から、相手の力を読み、バランスを取っているからです。

このことを考えると、相手の状況を読み、対処するということに関して非常に巧みであるといえます。

ぶっちゃけこれは、相手への完全な「合わせ」であるわけです。


何故合気道の「合わせ」が難しいのか?

合気道では指導者に力を抜いて「合わせ」なさいとよく言われます。

ところが、いくらそういわれても、中々その「合わせが」できません。

そこで、進歩的な合気道修行者は、別のところで身体操作などを学び「合わせの技術」を習得しようとします。

すると、自分の道場に帰ると、不思議と技が効くようになります。そこで、その修行者はようやくホンモノに出会えたと感激するのです。

ところが、しばらくすると、自分の技が効かない人が現れ始め、やっぱり自分の技が効かないと思ってしまいます。

これは何を意味するのかは、もう賢明な読者の方にはお分かりだと思いますが、最初の頃は、相手がこちらの技に慣れていないため、こちらの情報が読めず、技にかからないのです。

ところが、慣れてくるにしたがって、コチラの情報が十分にとれるようになると、次から次へとこちらの技に逆らえるようになります。

これが原因です。要するに技を効かせることができるというのは、コチラの情報が遮断されているというのが最大の前提になっているわけです。


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【時点思考からの脱却】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

本日「技の研究会」を行いました。そこで、最近ブログでやっていることを技でやってみようと、話しから入って説明を試み、ブログの内容が十分会員に伝わっていないことがわかりましたので、今回のブログではもう少し、説明を加えようと思います。


時点を合わせるとは

本ブログでは、日本語の「あう」という言葉から出発して、「あわせる」というのは「合計」すること、要するに「併せる」ということだと説明しました。さらに、「あう」から「あい(愛)」という言葉が出てき、さらに、合わせることで「調和」を生み、さらには技では「勝速日(かつはやひ)」という発想にたどり着くということでした。

前回は、「合わせる」というと、どうしても一時点を想定してそのタイミングに合わせるということについ意識が行ってしまうが、時間の唯一の一点だけに合わせるというのは良くないという説明をしました。

ところが、これらのことを弟子たちに話しても、中々理解してもらえないということで、実際に技を行って説明して、ようやく理解してもらえました。


時点を見る動きから変える

「ある一時点」という表現が難しいかったのですが、これには人が二足歩行をしているということをまず抑える必要があります。

ヒーローの人形などを例にとると分かるのですが、棚などに飾っておくのに、ただ立たせるだけなら安定して立っていますが、ちょっと振動を与えると、人形は倒れてしまいます。

このように本来は二脚で立つというのは非常に不安定なのです。そのため、人はある攻撃を他人に加えようとすると、攻撃前よありも、相手に攻撃を加えた時点が最も効果的になるように動きます。

例えば、正面打ちで眉間を割るつもりなら、正面打ちが当たる瞬間が最も安定している必要があるわけです。

このように二足歩行の場合、目的が決まると、その目標に到達した瞬間だけが最も安定してます。人はそ瞬間を目指して動くのです。

合気道では、相手の初動から連続的に相手の動きを観察していて、変化が起こった時点から、相手のゴールの動きを想定してその前に自分が動くことで相手を安定させないようなゴールを設定に変更するのですが、実際に体で行いながら、説明しないと文章では限界があります。


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【ゴールから考える】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、前回は調和ということで合気道の技の考え方を説明しました。今回はさらに一歩進んで、調和をとるための思考方法について書いていきたいと思います。


ゴールは何か?

合気道の形で調和を取るというのは、どういうことかと突き詰めると、あるゴールに向かって一つになるということがいえます。

では、合気道の技において、ゴールとは何だったでしょうか?

これについては以前にもお話ししたと思いますが、「投げたり、固めたりは枝葉」という僕の師匠の言葉どおり、投げたり、固めたりする前に、相手との合わせというものが存在していないといけないのですが、その合わせの最終形態がゴールです。

では、合気道の形において合わせの最終形態とはどんな状態でしょうか?

