皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
さて、前回は和と差の話をしましたが、それに関連して悟りの話をしたいと思います。
「さとり」の語源
悟りということばは、差を取るということが語源になっていると聞いたことがあります。
自分と他人との差を取り除く、自分と他の生物の差を取り除く、自分と周りの環境との差を取り除く、ついには自分と宇宙との差を取ってしまう。
ということで、完全な悟りの境地が生まれるというわけです。
そこで、差とは何かということですが、前回でもお話ししましたが、差とは、違いにフォーカスして、その違いを比べ、区別することであり、他と区別することにより対立が生まれるということでした。
要するに、完全に対立を無くす、即ち和を極めるということであり、宇宙と調和するということでもあるのです。
ところで、人間は、多かれ少なかれ何らかの悩みを抱えています。
その悩みというのは、合気道で言えばぶつかり感であり、言い方を変えると自分と何かの対立であるわけです。
悟った人から見ると、まるで、それよって自分ががんじがらめにまるで縄にでも括られているかのように、身動きとれないぐらいになっています。
ちなみに、悟りを開いた人を「ほとけ」と呼びますが、「ほとけ」ということばは「解(ほど)けた」人ということから来たということなのです。
技の完成には悟りが必要
「合気道の技はただ教わるだけでは上手くならないんや。自分で悟る必要がある。悟って初めてわかるんや」
と、 井口師範はおっしゃられました。
また、悟りは、いつ来るか分からないらしいのですが、それは突然わかるということです。
井口師範は、あるとき波が打ち寄せる海岸を見ていて、合気道の技を悟ったそうです。
「天は、卵を親鳥が暖めるのと同じように、常に気を注いで自分の殻を温めているさかい、ひな鳥が内から殻を破るようにしとかなあかん。それが合気道の稽古ちゅうもんや」
といわれ、切っ掛けはどこにあるかわからないが、真剣に打ち込んでいるとあるとき、何かの切っ掛けで悟りが啓けるのだと教えて下さいました。
己が自然と一体となったとき、宇宙から悟りが下りてくると言われていました。
ですから、教えるというのは、飽くまでもひな鳥が殻を破れるように応援するもので、最後は自分の力で技を悟る必要があるのです。
そのため、教える方には、殻の破れるように教えるという使命があります。如何に分かりやすく、抽象度を下げて教えられるかが問題だと僕は思うのです。
しかし、習得する側は、習得するというのは技の抽象度を上げるということですので、本人が努力して理解にたどりつくしかありません。
要するに天は抽象度の高いところから常にエネルギーを与えいるので、師は抽象度の低いところから弟子を引き上げ、弟子は最後の殻を破ってもう少し抽象度の高いところに至る必要があります。
それが合気道での悟りを開くということですから、技を教わるだけでなく、小さな悟りを積み重ねることも大切ですよね。
多かれ少なかれ何かを習得するときに誰もが、「何とも言えないが悟った」という経験はお持ちでしょう。だから、皆さんも何となく理解ができるのではないでしょうか。
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