皆さん、お元気ですか? 僕はメチャクチャ元気です。
今回は体主霊従と霊主体従について話したいと思います。
体主霊従
合気道の開祖は大本教の出口王仁三郎師に傾倒していたため、出口師の言葉をよく使われたと聞いていますが、体主霊従も霊主体従もそこから来ています。
ちなみに体主霊従というのは、分かりやすい言葉でいうと物質主義に近い言葉です。
要するに、目に見える物質的な物、即物的なものを優先する考えのことで、現代の日本社会がそれではないかと思います。
また、これは現代武道や格闘技にも影響がでていて、現代の武道や格闘技では、 目に見える部分を取り出して 効率的にトレーニングするという考えがあります。例えば、ウェイトトレーニングで体を作り、走ることで体力を作ったりして効率化を目指します。
そのため、精神に関しては非常に大雑把な根性論に終始します。
根性論というのは、根性さえあればどんなことでもできるというものですが、理論もなにもないところがかなり大雑把だと思います。
また、実際はいくら根性があっても、生まれつきの身体、体格、年齢、性別、才能などどうしても超えられない壁というが存在します。
霊主体従
霊主体従は、どちらかというと精神主義に近いものがあります。
要するに体主霊従の対義語です。
合気道は霊主体従の武道と合気道開祖が言われています。
最近、僕が書いているブログを読まれた方は、丹田の話などなるほどと思われると思いますが、目に見えない部分に大切なもがあるというのが霊主体従です。
ですから、昔の武道は、肚(はら)作りといって武道の動きの中で身体をつくり、同時に丹田をきたえました。
ところが、精神主義が行き過ぎて、精神論にいってしまうと、これまた問題です。
合気道は、武道である以上、目に見える形として効果が発揮できないと意味がありません。
いくら、精神性がすぐれているから、精神がしっかりすれば後はどうでもよいと肝心の技がなおざりになってしまうともはや合気道とは呼べません。
やはり、精神と肉体の繋がりを理解して、意識の持ち方で、肉体がどう変化するかを研究する必要があります。
そのために、丹田というのが非常に大切です。
特に大切なのが、人体の天である上丹田を使う精神を使った技術、人体の地である下丹田を使う身体の技術。人体の火と水である中丹田を使う精神と身体を結ぶ技術である合わの技術、これらを修練する必要があります。
要するに、天、火、水、地の4つのエレメントを使いこなすことを目指すのが合気道であり、心の在り方で、すぐに技として形で確認できるのが合気道の誇れるところなのです。
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