それは、自分が宇宙の中心と一体となって安定して、自分の動きの中に相手を巻き込んでいる状態です。

要するに、自分が安定している状況で、相手が重心を奪われた状態になっていることが、最終的なゴールです。


勝速日(かつはやひ)

ゴールが分かると、次はそのゴールを作るためには、今の自分はどう動くかという発想が大切になってきます。

相手が来てからという発想ではなく、相手が来る前に自分がどう動くべきかという発想でないといけないということが分かります。

要するに待ちの状態ではなく、合気道の技の中により積極的に如何に相手に関わってくるかということが大切のわけです。

ですから、合気道は見た目は相手の攻撃を待って行っているので受け身の武道とよく言われますが、心では、より相手に関わろうとする能動的な武道なのです。

しかも、相手を制するのではなく相手と調和し和合するのを目的にしているため、先を制するという考えがないのです。

そこにあるのは勝速日(かつはやひ)という考え方で、勝速日というのは、もともとは日の出で太陽が昇った瞬間に日差しがすぐに自分のところに届くぐらいの時間ということですが、それぐらいの反応で動くということです。

そのためには、初めから相手に合わせておくということが必要になってきます。来た瞬間に向けて合わせるのではなく、初めから合っているから、相手にとって勝速日、すなわち気が付くとやられているのです。


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【調和】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、合気道の「合わせる」ということについて先日から色々と述べてきましたが、「合わせる」というのは「調和」だということだという結論になります。

そこで、「調和」ということから「合わせる」ということで技を考えてみたいと思います。


調和から考える合わせ

「合わせ」というのを考えたとき、普通、ある瞬間を想像する人が多いと思います。

これは、前回もいったように、本来の日本語の中に、外国後の要素が知らぬうちに入ってきているため、どうしても、合わせというと、相手と自分とかいうように、主と他というように2つの別々の要素で考えてしまいがちです。

そうすると、タイミングを合わせるといっても、ある時点で合うということを連想してしまいます。

そうすると、非常に合わせるというのが困難で、何分の一秒でも拍子がずれると合わなくなるということが起こります。

ところが調和という点から合わせを考えることにすると、それはもはやある時点という考えが消滅します。

調和ということを考えに入れたとき、いつなのかというと、あらゆる時点で合っている必要があるという考えになってきます。実はこの考えが非常に大切なのです。

すると、はじめも終わりもなく、相手と常にシンクロを起こす必要があるという発想になります。

そなるともはや一点で合わせようとする意識が消え、如何に相手と調和した動きをとるかという問題です。


相手と調和するには?!

ところが相手と調和するだけでは技になりません。それにはイメージが必要であり、さらに「中心が何か? その主体が何か?」という意識が重要になってきます。

先ず、イメージというのは、太極図と呼ばれる白と黒のオタマジャクシが互いに向かい合ったイメージです。

白いのがあなた、黒いのが相手です。あなたは、相手の動きと調和して一体となり、相手の動きを吸収し、そして一つの宇宙となるというイメージが技には必要になってきます。

そして主体は技の掛け手であるあなた自身ということです。

要するに、調和するのが、主体が自分であるという意識が大切なわけです。

さらには、技の中心がどこかという点も大切です。この技の中心というのは、動きの中心でもあり、物理的な中心ということです。

それは、自分と相手とで作り出す宇宙の中心でもあるわけです。

そういったイメージと主体性を持って技を行うと考え方が変わり、技というものをどう構成するかというのが見えてこないでしょうか?


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【「あう」という日本語】2

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、前回の話の続きをしたいと思います。


「合わせる」

前回お話ししたように、「あう」という言葉は元来は「一つになる」ことを意味しています。言い方を変えると「合計する」というわけでした。

この考えからすると、相反する2つのものであっても、「あう」と、一つのものとなることができるということです。

例え、相手が敵であっても、「あう」という考えの元では、相手と一つになるということが可能だということです。

さらに、「あう」を名詞にしたとき、「あい」という言葉になります。

合気道開祖・植芝盛平翁先生は、「合気とは愛なり」とおっしゃいました。この言葉から「愛」とは、相手と一つになること、すなわち「愛」とは「調和」であると言えます。

実は、「愛」は音読みですからもともとの 倭言葉ではありませんが、「合い」という響きは「愛」に通じるという点で、合気道の「愛」は「合い」を包括したさらに広い意味となり、対象が何であろうと「調和」するということになるわけです。

それが本来の古来から脈々と受け継がれた日本の考え方です。ですから、日本では神は八百万といって、無数にいて、善も悪もなくそれぞれが調和して存在しているとするのです。

そして、調和した状態が気に満たされた状態、不調和が気が枯れた状態と考えます。


合気道は禊の行

合気道の開祖は「合気道は禊の行」ともおっしゃられています。

禊とは、穢れを払う神道の儀式の事です。神道では気が枯れた状態を「穢れ(気枯れ)」といいます。その穢れた状態をきょめるのが禊です。

禊は「身を削ぐ」というところから来ているといわれますが、「肉を削ぐ」のではなく、身についた穢れを水で洗い流すということです。

ちなみに、「み」は水に通じています。神道では、「天」「火」「水」「地」の4つのエレメントで、万物の創生を考え、純粋で清らかなものが天に、濁った粗いもの地に積もったと考えられ、その中間に、「火」と「水」が存在して、万物を構成していると考えています。

