皆さん、お元気ですか? 僕はかなり元気です。
今回は、暴力と非暴力の違いの問題について述べたいと思います。
相手の理解とは?
さて、僕が今学んでいるNLPでは、「相手の世界に理解と敬意」という言葉がありますが、このことで僕はちょっと疑問をもっていました。
というのは、理由もなく暴力を振るいに来る相手に理解と敬意をもってNLPで、どう対処するというのかということです。
そんな相手も理解してただ殴られておればよいといいのかという問題でしたが、NLPの使用は、相手と相互理解が必要な場合に、出来る限り相手を理解し敬意を払うというもので、闇雲に理不尽な相手のなすがままにされるということではないということでした。
ところで、現在の合気道では、合気道精神という精神論が先行するため、武道として取り違えというのがあるような気がしています。
というのは、近年、合気道では打撃技である当て身の稽古をあまりしないと聞いているのです。
それは、調和や愛を謳い、世界平和を目指す合気道で、相手を痛めつけるような技である当て身はふさわしくないと考える師範がたくさん現れているからと聞きます。
ところが、合気道の開祖は合気道での愛をときながらも、攻撃技である当て身技を技の中で使うように指導したといわれています。
また、 実戦での合気道の使用には「当て身7分に投げ3分」とまで言われたといいます。
しかし、愛を説く合気道で、開祖の言われた当て身は矛盾していて、合気道にふさわしくないということなのです。
合気道の武道としての意味
僕の師匠である井口師範は当て身は大切と、かなり当身の稽古をするように言われました。
僕が学んだ技術では、距離ゼロの位置から打ち出すパンチから、距離が離れた相手の動きを止める当て身まであります。
このように、合気道の当て身には合気道独自の特別な技術があり、この技術は合気道の独自の世界観を作るのに非常に大切な技術でもあります。
当て身は、前回までにご紹介した、仏教の止と観とよく似た考えにより、相手と自分を結ぶ空間を作り出し、それを媒体として自分・空間・相手を一つにする技術を行うのに必要な感覚を生み出す技術です。
これだけ大切な技術であっても、思想が合わないからと捨ててしまうのは、非常に勿体なし、残念でなりません。
確かに、当て身という技術の目的からすると、確かに相手を痛めつける技術ではありますが、形稽古では、通常は寸止めと言って、当たる手前で止め、実際は当てることがありません。
相手を痛めつける暴力的なものというのは、それは使用する人によるものです。
例えば、当て身を禁じたとしても、四方投げでも、入り身投げでも、相手を頭から落とせば、殺人技になります。
このように考えると、もはや合気道の投げ技すら暴力と言わざるを得なくなります。そうすると、皆仲良くと説くだけが合気道ということになってしまいます。
極端なことを言えば、鉛筆でさえ殺人の武器になります。長い鉛筆をしっかりと握り、相手の目玉を突き刺し、そのまま脳に到達させれば、人は死ぬと言われています。
すると、同じ精神論でいくと、世の中から、ボールペン、ペン、鉛筆などすべて消してしまわないといけないという発想になるのではないでしょうか?
思想として頭で考えるのではなく、何が必要かという点から技を吟味するのが大切と僕は考えます。
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