ですから、人は「ひ」と「み」に分けられ、魂は「ひ」、身体は「み」ということになっています。

そして、穢れというのは「ひ」ではなく、「み」に起こるものとするわけです。

そこで身についた穢れも、禊で払えるわけです。ちなみに、魂の場合は「曲がる」という発想をします。真っ直ぐなっている魂が正常で、曲がった魂が「まがひ」と言って分類します。

話はもどりますが、結局、合気道は、真っ直ぐな魂が、身の穢れをなくして、調和を目指して行う武道ということが言えるのです。

次回は、合わせるということで、こういった考えと技がどう結び付くかについて考えていきたいと思います。


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【「あう」という日本語】1

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

先日から「合わせる」ということでブログを書いていますが、今回は本来の倭言葉である日本語について話したいと思います。

合気道では「合わせる」ということを重要視しますが、中々その意味わかりにくく、色々なことを言われる人がいらっしゃいます。
そこで、「あう」という日本語を考えてみたいと思います。


日本語は起原は分からない

最近の言語学における日本語の起原についてお話ししたいと思います。

長い間、言語学では日本語はアルタイ語説が正しいとされていて日本語は朝鮮語と姉妹関係にあり、日本語は古代朝鮮語の単なる方言のような立場で扱われてきました。

ところが、「国際日本文化センター」が中心になって系統論が再び国際的に論議され 始めて以来、比較言語学の研究から、「日本語の系統は不詳」ということが分かってきました。

要するに古代の日本語である倭言葉には、他の言語による影響が全く見えないということです。比較言語学的にみると唯一日本語と親族と言える言語が琉球語であるということです。

ですから、古代朝鮮語と比較しても、世界中の言語に関して使えるはずの既存の比較言語学の常識が役に立たないということが分かっています。

つまり、韓国語と日本語は文法が類似しているものの、基礎言語にあまりにも共通が無さすぎるという点です。

もし、日本語が韓国語の方言というなら、韓国語の基礎言語から日本語の基礎言語が派生している特徴がなければいけませんが、それが無いわけです。

以上の点から日本語は、縄文時代以前から他の言葉と隔離された言葉であり、少なくとも5千年以上前から、日本語の元になった倭言葉は他国の言葉が入っていないということになります。

ということで、日本語は日本独自の文化が数千年脈々と受け継がれた言葉だと言えるのです。


日本語の「あう」と合うは元々異なる

日本語の起原が不詳ということから、日本語が独自のものという観点で、日本語の「あう」という言葉を見ていきたいと思います。

漢字ですが、元々は古来の中国の漢から伝わった文字ですので、日本語と合わせるため、「あう」という言葉を状況によって整理して、「合う」「会う」「遭う」「逢う」「遇う」などの文字にあてはめたのが始まりです。

このように同じアジア民族であっても、日本語の本来の意味のあうとは違うのです。

例えば合気道の合わせは「タイミングを合わす」ことだと言う方がいらっしゃいます。

それを英語で考えると、英語では「タイミングが合う」ことをmeetを使います。ある時点、ある地点で出会うということです。

これは、視点は個人にあり、あくまでもそれぞれの個人がある点で会うということを示します。

一方、日本語では、「合う」と言葉を考えると、「合う」は合計という意味です。すると、合計と考えたると、そこには一点という考えではなくなるのです。

本来の言葉からすると、タイミングが合うは英語と同じ意味である「一点で出会う」という点ですが、本来の日本語の合計という意味で考えた場合、タイミングを合わせるといっても、相手と自分が一体になるという合気道本来の合わせの意味が出てきます。


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【合わせるのヒント】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今日は「合わせる」という言葉に注目してブログを書いていきたいと思います。


タイミングに合わせる

僕が全然未熟だったころ、合気道養神館の故・塩田剛三先生のビデオを見て、非常に感動して凄いと思いました。

それで、塩田先生のご著書やビデオをたくさん購入し、色々と研究しました。

そこで、僕はタイミングを合わせるということの大切さを知り、タイミングを合わせることにかなりフォーカスした時期があります。

そこで、人の動作をよく観察し、その動作に対して如何にタイミングを合わせるかということに徹底的に取り組みました。

ところが、こういうことをしていると、確かに相手に合わせることができるようになっては来るのですが、それが100%には程遠いという現実にぶち当たりました。

上手くいくときは、技が決まるのですが、やはり上手くいかないときがある。

他のスポーツであれば、タイミングを合わせるのは100%でなくてもできます。例えば野球のバッターですが、良い球でも3回のチャンスがあるわけです。

それだと、武道の意味がありません。効かないことがあるのであれば、護身術としては役に立ちません。

それは才能だと割り切ってしまうと、合気道をしている意味が僕には見出せませんでした。


合わせるのヒント

僕の師匠は達人だったので、タイミングを合わせるのは100%でした。

それで、師匠にお伺いしましたところ、「話は簡単! 宇宙の気に合わせたらええだけや」といつもおっしゃっていました。

僕には宇宙の気というのが見えませんでしたから、言われている意味がわかりません。

そこで、どうすれば宇宙の気が見れるのかを井口師範にお伺いしたところ、「気は目では見えん。宇宙の気に合わすというのは、自然に振舞うこと、それが宇宙の気に合わせることや」とおっしゃいました。

まさに達人の答えということで、言葉の意味は分かりますが、腑に落ちるという意味では全く意味が分かりませんでした。

ところがあるとき「合気道は、投げたり、固めたりは枝葉。もっと本質をみなあかん」と言われたとき、僕はびっくりしました。

合気道の技の特徴は、やはり投げ技や固め技にあるというのが書籍で得た知識でしたので、それが本質ではないというのですから、『それでは合気道ではなくなるのでは?』と思ったのです。

柔道には柔道独自の投げ方があり、それが柔道の特徴を表しています。空手は空手独自のフォームがあります。

そうしたものが枝葉というのなら、合気道も柔道も空手も何も分類できないではないかと思ったのです。

しかし、そこに「合わせる」というヒントがあったわけです。


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【合わせる】

皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。

さて、今回は合わせるということについてヒントを書いてみたいと思います。


宇宙と合わせる

合気道では「合わせる」ということをよくいわれます。それで「相手の合わせばいいのか」とつい納得してしまうのです。

ところがこの「合わせる」と一言でいってしまっても、それが一体何なのかというのが案外人それぞれ違うようです。

ある人は「タイミングを合わせる」といいますし、ある人は「動作に合わせる」と言います。

さらに、もっとも曖昧なのは「気に合わせる」と言われる場合じゃないでしょうか。

僕は、師匠の井口師範には「宇宙の気に合わせる」といわれました。

「相手の気に合わせる」というならまだしも、話しが宇宙レベルになるともはや意味が不明になります。

井口師範によると「宇宙の気に合わせるというのは自然であるということ」だそうで、合気道の技は、「為さずして為す」というのが一番だそうでした。

僕は、この話を伺って、タオイズム(老荘思想)を思い出し、ある時期は老荘思想にはまったものでした。

結局、そこから得た答えは、 為さずして為すの の意味は、真人(真理を極めた人)が行うことは、凡人と違って、意識せずとも自然と最善が行われるように動くということでした。

要するに武道に置き換えてみると、達人というのは「ああしよう、こうしよう」と考えず、動けば即ち最高の技となっているということです。

これでは、達人と自分の差を自覚するだけでとどまってしまいます。私たち凡人はそこに行く道を知りたくてやっているのに、達人になったときどうなるかという答えでは話になりません。


チャンクダウン

どうしても、その道の最上級の人は、すべて一つの言葉にしていしまう傾向があります。

「合気道は最後は気だけ」「合気道は合わせるだけ」「合気道は神人合一の技」など非常に抽象度が高い表現です。

「気」一つにとっても、非常に抽象度の高い表現です。というのは、その道を究めた人は、武道に限らず、様々な芸術や医学(東洋医学や気功)でも、最後は気だけと言われます。

確かに、武道家の中には書に抜きんでた人が多いのは確かですし、病気の治療を行える人もいます。

ところが、非常に優れた武道家でも武道だけの人もいますし、気功家は医療気功だけの人もいます。また芸術家に至っては、武道を一度も学んでなければ闘うこともできません。

こうした事実から考えると、「気」といっても、人それぞれ得意な分野があるということが分かります。

結局は「気」というのは一つの状態であり、表現であるということが分かると思います。

すると僕たち凡人でも、達人の方向に進んでいくことは可能だと考えられます。それは、初めからすべてを目指すのではなく一つのことに抜きんでることを考えればよいということです。

そこでさらに、チャンクダウン(抽象的なことをより具体的にすること)していくと、僕たちのしている動作を最も最適な状態に変えていくということです。

ですから一つの技を分解して、合わせとは何かを考え、物理学的、生理学的、心理学的により細かくチャンクダウンをしていくことで明確にしていく必要があります。

やるべきことが明確であれば、それを僕たちはやれば良いだけです。それが当会の目指す「世界一わかりやすい武道」です。


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合気道と護身と健康を考えるブログ